輪廻の果てのローレライ




「わあ……あれが、彗星?」
「ああ。ほうき星とも呼ばれる。氷や塵でできていて長いテイルが生じるのが特徴だな」
 波の音だけが響く甲板。停泊している島も無人のおかげで星の灯だけの新月の夜。その中天に一際目立つのは、青白い尾を引く彗星だ。気候の不安定な偉大なる航路においてこの天体ショーを拝める望みは薄かったが、幸い、不気味なまでに穏やかな夜だった。
「公転周期…太陽に近づく周期はそれぞれでな、あの彗星のように何年に一度と決まっているものもあれば二度と来ないものもある」
「じゃあ次はいつ来るの?」
「百五十二年後だ」
 彼女はそっかぁ、と言って両手で持ったマグカップからココアを啜った。湯気がふんわりと漂って、僅かな風に蕩けて消えた。
 天体観測をしたい、と言い出したのは彼女だった。海の底で百年以上過ごしてきた彼女にとって、宇宙とは縁遠いもの。何もない日でも星を眺めている事が多く、時折次にある天体ショーはいつか、と聞いてくるのだ。例えそれが満月なんていう毎月訪れるものであっても、彼女は少しだけ軽い足取りで甲板へ出ていく。こちらの手が空いていれば一緒に夜空を眺めながら話をすることにしているのだ。月齢カレンダーや星座盤をプレゼントしたら喜んでくれるだろうか……いや、自分の使い古したものなのでプレゼントとは決して言えないものなのだが。
「それくらい先だったら、わたしもちゃんとおねえさんになってるなあ。こう、ぼんきゅっぼん!な感じでね…」
 そう言う彼女に、ああそうか、と一抹の寂しさを覚える。彼女の寿命は、あと何世紀だろうか。百二十歳の今でローティーンの見た目ならば、単純計算であと五百年ほどは生きるのではないだろうか。おれが一生に一度しか見られない彗星も、彼女は何度も見ることができる。幼い頃は、長生きのできる種族だったら何度だっていろんな天体ショーを見られるのになあと羨ましく感じていたが、それはきっと寂しいことだ。たった一人遺されて見る彗星は、さぞかしひどく美しい地獄のように思えるに違いない。
「お前は、来世のおれでも判別できるのか」
 だからふと、そう彼女に問うた。彼女は特異的に長寿なだけだ。周囲が人生を駆け抜けていくのを何度だって見送ってきたはず。こちらの寿命を理解していないわけではないだろう。口に出してからああ、かなり意地の悪い質問だったと反省する。
「おれは、お前のことを覚えていられるのだろうか」
 きっとそうだったらいいと思って言葉を重ねた。以前彼女の発した言葉が脳内でリフレインしている。魚人島で一度別れを告げた時、彼女はいつまでもおれを待つと言った。それこそ来世になったって構わないと。そんなロマンチックな表現をとやかくいうつもりは無かったが、それでもそこには彼女なりの理論があるのだろうと縋ってしまった。本来ならば、あそこでおれたちの運命は再び分かたれたはずだった。だからこそ彼女もあんなことを言ったのだと思う。そうわかっていて聞いてしまうのは、やはり大人の嫌なところだ。
「わかるよ。前世のことなんてそうそう忘れないから」
彼女は平然と答える。手すりに肘をついて、彗星から目を離さないままで。
「出逢えばわかるようになってるよ。ただ、前世の記憶は普段大人しくしてるだけ。現世に迷惑掛かっちゃうからね」
「そういうものか」
「海の中って輪廻転生が早いからさ、来世も前世もあるの」
 彼女の世界は、海だ。深く穏やかで、軽々と生き物を呑んでは生み出す世界。魚人島に行く際に通っただけだが、あんな厳しい世界を縫うように泳いで生きてきた種族が、彼女だ。
「あとこれは、古くて概念的な話になるんだけど」
目を瞑った彼女の長い睫毛に柔らかな光が乗っている。天の川のように穏やかなその様子は、自分の立場さえ簡単に見失わせる。
「現世で運命だったならそれは来世でもそうなんだよ。世界が始まる前からそうだったから。自分と運命の相手は元々混沌の中で融け合ってひとつだった。それが創世の衝撃でバラバラになった。その片割れを探すために皆生き死にを繰り返してる……っていう話があってさ」
「魚人島での伝承か?」
「魚人島ってより海の中かなあ。魚達も同じ概念で生きてるからあんまり死ぬことを恐れないっていうか。彼ら案外寿命短いし。そもそも死んでもまた他の生き物の糧になるからねえ」
 わたしたちは魚を食べないけど、人間はたくさん食べるでしょ?海の中のものは食べられるものだからね。そう続けた彼女はまた一口、ココアを啜る。
「陸上における宗教みたいなものか」
「それもそうだね。そんな考えが普遍的じゃないとあまりに厳しい世界だから」
彼女の横顔が嫌いで、好きでたまらなかった。まだあどけなさの残るもちりとした頬に丸い瞳。遥かな時間を見つめ続けたその輝きが、おれの知らない何かを見ている。その様子がまるで別世界の住人のようで触れがたく、それでいてふと瞬きをした瞬間にでも消えてしまいそうで怖かった。
「だから来世でも大丈夫だよ」
彼女の声はとろりと響く。不思議ばかりのこの海ではそんなことが有り得るのかもしれないと思ったし、一方でそれを信じきれない自分もいる。けれど彼女の言うことだからきっと、来世でもおれたちは出会えるし、また同じような会話をするに違いなかった。
「運命、か」
一等級の殺し文句だ。彼女の言葉を統合すれば即ち、おれと彼女は運命だから死さえ些末な問題だということだ。ごく僅かな夜風が彼女の横髪を揺らす。つられるようにするりと彼女の頬を撫でれば、彼女は小さく「ね?」と言って笑ったのだった。その頬がほんの少しだけ赤らんでいるものだから、つられてこちらまで体温が上がる心地だ。いやきっと、徐々に冷えだした気温だとか、思いの外熱かったココアとか、そういうもののせいだ。照れ隠しに口に含んだココアはどろりと微温く、頭が痺れそうなくらいに甘かった。
「あっでもね、別に今の人生を疎かにするとかいう話じゃないんだよ」
 彼女は空から目を離し、こちらを見つめながら言う。星を宿した瞳、なんて陳腐な表現だが、実際、彼女の大きな瞳には星空がちかちかと反射していた。碧い色はこの暗闇の中では判別できず、代わりに彗星が映りこんでいる。その様子は最早この世ならざるもののようにも思え、僅かに身構える。あの晩、彼女と再会したときと同じだ。きっと彼女は都合の良い幻想だと、何らかの精神攻撃の可能性さえあると武器を向けたあの時と。彼女は人魚である。そんな事実以上に、どこか常人と違う気配がするときがあるのだ。それは今のように、自らの死生観について話しているときが殆どだった。その気配の正体が一世紀以上過ごしてきた彼女の経験に依るものなのか、人間の理解の及ばない深海での生活で培われたものなのかはわからない。
「同じ彗星が見れたって、同じココアを飲んだって、同じ船の上だって。たった一人じゃ寂しいだけだよ」
 ああ、敵わないと思った。
「もちろん、君には君のすることがある。でも、できれば、また何回もこうやって一緒に星を見たいな」
 にへ、とイサベルは笑う。花開くように、という笑顔の比喩はありふれているが、彼女については花というよりも月のようだった。雲間から月が現れるようだと、いつも思う。それは暗闇を掻き消す希望で、穏やかさの象徴だ。
 ときめきよりも、救いのようなもので満たされた心ではろくな返答ができやしない。だからただ、「次は一月後に月蝕があるぞ」とだけ伝えたのだった。


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