四
 青が投影された彼女の顔は、その色合いとは裏腹に随分と楽しそうな表情に彩られている。アクリルガラスにへばりつき、今頃子供でもしないくらいのはしゃぎ様。自由気ままに泳ぐ魚たちを、彼女は飽きもせず眺めている。
「なんだろうねあの魚!美味しそう!」
 とまあこんな具合、夏の暑さにやられたか、彼女はかなり頭の弱い方向で浮かれ倒している。まあ別に、この水族館へやってきたのは任務のためでもなんでもなくただの観光なんだから構やしないだろうが。 本来ならば、呪霊の討伐でもなければ彼女とは一緒に行動するつもりはなかった。なんだかんだと都合が良いことが多いから共にいるだけで、つまりこういう予定もない日であれば単独行動が常だ。それがどうして付き合っているかといえば……まあ気まぐれにすぎない。水族館に行きたいと言い出したのは彼女の方から。「推しが行ってたから聖地巡礼したい」とかなんとか。まあその気持ちはわかる。此度の夏の彼女の目的ともいえるコンサート、その二日前に彼らが楽しんでいたからというのは至極納得がいく理由だ。それに俺が着いていく必要なんか無いのだが、「水族館は定番のデートスポット。予行演習として雰囲気を味わっとくのも良いのでは?」なんて言われたら確かに悪くはないと思ったのだ。ここに来なくとも、水族館というものはある程度その構造や展示物、催し物は共通である。イメージトレーニングなんて朝飯前だが、実際のものを見るのとはまた違う。この状態であれば高田ちゃんを幻視するのだって容易い。うむ。高田ちゃんは魚の群れよりもろくに動かないクエに熱中している。可愛い。
「葵。写真撮ってもらえる?」
「ああ。良かろう」
 投げ渡された彼女のスマートフォン。耐衝撃性能のみを追求した武骨なデザインのそれは、件の推しグループステッカーが貼ってあることでどうにか彼女のものだとわかる。
「照明の具合からすると別のフィルターの方が良さそうだが」
「そういうとこ本当意外だよね。うん、任せる」
 まあそうだろうな。一般的な男子高校生、それも筋骨隆々な部類の奴が自撮り事情に詳しいのは「意外」に他ならない。それも時代の最先端であるとされる女子高生に勝るとなれば。いや別に自分には全く必要のない技量であることは重々承知している。けれどやはり、いざ高田ちゃんとお付き合いしたときに「そんなことも知らないのか」と落胆されるようなことがあってはならない。高田ちゃんのためならばどんなに日常で不要なものでも身につけるべきだ。
「撮れたぞ」
「チーズも何も無しとは」
「不意打ちの方が自然な顔になる。お前は作り笑顔が下手だからな」
「うわぁすごい気遣い……流石だなあ葵は」
 へにゃりと笑った彼女に、あ、今こそシャッターチャンスだったかと思わなくもない。写真を確認する彼女は満足げだし、十分だ。背後に男が映り込んでしまっているが仕方がない。夏休みのレジャー施設なんてこんなものだ。それも夜の水族館、なんていう夏季限定のイベントが行われているこの時間帯では。ああそうか、道理でカップルに溢れているわけだ。
「君が一緒で良かったと思うよ」
「何だ、いきなり」
「いや?葵は強くて頼りになるって話さ」
 そうか、とだけ答えた。互いに明日の命もわからぬ身、感じたことは唐突であろうと口にすべきだという意識が根底にあるのだろう。明日はおろか、瞬きの後にどちらかが消えた時、残る禍根や後悔は最低限にしておきたい。覚悟は勿論できている。彼女が死んでもその屍を踏み越えていく心算はある。それでもやはり、少しでも彼女に対する解釈を違えたくは無いのだ。
「君がいると調子良いしさ、心強いよ」
 などと。彼女の言葉が心地良いのはこちらも同じ。仲が良い、では片付かない、決して言語化できない関係性に満足している。

「お待たせお待たせ。トイレから少し迷っちゃってね」
 水族館からそう遠くない砂浜。ざりりと踏んだ砂と、さざなみの音を背景にしたその声は少し霞んでいる。普段とは異なるその様子がつ、と引っかかる。
「明日の討伐はこの先だっけ」
「ああ。お前はコンサートだから俺一人で担当するが。お前の目で見て不安なところがあれば言ってほしい」
「私ができることは君にも十分できるだろうに」
「はは。そうかもしれんがな」
 へらへらと笑って、一息置く。そして言葉を発そうとした彼女の先手を打った。
「して。一つ良いか」
「何だい」
「お前は、誰だ」
 きょとん。彼女はそんな擬態語を隣に浮かばせている。ものの数分の間に確信に変わった違和感を告げた。遅れて来て以降、彼女の挙動がどこかおかしい。彼女の声はもっと、自信に満ち溢れた通る声だったはずだ。彼女との距離感はあと数センチ近いはずだ。彼女はこちらの目を見ない、隣にいるのが常だからそんな必要がない。そういった相違は挙げ出せばキリがない。だから問うた。 
「何を言ってるのさ、葵。私は私だろ?」
「俺の直感が告げている。お前は彼女ではない」
 なかなか上手かったが、俺相手なのがまずかったな。少なくとも高専のメンバーであれば騙されていただろう。だが俺は、伊達に彼女の幼馴染をやっていない。しかし彼女に化けるとは、俺の命でも取りに来たか。
「葵、私は、」
「それ以上その口で俺の名を呼ぶな」
「私を偽物だって言うのかい!?[[rb:恋 > ]][[rb:人 > ]]の判別すらつかないなんて、」
 踏み込む。彼女の形をした人間に一つ、呪力を込めた拳を叩き込んだ。咄嗟に防御体勢を取るも遅い。ずしゃりと重い音を立てて転がった奴はやっと、彼女の仮面を剥がしている。顔に見覚えは……ああ。先ほどの写真に写り込んでいた奴か。もしやずっとつけられていたか。式神でも使ってくれれば探知できたものを。
「俺の恋人は高田ちゃんだけだ」
「じゃあお前らは、」
 ええいまだ喋るか。相手の戦闘スタイルが全くの未知である以上、これ以上の会話は不要。言葉を交わすということは、友好の証であるということ。これを利用した術式はごまんとあるし、さっさと戦闘不能にさせるに限る。
 さて、こいつの目的は何だ。誰かの指令で俺を殺しに来たか。恨みを買った覚えはないが、売りつけられることは多々ある。また知らないうちに僻まれでもしたのだろう。それか、一級呪術師という箔のついた人間を斃すことで強さを証明したかったか、あるいは使役する呪霊の糧にでもしたかったか。まあ良い。どんな理由があろうと今こちらに敵意を向けていることは事実だ。
 一つ、二つ。攻撃を仕掛けるも奴は軽い身のこなしで躱していく。歳は二十代ほどの若い男性。得物は右手の……おそらく三鈷杵。インドラ神の名を借るとは。だが弱い。決定打に欠けることは明らかだった。恐らく、男の術式は変化の類。対呪霊というよりは対呪術師向けで、近しい人に化けて油断したところを仕留めていたのだろう。であれば個人の戦闘力はそこまで高くない。だからこそ今のようなサシの勝負は分が悪い。隙を作って戦闘を離脱したいはずだ。
「なッ」
 一つ、手を叩く。蹴り上げると同時に呪力を込めていた貝殻と、呪具を入れ替えた。不義遊戯は奥の手、軽々しく使うのも避けたいところだが、男はこちらを既に調べ上げているはずだ。それなら遠慮はいらない。普段使わないからと感覚を忘れることもないのだが、偶には訓練がてら戦闘に使っておきたい。
 目に見える動揺に、男は冷や汗でも垂らしている。鼻っ面に一つ、鳩尾に一つ。
「幼馴染だ」
 そうだ、幼馴染だ。俺と彼女の関係はそれ以上でも、それ以下でもない。もう気を失った男に告げた。何の気紛れだろう、彼女との関係なんか言葉にするまでも無いというのに。
 俺たちの関係はなんでもない。血の繋がりも、呪力の共通点も、書類に明記される関係も、そんなものは存在しないのだ。けれどただ一点、幼い頃出会ってうっかり波長が合致してしまったばかりにここまで深い縁を結んでしまった。いや、たとえ生まれる場所が異なっていたとて俺と彼女はこういう、腐れ縁のような関係になっていただろうと思う。宿命だった。何度生まれ変わろうと恐らく、彼女とは肩を並べている。そんな確信に近い妄想は俺たちの間の共通認識となっている。互いにこの関係を鬱陶しく素晴らしいと思っていた。恋人になるにも、他人として見限るにも近すぎる。自他のちょうど境界線にいる存在が彼女であった。
 ひどく脆い結びつきだな、と思う。どちらかが記憶を無くしてしまえばそれまでなのに、それでもなお彼女が背中合わせでいてくれたらと願っている。
「葵!」
「無事だったか!」
 男を拘束するための縄の一つでも無いか、と周囲を見回していた矢先。彼女の声が波音を掻き消すように響いた。
「不意打ちを喰らってさ。防御が薄くて動けなかったんだ」
 五体満足だし平気平気、と続ける彼女に安堵のため息を吐く。
「葵のことだし大丈夫だとは思ってたけどね、まさかこんなに早く済んでるとは」
「甘く見てもらっては困るな」
 彼女が無事で良かった、とは思う。だが彼女がこれでやれらるような奴だとは微塵も思っちゃいない。だから特段、彼女に声を掛けることはしない。もしも怪我や呪術の残滓があればすぐに気がつく。
「違和感は多数あったが。俺の恋人だと自称したので攻撃に出た」
 手早く男を拘束していく彼女はふ、と吹き出した。
「まあ男女が二人でいると恋人だと思うか。それも水族館だし」
「そういうものか」
「小学校の頃からそうだよ、まあ君を怖がって誰も直接言わなかったみたいだけどさ。勘違いしてくれるなら好都合だ」
 利用できるものは利用しないとね、と続ける彼女に疑問が一つ。恋人同士、なんて証明のできない関係性の場合、他者観測でそう思えるのならば実際もそう定義されてしまうのではなかろうか? 当事者であるとはいえ、仮に恋人でないと思っているのが世界に二人だけだったなら?
「また変な理論展開してるだろ。私たちは幼馴染。君の恋人は高田ちゃんだろ?」
「それは当然だ」
「まあでも。万が一君が高田ちゃんと結婚できず、挙句一人でいるのが嫌だってんなら隣に呼べよ。それくらいの甲斐性はあるつもりだ」
「では。結婚式のスピーチ原稿でも考えとくんだな、友人代表」
「嫌いじゃないぜ、君のそういうとこ」
 彼女はけらけらと笑っている。
 幼馴染である。彼女も俺も、互いをそう認識している。ああそうか。最早これは呪いに近い。こんな呪いを引き摺っていては、彼女も俺も互いの存在から離れられない。それがわかっていてなお、隣にいるのを幸福に感じるのは、決して逃避やリミッターなんかではない。心の底からそう思っているのだ。呪いであれ祝福であれ。互いの魂までこびりついた因果宿命は消える気配なんざどこにもない。
「あと五分もすれば呪詛師の回収が来るらしい」
「早くて助かる。明日は生きる理由だし!」
 兎にも角にも、これくらいの軽さで生きている彼女の空気は肌に良く馴染む、という話に過ぎないのかもしれないのだが!
 
 夏の魔物にご用心! 了

 

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