陽炎にセイレーン



 夏休みの午後。課外授業の後は自由開放されたプールサイドで過ごすのが常になっていた。
 白い腕が裂いた水塊の隙間。その自分一人だけが通れる道を通り、彼女は青い水面を縫うように泳いでいく。泳ぐ、というよりも氷上を滑っているような滑らかさでもって彼女はあっという間にくるりと回り壁を蹴って折り返す。ただその繰り返しだった。それでも飽きないのは、その姿があまりに完成されていたからだろう。一寸の狂いもなく透明な青へ差し込まれる腕、奏でられた音楽のように心地よい水飛沫。毛先へ向かって段々彩度の低くなるグラデーションの髪がそのスピードを感じさせないほどゆったりと揺蕩っている。熱帯夜の風鈴のように、真夏の朝顔のように。涼しげなその光景は蝉時雨や蒸すような気温でさえガラスを隔てたもののように感じさせた。
「退屈でしょ」
 人魚は気まぐれだ。泳ぎに飽きたのか、はたまたこちらの視線を感じたのか。壁を蹴った力だけでプールサイドのベンチの前へ来た彼女はそう言った。タイルの上へ腕を組んで頬をこてん、とくっつけたその顔は先程までの泳ぎを見せた人物とは思えないほど幼い。彼女は視力が低い。眼鏡がないとあまりこちらを捉えられないらしく、どこか焦点の合わないエメラルドグリーンの瞳がこちらを見上げていた。
 学校のプールは夏季休暇中も開放されている。水泳部が入る前の昼食時間は誰もおらず、彼女はいつもその時間で泳ぎたがった。一方でプールを利用するには事故防止の観点から二人以上が条件であり、彼女に依頼されてここにいるのだった。彼女に振り回されるのは別に慣れているし、それが嫌ではない自分がいる。泳げもしないくせに最も日差しのきつい時間帯にプールサイドにいるのはさぞつらいだろうと周囲からは言われるが、それは彼女の泳ぐ姿を知らないから言えること。など、戯言を少し。
「いや、お前の泳ぎは見ていて飽きない」
 人魚のようだ、と思った。
 きっと彼女のフィールドは、こんな重苦しい空の底ではないのだ。自由で、ゆったりとした冷たい海の中。縦横無尽に泳ぐ彼女の姿はきっと踊っているようだ。小魚と会話する様も、沈没船に腰掛けて歌う様も、まるで見たことがあるかのように脳裏に再生される。いや、きっと見ている。それが前世であるか、夢の中であるか、別世界であるのかはわからないけれど。
 揺れる水面を通せばあるはずのない尾びれが揺れる錯覚がして――彼女のような人魚なら、喰われてしまっても良いと思った。もちろん、彼女が仮に人魚だったとして、マーメイドやセイレーンのような存在であるかどうかは不明だ。様々な創作を見ればそんな血腥い人魚の概念だけというわけではない。もちろんそれは後世の創作が主にはなっており、本来の神話や民間伝承などでは恐ろしい怪異としての存在ばかりが見受けられる。人を惑わせ、喰らうもの。
 けれど、彼女に対してならば喰われてしまうのも良いと思えた。歌声に惑わされふらりと溺れその鋭い歯が首に突き立てられる様は、きっと官能的だ。流れた血に温度を失う身体は彼女の細い腕に抱かれ、ぶつんと筋肉の千切れる音を内側から聞く。血に塗れた口元でにっこりと笑う彼女はきっと、それでもグロテスクとは言い難く神聖ささえ見出してしまうのだ。そんな様子を視界の端に、彼女の血肉になる悦びに目を閉じる。なんと素晴らしい最期だろうか。ああ駄目だ。感じないと言ってもしっかり暑さは影響を及ぼしている。こんな気持ちの悪い思考を平然と展開してしまうなんて。
「…ディエスすけべなこと考えた?」
「考えてない」
 乱杭歯を覗かせ笑う彼女にドキリとしながら反射的に返す。彼女へ向ける感情はそんなかわいらしいものではないことには目を瞑りながら。幼馴染だ。恋がある。それだけなら、先程のような考えはしないはずだ。
「あ、そうだそうだ。今度の水曜日暇?」
「ああ。もう課外も無いしな」
 休暇中といえど存在する夏季課外。それが終わるのが来週の火曜日。それ以降は特に忙しい部活でない限り完全な休暇が二週間ほど続く。生憎まだ何も予定は入っていないし、夏の予定なんて殆ど無いに等しい…いや、わからない。去年は予定も何もいきなり呼び出されることがままあったか。まあでも、その日なら問題ないだろう。
「やったぁ。ほら、海沿いに水族館があるから、一緒にどうかなって」
「水族館か…確か今は夜の水族館をやっているな」
「そうそう、夕方くらいに着いて近くの砂浜を散歩とかして待っててもいいなって」
 彼女の提案に頷く。彼女の言う水族館とは学校の最寄り駅から四駅のところにあるごく小さな水族館だ。定番とも言われるイルカショーも無く、特段希少な生物を展示しているわけでもない。水棲生物が好きでなければ物足りないと評価するであろうこの水族館はしかし、一定の人気があるのも確かだった。時間を忘れて静かにただ魚を眺められる空間は、確かに居心地が良い。
「いいな」
 楽しみ、と微笑んだ彼女は小指を立ててこちらへ伸ばす。指切りか、懐かしいとその柔らかく白い指に小指を絡めた。
 
 ○○○
 
 つい、と小魚が泳ぐ。色とりどりの熱帯魚が花吹雪のようにひらめいて、岩の間にはそれらを虎視眈々と狙っている中型の肉食魚。生命に溢れた青の世界は、ひどく美しい。一つだけ惜しむらくは、これがごく小さい液晶の中の映像に過ぎないということだ。
「イサベル、いい加減機嫌をなおしたらどうだ」
「別に機嫌悪くないもん…」
 彼女はそう言いながらも頬を膨らませている。楽しみにしていた予定がなくなってしまうことほど残念なことはない。けれども、予想だにしない軌道で台風が来て電車も全て運休、挙句水族館も臨時休館となれば仕方がない。そもそも窓の外は激しい雨と風。閉め切ってエアコンを入れていても響いている風雨の音は、どう考えても外出できる状況ではない。それでもやはりやるせなさはあり、折角だから彼女ともに過ごすことにしたのだ。互いに一人暮らし、ついでに住んでいるアパートも同じだからだ。
「来週にでも行くか?」
「来週はお盆だからなあ。水のそばにはあんまり近づきたくないの」
 むくれたままでクッションを抱きかかえている彼女の言葉が少し意外だった。彼女はいつだって水場にいるイメージが強い。それこそ春休みに海に飛び込もうとしていたのを止めた記憶はまだ新しい。
「お盆はさ、引きずり込まれちゃうんだよね。だからわたしでも泳がないし、できれば水の近くには行きたくない」
「引きずり込まれる、か」
 彼女の言葉を繰り返す。確かに夏に紐づけられやすい怪談ではよく聞く話だった。地獄の釜の蓋が開くとか、死者が戻ってくるとか。だから八月半ばには水難事故が起こりやすいのだという。事実、その時期になると海では離岸流が起こりやすくなるという見解もあるので彼女の言うことは間違いではないのだろうが。
 無意識に彼女のことを海の中の存在だと認識しているので、彼女が海に引き摺り込まれるのはあり得るのかもしれないなとも思って、恐ろしくなる。彼女は生まれた時から人間だ。それは間違いがない。彼女の足はきちんとした人間のそれであるし、鰓呼吸なんてしない。それをわかっていてもなお、やはり彼女の存在は陸上よりも海中にある方が自然だと感じるのだ。すべてのものは自然な状態であろうとする。すなわち彼女もまた、自然の摂理によって海に連れ戻されるかもしれなかった。もし仮に前世や並行世界なんてものがあるのならば、きっとそこでは彼女は人魚だった。捏造や妄想だと言ってしまえばそこまでだが、下半身が魚の彼女が泳いでいる光景を確かに見たことがあるのだ。実際にはあり得ないとわかっているのに、それは「記憶」として脳内に保存されてしまっている。どんな事象もすべて科学で解説できると思っているが、それでもこの幻覚じみた現象だけはてんで理解が及ばなかった。
「そうだ、イサベル。天体観測はどうだ?ちょうど来週は流星群が」
「流星群!」
 そんな厄介な思考回路を取っ払うように言えば、彼女はぱ、と顔を上げる。どうやら機嫌はなおったらしかった。彼女は同年代のはずなのに、どうもその幼い顔つきのせいか世話をやいてしまう。いや実際、少々頼りないところがあるので(よく課題の提出日を忘れていたせいで怒られている)仕方なくもあるのだが。もちろん、彼女の真価はそこではない。彼女はまるで何十年も生きてきたかのように物事を知っている。それは大抵物語で、遠い異国のものもあればこの近辺の都市伝説じみたものまで様々だった。
「裏山だったら見えるかな?何持ってったらいい?」
 きらきらと光る瞳がこちらを見つめている。身を乗り出してうんうん、と頷く様はやはり、歳相応でなく可愛らしい。幼い弟妹がいるわけでもないのでわからないが、きっと妹がいたらこんな感じなのだろうな、と思う。うむ。彼女に言えば「わたしのほうがおねえさんなのにー!」と言うのだろう。その言い方がまず子供っぽいことに気づいていないのがいじらしい。なんて彼女には絶対に言えない失礼なことを考えながら頷いて言った。
「ああ。次こそは晴れるといいな」

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