マーメイド・メランコリー・モラトリアム



「どうした、そんな物騒なもの持って」
 腰にのしかかる人体の重みに声をかけた。もちろん衣擦れの音に目を覚ましてはいたものの、自分の音にこちらが目覚めたと分かれば彼女に申し訳無さを抱かせてしまうだろうと黙っていた。少女はぎくりと同様に身体を揺らすこともなくただ黙ってそこに居る。暗闇にぼんやりと浮かび上がるシルエットは、口を開こうとしない。
 手探りでつけた枕元のランプ。オレンジ色の光に照らされてきらりと光るのは瞳ではなくナイフの刃。逆手に握ったそれは少女の白く傷一つない手には全くと言っていいほど似合わない。イサベルでなければ、一歩こちらへ近付いた時点で迎撃している。彼女であってもそのはずだったが、生憎彼女からは微塵も殺気というものが感じられなかった。だから今、彼女の手にある武器を見て僅かに驚いた。
「…人魚姫ごっこ?」
 うーん、としばらく考えて、彼女はそんな曖昧な回答をした。そうして自らの手に握ったものを一瞥してからことりとベッドサイドテーブルへ置く。互いの瞳を一瞬だけ映していた刀身は、今は血で濡らしたようにランプの灯を反射している。人魚は随分と飽き性らしい。彼女の真意を問い詰めるつもりはない。彼女のことはわからないからだ。いくら理解しよう、理解したいと願っても彼女の思考はてんでわからなかった。それが生きてきた年月の差なのか、はたまた環境のせいなのかは判断しかねる。けれど理解できなくても、共に生きることはできる。一緒にいるからと相手のことを一から十まで理解している必要はないのだから。
「あなたの心臓をナイフで刺したって胸の痛みは消えないし、泡になって消えることもできないのにね」
 少女の細い指が胸の入れ墨をするりと撫で中心をとん、と突く。大きな瞳が細められ、柔らかな笑みで彼女はこちらを見下ろした。眼鏡や彼女の白い頬にランプの灯りが反射して、ひどく幻想的だ。それでいて彼女が普段纏うことのない妖艶さまでも帯びているようで、思わず息を呑んだ。そして彼女が言及したのは人魚姫の話だったのに、何故か、セイレーンの話を思い出していた。美しい声と姿で人を惑わせ喰らう人魚。神話の中に描かれる彼女たちも、果たしてこのように美しかったのだろうか。
「だってわたし、恋をするにはちょっと長生きしすぎる」
 とさり、抱きつくように少女はこちらへ倒れ込んだ。低めの体温が熱を奪うようにひたりと寄り添い、遅い拍動が揺れる。たまらず恐る恐る手を伸ばし、彼女の背を撫でた。彼女の薄い胸板は、少し力を入れただけで押し潰してしまいそうだと思う。彼女の表情が見えない以上、すっかり動けなくなってしまっていた。
「なーんてね。イサベルさんの唐突メランコリーでした」
 けろり。大丈夫か、と声をかけようかと思ったところで彼女は顔をあげる。今までの感傷的な雰囲気が嘘のように少女はへにゃりと笑っていた。いつもの、子供らしい(と言えば彼女は少しむくれるので面と向かっては言わないが)溌剌としたその顔はこの部屋には少し不似合いだ。
「…泡になって消えたかったのか?」
 ふ、と笑いを漏らしながら彼女にそう問う。少女はどこか、永遠のようで不安定だ。例えるならば、海中を照らす陽光。その概念は半永久的なものであるが、一方でその模様は一瞬たりとも同じものではない。概念を愛していたとして、この一瞬のきらめきを無碍に扱うことなんか到底できないし、逆もまたそうだ。だからいつも、彼女からうっかりこの手を離した瞬間に、彼女がそれこそ泡になって消えるような気がしてならない。もちろんそんなのただの妄想に過ぎないのに。
「あなたのいない世界ならね。そんな世界であと三百年なんて嫌になっちゃう」
「それなら良かった。イサベル。お前に消えてほしくない」
 深夜というものは人をおかしくさせる。普段はきっと出てきやしない甘ったるい言葉がとろりと溢れてしまう。幸い、羞恥心というものはぐっすり眠っているらしかった。
「そのつもりだよぅ」
 そんなの当然じゃん、なんて言いたげな顔で少女は言う。両手で彼女の頬を撫でれば少し不思議そうにして三秒、頭の上に電球を光らせてちゅ、と柔らかな唇をこちらの頬へ触れさせた。閉じていたらしい瞳を少女が開けばエメラルドグリーンのはずのそれはランプの灯のせいで黄色に煌めいている。それがどうにも蠱惑的で――いや、もう言葉では言い表せなかった。蠱惑的と言うほど下世話なものではないし、神聖というほど手の届かないものでもない。救いだとか、希望だとか、この世界の輝かしいものすべての要素を兼ね備えている。それでいて仄暗さや執着や、そういった忌避すべきものまで内包している。今の彼女に最も近いものをあげるとすればそれは、海に他ならなかった。すべてを包み込むその概念は、今、こちらを見て微笑んでいる。
 いい?とだけ少女は言った。何が、と聞くほど無粋ではない。ああ、と肯定の返事をするために開いた口は、既に柔い恋に縫い留められていた。甘く愛おしい、宝石のような恋だった。

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