捕食者/被食者のエゴ



 彼との触れ合いが、好きだ。元々違う存在である我々が、性別も種族も何もかも違う個である我々が触れたところから混ざり合っていくようで。ただ肉体が触れるなんて日常でも誰とでもあり得る話なのに、彼とのそれは途方も無く幸福感に溢れていた。いや、もう渾然一体となってしまって熔け合う恐怖と仄かな悦びでおかしくなってしまいそうだった。
 今だってそうだ。ベッドに腰掛けた彼の腿に跨って、ぎゅうと彼の背に手を回す。胸が潰れてしまうくらい密着すればそのまま心臓の鼓動さえ同期させられるような気さえした。言葉はろくに発せないでいる。呼吸音とか、僅かに動く体の衣擦れの音。それに時々かち合う視線だけで意思疎通が完結している。いや、意思疎通なんか要らないのか。互いが、今を一番幸福に感じている。だから動く必要もない。
「レト」
 彼の心音が少し早まる。なぁに、と蠱惑的な顔をわざとして見上げれば、彼はこちらの頬に手を添えた。
 彼の手は大きい。元の姿に戻って手のひらの上に乗ったときも思ったけれど、この少女の姿をしているときもそう思う。硬くて、指は細長い。少しだけかさついているその手はけれど温かくて、とても安心する。思わずこちらから目を瞑って頬擦りをした。ペンを握っているときも、剣を扱っているときも、私の手を取るときも。力の加減の差はあれどいつだって真摯で、丁寧で、優しい彼の手が好きだ。惚れ惚れしてしまうほどに完成された彼の、最も触れやすく彼らしさの現れた部分。自らの頬と手で挟むようにして堪能する。するる、と指先で彼の手の甲を撫でる。関節の凹凸、浮き出た血管の柔らかさ。冷たい末端が解けていく感覚に蕩けそうになる。
「……レト」
「ふふ、わかってる」
 目を開けると彼が不満げにこちらを見ている。少しだけ意地悪をした。ふに、と唇を頬に押しつけて、戯れのキスをひとつ。それから今度は唇同士を擦り合わせた。彼は端から端までぴしりとしているのに、唇はこんなに柔らかいのがいつも不思議だ。薄皮一枚隔てて滾る血が巡っている赤を、ゆっくりと自分のそれで確かめるように何度も押し付けていく。どっどっと走る心臓の音はまるで掛け合いのように加速していく。時折彼が漏らす吐息が何よりも熱くて茹っていく。腹の底まで燻らせるような体験に、例えば捕食者の本能のようなものが疼いた。
 照れ笑いみたいに出した舌で、ずるる、と彼の口を辿る。間一文字に結ばれていることの多い彼の大きな口を、右から左へ。ああ、食べてしまいたい。上唇を食んだ。彼の体がびくりと揺れる。
 目を閉じた。彼の視線は鋭くて、眩しくて、とても長い間見ていられない。古い天秤のようなくすんだ金色に、肉食の縦瞳孔。きっと彼は今迷っている。このまま私に合わせて口を開けて良いかどうか。彼は自分が恐怖の対象になることを理解しているらしく、いつだって私に接するときはコンマ何秒か戸惑いを見せた。その迷いすら愛おしい。彼の尖った犬歯に舌を押し当てたらどれくらい痛いだろう。彼の口内はどんな温度なのか。そんなことを考えているうちに、彼も僅かに舌を出した。
 舌の先を触れ合わせる。ぬるりとした感覚は背徳的で背筋が粟立つ心地だ。確か、人体の中で一番神経の集まっている場所。ただ抱き合うのとは桁違いの感覚の洪水に呑まれてしまいそう。せいぜい一平方センチもない接触面積なのに、こんなにも。
 彼が軽く開けている口へ、無理矢理舌を侵入させる。熱い。それだけでぐちゅりと音が響くのはなかなかに淫猥で、ぞわぞわとする。彼の舌は存外おとなしくて、私の舌に合わせて引っ込んでしまった。ざらついた舌の上を悪戯に辿って、唾液の溜まる舌の裏へ。時折びくりと揺れる彼が面白くて、愛おしくて、たまらない。ふう、と漏れる低い息。かわいい。彼にそんな感情を抱いてしまうのは倒錯的な気がして腹の底が擽ったい。このまま彼を味わい尽くしてしまいたい……いや、もう丸ごと、彼を呑み込んでしまいたい。羽虫のように良い口触りだろうか。ああ、一口ではもったいない。本能的な欲望がアンビバレンスに理性をぐらつかせる。
「っふ……」
 我慢ならない。上顎をずるずると蛇のように這いずり回れば彼はくすぐったいのか、或いは仄かな快楽を感じているのか。上擦った声を出した。好きだ。かわいい。彼はどんなに色気のある顔をしているだろう。どうしても見たい。別に禁じられているわけでもないのに背徳感さえ感じながら目を開ける。
「っ、ん」
 ああ、まずい。寄せた眉根と、上気した頬。あまりにもそれが色っぽくて、食欲さえ刺激しうるほどに扇情的。こちらの戸惑いを混ぜた吐息に気付いた彼がゆっくりと、瞼を上げた。
 ああ、彼が。彼の方が余程捕食者じゃないか。
 彼は意識なんかしていないはずだ。それなのにぎらりとした、熱っぽい視線に射抜かれた途端に本能が彼を喰らえないと悲鳴を上げている。上品な顔立ちで、愛おしげな表情をして、それでもなお肉食獣の残虐性が覗いている。勘違いをしている。喰われるのは私だ。尻尾を掴んで、一口で。
 それを想像すると、大変に、興奮する。恐ろしくて堪らないはずだ。それなのに、彼に呑まれてしまうのはきっと素晴らしく気持ちの良いことなんだろうなと思える。ああ、このまま、食べてほしい。どうなっている。先ほどとは百八十度違う思考に自分でさえ追いつけない。
「セベクくん」
 ちゅ、と最後にリップ音を響かせて彼の顔を直視する。まずい、まずい。歯止めが効かない。どうせ人でないのだから本能に忠実になったっていいのだろうけれど、これは本能としては間違っている。彼に体重を預け、どさりとベッドに押し倒した。何もわかっていない顔をして、色白の顔を耳まで赤くして、それでもこちらを期待の目で見つめる彼がいる。苦しくなってブラウスの第二ボタンまで外しながら彼を見下ろした。ごくりと鳴る喉の動きを、じっとりと見ていた。
「好きだよ」
 彼の耳元で、そう免罪符でも掲げるように囁いた。そのまま薄い耳朶を食んで、至極美味しそうな肉厚の首筋に舌を這わせた。
「いい?」
 てんで間違っている。喰われたいのに、味わいたい。あの歯に噛まれたらきっと気をやるくらいに気持ちいいはずだ。
「私、きみに、食べられたい」
 恍惚という表情があるのならば、きっと私はその顔をしていた。厚い胸に手を置けば彼の心音がありありとわかる。動揺が手に取るよう。簡単なはずだよ、だってそのまま、理性を放り出して口を開けるだけだ。ねえ、本心からだ。急所だって全部晒してしまえるんだ。だからさ。言葉に出さないままで、もう一度彼の唇に口付けた。

prev next

back
しおりを挟む
TOP



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -