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 ふう、とココアの湯気を吹けば仄かに明るい空に溶けた。そんな詩的な表現をするくらいには、私はどうやらすっかり疲れている。いや、惑わされている? まあそんなことはどうだっていい。実験室棟の屋上。隣の男は、私と同じようにマグカップに口を付けている。コーヒーの香りが鼻腔を擽る。こちらのココアの甘い香りと混ざって不思議な気分だ。
 元々、この夜明け前のわずかな時間が好きだった。兵士でさえも眠っている、この静かで澄み切った時間が。ちょうど良い気温に設定された室内で鈍った頭が隅々まで透き通っていくような、いや、寝ぼけた顔に冷水を浴びせるような感覚で心地が良いのだ。消費した糖を補給するべく痺れるくらい甘くしたココアは、いつもと同じ味のはず。それが誰かが隣にいるだけでなんだか違うような気がする。多分、ココアへの注目が彼にも分散されているせいだ。
「今日も訓練なんじゃなくて?休息はしっかり取った方が良いよ」
「今日は夜間訓練だ。お前こそきちんと眠っているか」
「最終的にパフォーマンス下がるからね。毎日八時間は寝てる」
「健康で何よりだな」
 ランバネインは楽しそうに喋っている。てっきり私の才能自体にしか興味がないと思っていたので、研究室以外で会うとは思わなかった。いや、どうやら私がここにいるのをわかってやってきたというか。まあ別に誰かといることは嫌いではないし、彼を追い返すほど薄情ではない。
「お前と、話したいことがあってな」
 会話が得意か、と言われれば別問題だ。話が合う合わない以前に、私はどうも会話が飛びがちらしい。話していて混乱する、と言われたことも数回どころではないし。私と喋るのは大変だと彼には伝えていたのだけれど、彼はそんなこと気にしていないようだ。まあ彼は戦闘の才能があるし、少し話が飛ぶ程度の会話にペースを合わせるのは造作もないんだろう。よくわからないけど。
「……私、戦闘は向かないよ」
「わかっている。角があるとはいえお前は今のまま研究を続けていた方が良い」
 戦闘の才能というか、彼は観察眼が凄まじい。出会って数週間が経過するとはいえ、四六時中一緒にいるわけでもない。私のことを誰よりも理解しているみたいな口ぶりはさすが、と舌を巻く他ない。私のことを理解しようと歩み寄ってきた人なんて家族以外じゃ彼くらいだ。この男は何を考えている。私という頭脳を手の内に引き込みたいのか。いや、私の性格をわかっている彼ならば、「クロンミュオンは理解者がいる程度では靡かない」なんて知っているはずだ。友情や忠誠なんかより、研究のできる環境の方をよっぽど優先する。つまりまあ、彼がどんなに手を尽くそうと、私は「彼とは仲が良いから」という理由で全てを捨てて彼に味方するとは限らない。もちろん潤沢な資金なんかがあればその通りではないけど。合理主義だと罵られたことがあるが、残念ながらそうでなければ兵器の開発も食料問題の解決も遠いのが常だ。
「その頭脳を全て戦闘に生かしてくれたなら良い対戦相手だっただろうに」
 彼と関わるようになってからこれだけは言い切れるのだが、ランバネインという男はドの付く戦闘狂だ。彼の話を聞くと過去のデータを閲覧するよりも遥かに詳しい情報が得られる。てっきり私はこれを、彼が手練れだからだと思っていたが、彼は戦闘そのものを愛しているためらしいのだ。こうも頻繁に研究室へ足を運ぶもんだから普段は余程暇なのだとばかり解釈していたがどうも違うようで。毎朝渡り廊下から見える戦闘訓練場で一際大きい砂煙を上げているのがどうやら彼らしいのだ。
「まあ良い。お前が一兵士であるよりも随分良い配置だろう」
 お前の頭脳でこの国はより一層発展する、そう続けた彼は口を開けて笑ってみせる。なんだろう、周囲からは耳にタコができるほど聞いた言葉だというのに彼が言うと違って聞こえる。ランバネインという男に言われると普段よりも少し嬉しいような、「じゃあ余計にこの頭を披露してやろう」と思うのだ。この男ならば多分、私の発案したもの全てを真っ当に評価してくれる。役に立つか立たないかだけではなく、何も忖度せず倫理観でさえも放り投げた彼の意見は大変に心地良い。まあ余程まずいものはその後でキッチリと釘を刺されるんだけど。他と違って真っ向から否定をしないのはとても嬉しいから、彼の話は特に真面目に聞いてしまうのだ。ふふん、とそんな言葉何度も言われてきた私でも鼻高々になってしまうくらいには。
「それで、話って?」
 彼が話がある、なんて言うのは珍しい。普段の生活から戦闘をしているような人なので、これからすることを宣言するなんて滅多にない。もしや私の開発したものが何らかの問題を引き起こしたか。それともトリガーの異常作動か。前者ならばやはり先日提案したトリオン兵のニュータイプだろうか。ああ、人工培養肉の製造方法に難があっただろうか。む、これはどちらも彼から言及されることでは無さそうだ。
「夜明けだな」
「……綺麗。毎日変わらず来るのに毎日違うの、とても好きだ」
 気づけば遠く地平線に日が溢れている。随分と長い時間、彼と何でもない時間を過ごしているらしい。露骨に話を逸らす彼を不思議に思いながらも、まあ夜明けを前にすれば当然か、と思う。夜明けは好きだ。空が白くなり、赤くなり、また青くなる。涼しい風も相俟って全身洗われるような、生まれ変わるような気分になる。脳みその隅々まで洗浄されている感覚が好きで、生活リズムをずらしてまでもこの光景を見てしまう。特に科学で有用だとされたわけでもないのにこんなことをしてしまうなんて無駄だ。だけどこの世界には確かに科学じゃ説明のできない事象がある。それは人間の感情で、心だ。まあそれもいつか、例えば百年もすればメカニズムが解明されるんだろうけど。
「クロンミュオン」
「うん?」
 彼がこちらを見ている。彼の身長では私に視線を向けるのもなかなか大変だろうに。そういえばこの男を真正面から見るのはあまり無かったなあ。大体私は手元に集中していることが多いし彼もあまりこちらを見ない。威圧させると思っているからだろうか。確かに彼の体格では少し怖気付いてしまう。段々と明るくなっている中色づいていく赤い短髪に、うっすらと緑色を帯びた瞳はぎらりとしている。角も他の角つきに比べれば短く主張も少ないが、だからこそ天性の強靭さが際立つ。これらを持って生まれて、その活かし方も殺し方も知っている。彼は暴力的なまでに強い人だ。今そう実感すると同時に、彼は案外細やかな男なんだな、と思い当たる。普段の言動から想像する通りの粗野な男だったら多分、普段から私を正面から見据えて喋っていただろう。
「百年先も、お前と共に夜明けが見たい」
「夜明けを」
 言葉の真意を図りかねている。彼の雰囲気からして多分ロマンチックなことを言っているんだろう。残念ながらあまり文学の類には触れてこなかったのが仇になったか。いや、彼のことだからそこまで婉曲表現はしないはずだ。ただ単純に長生きしたい、ということだろうか。我々角付きは寿命が短い。そもそも普通の人間だって百年生きられる者なんかごくまれだろう。だからこれは「全人類の寿命を伸ばすくらいの発明をして見せろ」という彼からの挑戦状なのだろう。あ、それかタイムマシン開発の依頼だろうか。未来への移動は理論上可能である、と結論付けられてから数年が経つが実用には至っていない。戻れないのだから実用の証明すらできない、というのは置いておくとして依然大衆の浪漫の塊であるタイムマシンを作れ、というのはなかなか面白いじゃないか。そうか、そういうことか。
「うん。百年前だって千年後だって一緒に夜明けを見よう」
 彼はきょとんとする。この言葉じゃ信用できないんだろうか。続けようとした声は彼の笑い声に掻き消された。
「ああ!随分と頼もしい研究者殿だ!」
 呵々大笑。そんな言葉はきっと彼のためにある。それくらい彼はからからと快活に笑って私の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。まだ湯気ののぼるココアの甘い香りが鼻腔をくすぐった。

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