ミッドナイト・メロウ



 どぷん。
 しまった、と思ったときにはもう遅い。能力者である以上、一番の弱点なんかわかりきっている。それも、フダ付きで名も戦闘能力も知れた自分となれば敵は皆そこを狙うはず。どうにかして水中、特に海の中に叩き込んでしまえばどんな強力な悪魔の実の能力者であっても無力化される。そもそも能力者でなくとも、人間は水中では生きられない。たった数分間呼吸が出来ないだけですぐに死んでしまう軟弱な生き物だ。地表の三割にしか繁栄していないというのに万物の霊長を騙るなんて不遜だとまで思う。
 幼い頃に一度溺れたことがある。そのときはゆったりときらめく陽光の中を沈んでいって、呼吸が出来ないことすら愛おしいと思った。本能が死への恐怖を緩和したのか、不思議と苦しさは無かった。なにせ数十年前の記憶なので美化されている可能性も大きいが、それでも溺れた記憶は随分と輝かしいものになっていた。その後に彼女に救われたからだ、というのもあるかもしれないが。
それに比べて今はなんだろう、たった一口齧った悪魔の果実は、海の呪いを引き寄せた。身体が一ミリとて動かない。それでいて身体の端から脱力していくこの感覚は、明確な死だ。死んだことなど一度もないのに、死への確信がここにある。或いはこれは、悪魔に愛されてしまった哀れな身体への、母なる海による救済か。ああもう、思考もまとまらない。今考えるべきはどうにかして大気の下へ行くかということなのに、何やら哲学じみたことを脳内で展開してしまっているではないか。
 波間に揺れることもなく、ただ深海を目指して沈んでいく身体。幼い頃の自分が板切れならば、今は鉄球か何か。微睡みに近いと思った溺れる瞬間は、随分と残酷に身体を呑み込んでただ苦しいだけだ。このまま海王類に噛み砕かれてしまった方が幸せに違いない、とまで思う自分が恨めしい。
 船上で戦っていた。海賊にしろ海兵にしろそれはよくあること。それにこちらは元海軍。海軍に恨みのある海賊なんかごまんといるし、そもそもルーキーだの最悪の世代だのと変な肩書きまでついてしまったせいで余計に狙われやすい。元海軍のくせに。あの時の友の仇。よく叫ばれるのはそのような罵詈雑言。シャボンディ諸島までは特段気にかけるべくもない三流ばかりだったが、やはり新世界ともなると話が違う。敵船に能力者がいることを想定するのはもちろんのこと、単純な戦闘能力も侮ることは命取りになる。能力者であることを鼻にかけず研鑽を積んだ猛者ばかりの海なのだ。
 そんな中で敵の能力を判断するのは至難の業だ。動物系ならまだしも。超人系ともなるとてんで予想がつかない。今回がそれだった。少しの油断が命取りになる世界、油断していたつもりなど毛頭ない。これは綱渡りだ。少しの風が死につながる。それでも予想だにしないことはままあることで、それへの対応がほんの少し、コンマ一秒遅れただけのこと。敵が能力者であった。そこまでは良い。おそらくは空間転移系か、透過系。取った、と革新した瞬間に海上に落とされていた。甲板から船底まで透過させられたのか、それとも単純に、海上に転移させられたか。あの一瞬触れた手が能力発動のキーだったのかもしれない。ああ、こんな分析をいくら重ねようと自分が今溺れかけている現実は変わらないというのに。
 藻掻くことすら能わない。身体の末端から冷えていく。そろそろ駄目か、と目を閉じかけた瞬間だった。
(あ)
バチリと目が合った。
 目の前にいるのは、見知った少女だ。それがふわりと漂っている。自分はただ沈むしか無いというのに彼女はただ、そこに浮かんでいる。まるで希望がそこにあるみたいだ。命の危機どころかあと十秒もせずに死ぬことが確定しているのに、目の前の少女から目を離せない。一秒どころか、瞬き程度の時間。人ならざるものの魅力とでも言えばいいか。その妖艶にも近い姿に心を奪われた。長い髪をふわりと漂わせて、言葉代わりに口から細かなあぶくを紡いでいる。見惚れている暇なんかどこにもないのに、海中の人魚が、あまりにも美しかった。時間なんか止まってしまえと思ったし、事実止まっていた。少女の手がこちらへ伸びるときまで、まるで神に等しい何かに見つめられて金縛りにあってしまったかのように。
 ぐるり。少女が背後に移動してこちらの腹に手を回す。海中は彼女のフィールド。このときまで彼女がこちらを助けに来たことすら失念していたあたり、余程錯乱していたようだ。
「おもい!本当にカナヅチなんだね!?」
 ぐわん、と身体が揺れる。水中における急激な浮上は肉体にかなりの負担をかけるが、それを実感できるほどに沈んでしまっていたらしい。待ち侘びた界面へ顔を出しやっと呼吸が出来てもなお、必死に咳き込むだけだ。
「敵は既に撤退しております!」
 甲板から下ろされる小舟に乗っていた船員がそう報告する。無事で良かった…と絞り出される声に、やはりまずい事態に陥っていた実感を得る。しかし撤退したとなると、本当にかつての仲間の仇討ちが目的だったらしい。それでいて死を確認せずに撤退するなど…やはり能力者とはいえ信念に欠ける。この首にかかっている二億と少しには興味がないとは。
 しかし仕方のないことと言えど、我ながら一歩海中に足を浸しただけで全身から力が抜けてしまう身体が恨めしい。法外な力を手に入れることができるメリットと、一生カナヅチになってしまうデメリット。いくら天秤にかけようとただ揺れるだけで答えは出ない。
「鍛えてたつもりなんだけどねぇ」
 小舟に引き上げられ、なんとか落ち着いた呼吸と拍動がうるさくなってきた頃。念のため、と言いながらこちらの胸に耳を当て心臓の鼓動を聞いている少女、イサベルは呟いた。いくら彼女が海中では敵なしの速度を誇る人魚だからといって(他の人魚に比べればかなり遅いらしいが、それでも十分に速い)、人一人を抱えて浮上するのは骨が折れただろう。それもこちらはカナヅチで、二メートルをゆうに超える大男。一方の彼女は未だ少女の見た目。鍛えていた、と見せる腕は細く、きっと少し力を込めるだけで折れてしまいそうだ。きっと彼女の中での溺れたおれは、二十年ほど前に砂浜へ引き揚げたおれのままだったのだろう。あの頃に比べればかなり背も伸びたし筋肉もついた。また助けてもらったなあという感謝の気持もあれば、成長しすぎた自分の体への、一種の哀れみのような、それでいて満足のような。なんともつかない感情があった。それに加えて、彼女がこちらを思って何かをやっていたらしいということがわかったむず痒さのようなものまである。不謹慎極まりない。
「助かった。ありがとう」
「船長、怪我は」
「無い。他の船員はどうだ」
「かすり傷程度のものです。今は手当をしていますが大事ありません」
 交戦後の報告は迅速であることがすべてだ。横に座っているイサベルは場違いな気がする…と顔に出してそわそわしていた。

 また彼女に命を救われたのだなあと、深夜ふと思い当たる。イサベルとの出会いは、溺れたところから始まった。海兵の帽子を追いかけて溺れた情けない自分を、うっかり通りかかった彼女が砂浜まで引き揚げたのだった。先程も別にその実感が無かったわけではない。それでも、水中の彼女と見つめ合ったあの瞬間の記憶がこびりついてしまっていた。命の危険を感じながら見る映像は走馬灯じみてとても綺麗で、任務も何もかもあの瞬間だけは意識外にあった。何度でも言うが、能力者である自分にとって海中への転落は死に直結する。そんな中でも、幼い頃の記憶と重なって見えたあの光景は、文字通り息を呑むほどだったのだ。
 ふわりと漂うグラデーションの髪、海を投影するそのゆらめきは。海中でもしっかりとこちらを見据えていたエメラルドグリーンの瞳は。寸胴で(と言えば彼女は怒るだろうが)もちりとした灰色の鮫の腹は。意識の薄れゆく中で見たそれらが幻想的に、ある種の幻覚じみて映ったのは言うまでもない。相変わらず、彼女の姿に神聖ささえ覚える。もちろん魚人島にはごまんといる人魚の形からは逸脱していないし、他と比べて特別顔貌が整っているというわけでもないはずだ。それなのにどうしてか、彼女だけがうつくしく見えた。死の間際に見たせいもあろう。幼い頃の記憶が美化されているせいもあろう。海中の彼女という光景が、もはや原風景となってしまったせいもあろう。余人はこれを恋と呼ぶが、恋とは果たしてここまで難解なものなのだろうか。しかしこの感情や反応を明確に言い表せる言葉などどこにもなく、仕方なく恋と定義している以上これは恋なのだ。何度も行ってきた堂々巡りの思考を開始させてまで突き止めるものでもないのかもしれない。現状、そんなことよりも彼女がすぐ傍にいるという事実を味わわなければ勿体ないとも思うからだ。
 仮に彼女が女神だったとして。深夜の思考は飛躍する。随分なものに心を奪われてしまったという結論に至る他ない。女神の気まぐれに救われて、その一点で運命が交わってしまったばかりに執着を互いに抱いてしまった。女神に愛されるなどどの神話においても死へ直結しているというのに、それが嬉しくてたまらない。どの死んでいった英雄もきっと、このような心地だったのだろう。もちろん、彼女は決して女神ではない。少し寿命が長いだけの人魚だ。こんな思考ばかりしてしまうのは、他でもないおれ自身が彼女に対して崇拝に等しい感情を抱いてしまっているからだ。命の恩人に対して抱くべき感情の範疇を越えて、それでもまだ飽き足らず希望と据えた。暗闇の中でただ一つ光る周極星であると位置づけた。海への憧れまで内包した特大の感情を、ただこちらを救っただけの少女に押しつけている。整理するために言語化してしまえばなんと、なんと烏滸がましく、自分勝手なことだろう。
「ん……」
同室のベッドに眠る彼女が寝返りを打つ。すよすよと幸せそうな顔をする彼女の緩んだ口からはチャームポイントともいえる鋭い乱杭歯が覗く。毛布の中では腰から下がサメの腹になっているようだ。あのざりざりとした鮫肌の下はふにふにと深海ザメ独特の脂肪を多く含んだ感触がある。人魚とはそもそも、人間から進化した先の存在である。海底での暮らしに順応するべく身につけたものは、エラや尾びれだけではない。水圧や低い水温に耐えうる身体の構造を突き詰めた結果があの優美な姿だというのだから、自然というものは恐ろしい。いやきっと、最も合理的かつ機能的なものをこそ人間は美しいと感じてしまうのだろう。閑話休題。
彼女の寝息はひどく穏やかだ。時の流れを忘れてしまうほどにゆったりとして、時折生存を心配してしまうことさえある。
 ふと、思い出したことがある。
 哺乳類における一生の拍動数は定まっているのだという。だから寿命ごとに心拍数は変動し、寿命が四年ほどのネズミの心拍数は六百、寿命七十年といわれるゾウは四十。二十から二十三億拍といわれる総拍動数をたった一分間測った鼓動の数で割れば自分の寿命がわかるのだと、いつか軍医が笑いながら言っていたのを覚えている。彼の名前ももう忘れたというのに。
 そういえば。この少女の寿命は五百年に達する可能性があるらしい。わたしにもわからないんだけどねーと気楽に言った彼女は既に、百二十歳である。二十数年前と見た目がほぼ変わらぬのだからきっと真実だろう。
 じゃあ彼女の拍動数はどうなる。寿命から逆算しようか、と深夜で動作の遅い脳に頼ろうともするがなんだか野暮な気がしてしまってやめてしまった。けれどもそのにわかに浮上した疑問をそのままにしておくことはできなかった。彼女の上下する薄い胸板に目が行く。
 これは好奇心だと言い聞かせながら、彼女の胸に耳を当てた。丁度、今日彼女が自分にしたように。
 ごおと筋肉の音がして、その中にとくん、と可愛らしい拍動の音を見つけた。案の定間隔の広いそれは、ただゆったりと一定のリズムを刻み続ける。凪いだ海に似ている、と思った。絶えず聞いている音のペースが落ち、自らの時間感覚が狂ってしまいそうな感覚。ひとつ打つごとに自分の拍動がいくつも入るほどの隙があって、またとくん、と音がする。ああ、母の心音を聞く胎児はこんな気分なんだろうなと思う。羊水という海に漂って、世界を揺らす音をただ聞いている。それはきっと、きっと、幸福だ。海が母であるのなら、海である彼女は母だ。少女の見た目をしていようとも、腰から下が魚であろうとも。ああ、相変わらず、彼女への紆余曲折した思考は留まるところを知らない。こんな少女に母性を、もう記憶にすら無い母を見出して何をしようというのだろう。いっそ世界には自分と彼女と海だけが存在してしまえばいいのになんて、滅多なことを思ってしまう自分へのせめてもの罰に、下唇を噛んだ。
「…ッ!」
 少女の細こい指が、下ろした髪を梳いた。驚いて顔を見るが目覚めてはいないようだ。常々潮にベタついているせいでいくら流しても指通りの悪いそれを、少女は優しく撫で下ろしている。初めて動物に触れる幼児のように、我が子を撫でる母のように。
「…ベリータ」
 昔、他でもないおれが彼女に与えた名だった。名前はイサベル、愛称はベリータ。愛称まで決めて結局そう呼ぶことは幼いながらに小っ恥ずかしくて結局彼女に直接呼びかけたことは無かったが。
 この人生で募らせた少女への想いは膨れ続けている。今だって膝をつき聖母像へ祈りを捧げるように縋り付いているのとなんら変わりない。この世界にはありふれている、悲惨な運命を背負ってしまっただけの少年にとって彼女は、希望だった。光だった。指針だった。初恋だった。好きだった。好きだ。齢百を超えているとはいえこんな少女に向ける感情でないことはわかっている。
 とくん、とまた心音が響く。小さな船室の中、世界はそこで完結していた。もう二度と揺られることはない海に抱かれている感覚さえして、少女の胴へ腕を回した。
 夜明けはまだ、遠い。

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