八百比丘尼はかく語りき



 夢を見る。
 彼女が傍にいないときは只管に、海中で微笑む彼女の夢を見ていた。大体が幼い頃溺れた記憶のリフレインでしかなかったが、彼女が常に傍にいる今では完全に現実と乖離してしまっている。現実では起こらない、いや決して起こしてはいけないものばかりだ。夢は現実の裏返し、欲望の表れであるとはよく言うが、それでも、あんまりだ。こんな欲望を彼女に抱いているなんて信じたくもなかったし、そんな疑念を持つことすら御免被りたい。ああほら、抗ったってまた夢は始まっていく。

○○○

 ギイ、と音を立てて自室へ入る。船室が手狭に思えるほど大きなベッドの上では人魚が寝息を立てていた。波打ったシーツに広がる海の色をした長い髪、ねずみ色の丸っこいサメの腹。ベリータ、と呼びかけた。すうすうと安らかな呼吸音だけで、当然のごとく返事はない。
 どうやら今の自分は酔っているようだ。それも、酩酊。更に口内にこびりつくのはアルコールだけではなく血液の臭み。きっと蹂躙の後だったのだろう。致し方なかったとはいえ、もう慣れてしまったとはいえ、大変に気持ち悪い。危険信号の頭痛さえ分厚いガラスの向こうのようにしか感じられない。そこまで飲んで何をしたかったのだろう。まあでも、血の味に慣れるまでは時折こんなことをやっていたっけ。不味いだけの酒を流し込んで、どうにか味を上書きしていた。そうでもしないと、発狂してしまいそうだったから。
 ベッドの上の少女は目覚めない。この少女に、恋をしている。もう二十年以上も前からずっと。挙げ句恋に留まらず崇拝じみた感情まで抱いて、それでも彼女のことを昔と変わらぬ思いだと人畜無害に繕ってただただ手元に置いている。愚かだ。どこまでも愚かだ。たった一人、恋する相手に抱いた感情を真っ当に昇華することさえできやしない。
 夢の中の自分は少女の腹に手を触れた。尾から胴へ向かって撫でればざらりとして鋭い痛みが指先に走る。
[ベリータ]
 ぐるりと喉が鳴った。
 身体に宿した悪魔が喰ってしまえと叫ぶ。太古の肉食獣は随分と本能に忠実らしい。自分にさえわからない感情などすべて食欲に変換してしまえばこの世は大変に生きやすい、それは事実なのかもしれないが。
 一般的に、動物系の能力者というものは性格が変わりやすいのだという。肉食生物の場合それが顕著で、変身すると人格が変わってしまう者も少なくない。自分はあくまで抑え込んでいるし、周囲にも案外大丈夫なんだなと言われたこともあるが、それはまだ理性が働いているからだ。能力を発動すれば綱渡りになる。人間の象徴たる理性をなんとか繋ぎ止めておくのは、随分苦しい。この星で最も残酷な生き物である人間が言うのもお笑い草だが、肉食獣の本能は確かに、残虐だ。
 歯止めも効かず獣になり始めた身体はそろりと少女の背鰭に歯を立てた。サメの象徴のような肉厚なそれは、けれども牙の前には無力だった。室温と同じ温さの肉はいともたやすく穿たれた。そのまま食い荒らすのは気が引けて、ぬちりと生臭い音とともに牙を引き抜いた。少女は予想に反して小さく呻いた…いや、既に覚醒してそれでもなお枕に顔を押し付けて悲鳴を殺しているのだ。それが何故か考えられるほど、獣は利口ではない。うつ伏せになる少女が無抵抗なのを良いことに、今度は第二背鰭の付け根を噛んだ。ずるりと染み出す血液は更に悪魔を焚きつける。既に人間のサイズでなくなった赤い舌が器用に舐め取っているのを、傍観さえしている気分だ。
 決して少女を腹に収めたいわけではなかった。そう信じたかった。このまま彼女を頭から爪先まで喰らってしまえばどんなに最高で、どんなに最低だろうかとは少しだけ考えはした。けれどもなんとかしがみついた理性は噛むだけに留めておけと中途半端に囁いている。消えぬ傷をつけてしまえば彼女は永劫お前のものだ、指輪より確実に、戸籍より明瞭に――身に宿したのが悪魔なら、本性はどうも獣らしい。そんな思考を繰り広げているのはあくまで夢の中の自分で、観測者としての自分は冷静だ。毎回、五感はしっかりとある癖に自分じゃ動けず考えすらもままならない。ああこれは、どう考えても悪夢だ。自分にこんな欲望があるという可能性に気付くのは、それだけで吐き気がする。
 既に鱗で覆われた脚に震えた尾鰭上葉がひたりと当たる。それを無視して彼女の背を覆う髪を掻き分けた指は既に三本で、鋭い爪が少女の纏うシャツをも裂いていた。
 ディエス、とこちらを呼ぶ少女の声が聞こえた気がする。白い背は、人間の部分は、もう慣れてしまった味がするのだろう。開けば涎すら垂らす口はもう人の形からはかけ離れている。ミシリとベッドが軋む。
 濁る音で彼女が呻いた。枕に口を押し付けて、声を圧し殺している。今すぐにでも覚めてしまえ。覚めてくれ。勝手に神格化して崇拝して、挙句の果てに夢の中で蹂躙して。赦されるはずもない。自分の意志の及ばない夢であったとしても、こんなこと。
 肩甲骨のあたりだ。マズルのほんの先だけでつぷりと歯を刺し挿入れた。みっちりとした熱い肉、すぐに当たる硬い骨。溢れてぬめる体液は熟れた果実のようだ。ずるんと例によって歯を抜きねろりと舌を這わせれば、あれだけ忌み嫌う鉄の味は甘露にすぎなかった。嫌だ。彼女の味なんか、たとえ幻覚の中であっても、本物とかけ離れていたとしても知りたくなんか無かった。それでもここまで彼女を「美味しい」と思ってしまうのは、自分の欲の現れだろう。おれは、彼女の肉が美味であってほしいと願っている。いつかこの腹におさめてしまおうと思っている。本能のままにあるのはきっと心地よいことだ。何の柵もなく、彼女を好きなようにするのは。けれどそれは、理性を宿す人間のやることではない。仮にこの身が呪われて、悪魔を宿して万物の母たる海に嫌われていたとしても。
[       ]
 鏡写しの自分は本能的な快楽に溺れている。割れたガラスが鳴るように少女の声がころんと響いた。彼女の声だった。けれどそれは言語として認識できない。例えばそれはあぶくの音で、例えばそれは水飛沫の音。それでも確かに、彼女の言葉だった。痛みに意識を飛ばしそうになりながら少女が訴えたのは、非難でなく、糾弾でなく、静止でなく、懇願でなく。

 嗚呼。これを単なる悪夢だと切り捨てられたのなら。
なんと幸福だっただろうか。

 ひた、と弱々しい手のひらが手探りで頬に触れた。彼女の存在は、希望である。祈りである。たった一つ残った幸福への道標である。夢の中の彼女はただの舞台装置にすぎない。だからこちらに微笑んで赦しを顔に浮かべるし、幼子の涙を拭うように頬を撫でる。これだから夢は見たくない。夢を見ていたい。絶望と希望を一緒くたにして押し付けてくれるなんざ、脳というものは本当にイカれている。誰もいない劇場、ハリボテだらけのステージの上。寸分違わず当たるスポットライトは足元すら眩ませる。蓄音機の流す割れた音楽の中、彼女の精巧な人形と一人踊る愚かな主人公ではないか。その足取りがいかに素晴らしいものであろうと、称賛の拍手も酷評の暴言も何もない。一人でただ、台本も閉幕も無く愛を囁いている。滑稽で、けれどそれを客観視しなければ幸福そのものだった。くるりくるりと彼女の手を取り背を反らせ、ドレスの裾がひらりと広がる。アコーディオンの音色は彼女の憂鬱のようなのだ。
彼女の行動にざあ、とあれほど滾って仕方のなかった身体の熱が引いていく。しゅるしゅると海水でも被ったように身体の支配はヒトたる自分へ返還される。
 彼女の希望に似た碧潭がこちらを見た。
[わたしは、あなたすべてを許容したい。ディエス。X・ドレーク。これがわたしの、恋]
 微笑む彼女の、なんとうつくしいことか。
 縋るような自分の声の弱さに驚きながら彼女の名を呼ぶ。こちらの恋が彼女を聖母に仕立て上げたことならば、彼女の恋はそのとおりに聖母になることだと言う。夢の中の彼女にこんな因果を背負わせて、神にでも仕立て上げたいのだろうか。

○○○

「……ッ」
 額を押さえる。頭痛がする心地だ。悪趣味な夢は終わり、残酷な現実に戻る。口内に血の匂いはしないし、彼女は一切シーツを乱さずに寝息を立てている。しかし先程のあまりにもリアルな夢に、思わず彼女の背に触れ確認をした。微温い体温と、遅い心拍数。ああ良かった。正常だ。安堵のため息を漏らした。
「んぅ……わたしのこんぶ……かえしてよぅ……」
 寝返りを打った彼女に、起こしてしまったかと身構えればそんな寝言が響いた。ふ、となんとか吹き出さずに済んだ吐息。先程までの悪夢の感覚は、すっかり消えていた。
 お前は知らず知らずのうちにおれを救っているのだと言えば、彼女はどんな顔をするだろう。きっと「不思議なひと」と微笑んで見せるのだ。時計も見ず、ベリータの声が聞ける幸福に目を閉じた。

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