6 はつこいはうみのいろ



「こんにちはぁ。お手伝いすること、ありますか」

 ひょこり、と扉から顔だけを出して少女が言う。結んだ青色の横髪が下がって揺れている。ここはリベラルハインド号内厨房、大人数の胃袋を支える食事の下準備をしている最中だった。

「おや、いらっしゃい。ベルちゃん。そうだねえ、野菜の皮剥きを頼めるかな」

「はぁい」

 少女は間延びした返事をしてから食材の詰まった麻袋を器用に避けて流し台で手を洗っている。彼女はこうやってよく厨房に顔を出していた。どうやら自分にできることがないかと船内をうろついているようで、料理の手伝いをすることもあれば掃除や洗濯をやっている様子もよく見かける。まだ少女がやってきて日は浅いが、この船にとって少女がくるくると働いているのは最早日常になりつつあった。彼女は先日からこの海賊船に同乗している人魚で、これから向かう魚人島までの道のりを案内してくれるのだという。ドレーク船長は彼女をただ「協力してくれることになった」としか紹介しなかったので二人の関係性はわからなかったが、あの船長が随分と信頼を寄せているようだったので安心できることは間違いない。確かに未知の航路、魚人島の出であり何度も行き来しているという彼女がいた方が安心できるだろう。到達率が三割なんて道を避けて通れないのは大の男の海賊であろうと恐ろしいものだ。

「司厨長さん、このじゃがいも剥いたらいい?」

「うん、気をつけてね」

 包丁を手に取り椅子に腰掛けた彼女は任せて、と元気よく返事して慣れた手付きで作業を始める。しょり、と小気味良い音をさせながら包丁を動かしていく様は、少女の見た目にはあまりそぐわないように思えた。

 そう、「少女」なのだ。ドレーク船長が案内役にと連れてきた人魚は少女だったのだ。大型のサメの人魚であるためか背丈は高かったが、その丸い輪郭や大きな瞳なんていう顔つきは間違いなく十二歳前後の子供だった。船長が彼女は百歳以上だと紹介をしていたしそれを疑うつもりも毛頭無かったけれど、にわかには信じがたかった。まあ人魚で二足歩行が出来ているのならば年齢は三十を超えているのだろうが、彼女の振る舞いは見た目相応のものだった。今だって鼻歌を歌いながらゴミ袋に入り切らなかったじゃがいもの皮を拾っている。

「あれ、シャボンディ諸島には行かなくていいのかい?いろいろお店もあるけど…」

 そういえば、とこれからブイヤベースの具材になる予定の魚の下ごしらえをしながら少女に聞く。今、この船はシャボンディ諸島に停泊している。シャボンコーティングを依頼しに行った船長を含め、多くの船員が街へ繰り出していた。島全体が遊園地のようなこの島は、それこそ少女の目には輝いて映るだろうと思っていたのだが。

「…人魚族の女は七千万、二股ならば一千万」

「え?」

「ヒューマンショップのオークション最低金額だよ」

 少女の脈絡のない言葉に驚いて聞き返せば彼女は続ける。

「高く売れちゃうんだよねぇ…そりゃあディエ…じゃなかった船長といれば大丈夫だろうけど迷惑かけちゃうし」

 ああそうか。シャボンディ諸島は近隣に海軍本部があるものの、二百年前に撤廃されたはずの奴隷制度が横行しているのだ。新世界へ向かう無法者が集うこの島ではそれも当然であるが、更にヒューマンショップには天竜人すら顔を出すという。世界政府としてはここを事実上の特例区とするしかなかったのだろう。

「すまなかったね、嫌なこと言っちゃって」

「んーん、人の感覚はなかなか変わらないし仕方ないよ」

 それならば悪いことを言ったなあ、と少女に詫びる。

「ねえ司厨長さん、船長ってどんなひと?」

「どんな人、って…堅物っぽく見えるけど部下思いだよ。チキンライスの日は後から美味しかったって言いにくるし…」

 暫く食材を切る音だけが響いたあとで、少女は次のじゃがいもを手にとって手の上で転がしながら口を開いた。なんでもない世間話。気負うこと無く本心を返した。ドレーク船長は良い人だ。どうして海軍を辞めて海賊をやっているのかが不思議なほどに。真面目が人の形をとったような、と例えても良いくらい。戦闘はやはり滅法強く、無駄のない必要最低限な動きで敵を圧倒する様は溜息が出る。それでいて日常生活では常に部下を気遣って一人一人を案じてくれている。いや本人に確認をとったわけではないが、ああこの人は慕われる人なんだなあと思ったことは数え切れない。

「いやあ、わたしディ…船長の小さい頃しか知らないから今どんなのかわかんなくって…」

 そう言う彼女の顔はとても嬉しそうだ。作業は止めないでいるが口角は上がっているし暖かい雰囲気は周囲に花が咲いているよう。感情が表に出やすいことはわかっていたしよく笑う子だとは思っていたけれど、ここまで蕩けるような笑顔を見せたのは初めてかもしれない。

「小さい頃…っていうとイサベルちゃんは船長と幼馴染なのかな」

「うん、昔溺れてるの助けて、それから一緒に遊んでたの」

 彼女はそうとしか答えなかった。けれど昔を懐かしんでいるのか手を止めてにこにこしているのを追及して邪魔しようとも思えなかった。二人だけの綺麗な思い出には第三者が立ち入る隙間も無いのだ。きっと素敵な日々だったに違いない、と想像を止めにして、今度はムール貝を取り出して洗い始めた。

 それにしても、あの筋骨隆々の船長とこの少女が幼馴染だというのは理屈では分かっていても感覚では理解しづらい。そもそもあの人の子供時代なんか想像できなかったが。

***

「…お前の世界は、こんなに綺麗だったのか」

 ドレークはそうイサベルへ言った。海中、コーティング加工をした船はまだ見えぬ海底を目指して進んでいく。魚人島へ向けて海上を発ったばかりの船は、陽光差し込む水中をゆったりと沈む。シャボンディ諸島の基礎であるヤルキマン・マングローブの根の間を多種多様、色とりどりの魚たちが泳いでいる様は地上に住む誰もが恋い焦がれる素晴らしい景色だった。

 今となってはもう単身で見ることの叶わない海中。溺れた記憶が美化されて海中を美しいと認識しているのかもしれないとも彼は思ったが、決してそんなことは無かった。寧ろ想い描いていた以上の光景は彼のノスタルジーを滅多刺しにしてその場から一歩も動けなくなる心地さえしている。

「ふふ。君にそう言ってもらえると嬉しいなあ」

 きらりと空色の瞳を輝かせながら言うドレークに、イサベルは面映くなる。舵輪の近くで二人で語り合えば、もうそれは理想そのもの。いつか一緒に見れたらと願って、けれどそんなことはありえないだろうと諦めていた瞬間だった。

 海賊は危険だ。イサベルの想像していた以上に彼らの旅路は危険に溢れている。シャボンディ諸島で傷を負ったドレークを見た途端に全身の血が凍りそうだった。船医も本人ももう大丈夫だと言うのに、彼女は彼の隣をずっと離れられなかった。すぐ傍に居なければ自分の心がどうにかなってしまいそうだったのだ。ドレークが海賊であっても構わない、なんていうしていたはずの覚悟は、あまりに不十分だった。幸い動乱からは離れた生活を送っていた彼女は、何度も見てきた死でさえ穏やかだったのだなとやっと気付いたのだ。遠く船の上から見ただけの海軍と海賊の全面戦争も、あの煙の中で何人もがクジラに食べられるオキアミのように散っていくのだろうと考えると恐ろしくなってしまった。どうしてここまで人間は人間に残酷になれるのだろう。同じ種族のはずなのに。

 ドレークが海兵であろうと海賊であろうと、イサベルはあまり気にしていなかった。本人にはきっと事情があるんだよね、とだけ言って以来その話はしていない。勿論、幼い彼が夢と語っていたのだからどちらかといえば海兵であることを望んだほうがいいのだろうな、とは思っている。けれど、魚人島には縁遠い存在だったので海軍のことはあまり知らない。それにあの戦争を見たら海賊と海軍どちらがいいかなんて余計にわからなくなってしまった。どちらに味方すればいいのか、彼女にはわからなかった。だから、イサベルはドレークの味方でいればいいのだと無理に結論をつけたのだった。

「そろそろ、怖い部分がやってくるよ」

 イサベルは少し寂しそうに言った。彼女自身は慣れ親しんだエリアである。しかしいつもより遥かに海が美しく思えるのは地上の澱みを見たからだろうか。いいや彼と一緒にいるはずだと信じたい。人間はシャボン無しでは呆気なく死んでしまう海中。二人でいる幸福を彼女は一秒でも長く噛み締めていたかった。それはドレークも同じだった。徐々に海面が、太陽が遠くなっていく。目指す魚人島は海底一万メートルだというのに、百メートルにもならないあたりから長閑な海中図は過ぎ去り、周囲はどんどん暗くなっていく。受光層の終わり、人間の視覚ではもうじき景色を完全に捉えるのが難しくなってくる。

「暗いところとか大きい生き物がだめな人はそろそろ中に戻ってくださぁい、ここから暫く真っ暗だから」

 イサベルは甲板にいる船員たちに呼びかけた。海底で生まれた人魚や魚人が空の高さにちょっとした不安を覚えるのと同じように、地上で育った者にとって海中は恐ろしいのだ。船員たちはばらばらと自らの持ち場へ戻っていく。薄暗く代わり映えしない景色は不安を煽る。物好きな者もその不気味さに船内へ戻っていった。

 ここから先は薄明層。逢魔が時に怪異が這いずり出るように、仄暗いこの層からはおどろおどろしい生物が溢れ始める。まるで子供の落書き帳から飛び出してきたかのようなそれらは、気でも触れたのかと思わんばかりの造形をしている。それらは通常海面まで上昇することがないため、海で生きる人間であっても見慣れないものだ。まさにこの薄暗さの中ではそれらがうようよと蠢くのを視認できてしまう。元々海中に不安感のある者でなくとも簡単に恐怖に飲み込まれてしまうのだ。

「本当に海の色をしているんだな、君の髪は」

 こんな特殊な状況下でなければ決して見ることの叶わない海の中の色。声の聞こえる範囲には誰も居ないことを確認してからドレークは言った。あの日何より心惹かれて印象に刻まれたイサベルの髪。直感的に「海のようだ」と思ったのは間違いではなかった。カラフルな魚の楽園であるごく浅い水色、それが段々と深くなり青くなり大型の魚が泳ぎだす。更にそれを過ぎれば人間の見通せない闇の黒。この深海へと至る情景を描写すれば、それがそのまま彼女の髪の表現となった。

「じゃあ君の瞳は空の色だね」

 海の底の民が焦がれて止まない、手の届かない空の色。入道雲をハイライトにした瞳。海と同じ「青」という表現なのに、言葉に表せない域で異なるそれは、明るくて不安を覚えるほど突き抜ける青だった。太陽の象徴だった。刺さる陽射しを思い出す夏の青。木々の隙間から覗いた、地上にあっても遥か遠いはずの色が、わずか数十センチメートル先に燦めいている。

「ふへ、随分なロマンチストだ。わたしたち」

 ドレークの指が空を泳ぐ。イサベルの美しい髪に触れようとしたのを躊躇ってしまった。彼女に触れて良いのか、という迷い。本物の海のようにすり抜けたら、触れた瞬間に弾けてしまったらどうしようという非実在性の逡巡。それを知ってか知らずか、イサベルは二十センチメートルだけ距離を詰める。一方でドレークは、もしも自分が赤面していたらきっと彼女にはお見通しなのだろうなと少し悔しかった。彼にとって、彼女の頬の赤みを視認することは既に困難な照度だったのである。

 魚人島への航路、下がる気温にドレークは少年時代を思い出していた。父の海賊船に乗っていた頃。彼にとって寒さとは即ちその記憶だった。けれど今は、当時希望とした彼女が隣にいる。寒い記憶が彼女の存在で上書きされていくようで恐くもあり嬉しくもあった。寒さに紐付けられた寂しさを感じてもなお彼女が隣にいる。彼女と再会できたことすら(そして恋を告げたことすら)夢見心地で未だ現実感が無い。幼い頃彼女に聞いて何度も思い描いた場所へ向かっているという高揚感も合わせて、彼の胸は少年のように高鳴っているのだった。

***

「シャーリー!」

「久しぶりね、おねえさん」

「…失礼する」

 魚人島、マーメイドカフェ裏。マダム・シャーリーと呼ばれるアオザメの人魚は煙管を片手にゆったりとくつろいでいる。折り曲げて座ってもなお見上げなければならない彼女の全長は五メートルを超える。艶やかな黒髪は右目を隠したミステリアスな風貌、するりと内側に入り込んでくるハスキーボイス。マダムと呼ばれるに相応しい彼女はイサベルの顔を見て微笑んでいた。

 魚人島へ無事到着し入国の許可を得たドレーク海賊団はしばしの休息をとっていた。新世界側へ浮上するためのシャボンコーティング加工依頼、物資の補給。そんなこんなを理由にして皆観光にくり出している。偉大なる航路名所、海の楽園。到達率三割という危険を伴う道のりであってもなお目指す人が絶えないこの島は、海に生きる人々の憧れだ。折角やってきたのに見物も出来ずでは不満が募るだろうとドレークは船員にそう指示を出していた。幸い、魚人島は観光を主な産業の一つにしており、海賊であっても余程の悪行をはたらかなければ観光客として受け入れられるのだ。集合時間のみを定めて解散としたドレークは、イサベルと共にシャーリーの元へ訪れていた。

「あら、その人が例の…」

「うん!うんめいのであいのひと!」

「うんめ…ッ!?」

 イサベルが楽しそうだからいいか、と会話を見守っていたドレークは彼女らの口から飛び出た衝撃発言に思わず吹き出しそうになる。

「あれ、言ってなかったっけ…シャーリーは昔から占いが得意でね、君のことも予言してて」

 シャーリーの煙管からぷかぷかと泡が浮かんでいく。彼女はイサベルの数少ない友人だった。一時期魚人街と呼ばれるスラム街に滞在していた彼女だったが、現在はマーメイドカフェの店主をやっている。イサベルもここで働きながら地上の情報を収集していた。ここは魚人島へ来た人間たちにも人気の店なので、自然と情報が集まるからだ。

「随分ジェントルなコじゃないの」

「えへへぇ…」

 イサベルが世話になっているな、とも言おうとしたが自分がイサベルと過ごした時間はほんの僅かだ。ドレークは必要最低限の自己紹介だけをして二人が話しているのを静かに聞いていた。自分の名前が飛び出すのは気恥ずかしかったし、話に割って入るのも気が引けた。彼はまるでフィクションの家族ドラマ―恋人の両親に結婚の了解を取る男という典型的なシーン―のようだなとぼんやり考え、すぐにその連想を掻き消した。そんなロマンチックな展開、自分には到底手が届かないのだから。

「ほらほら、こんなところで話してないで二人で楽しんでらっしゃいな」

 そうして暫く喋って一段落したところでシャーリーはそう切り出した。友人の生きる希望となっていたドレークのことをもっと知りたくもあったが、今一番大事なのはイサベルが幸福であることである。二十年近くも想い続けたのであれば、一分一秒でも二人でいたいだろう。

「あっそうだ。どこに行けばいいか聞きたくって…シャーリーそういうの詳しいから」

「いろいろあるけれど…やっぱり貴女が好きなところじゃないとね」

「そっかぁ……あっそうだ!ディエスここで待ってて!」

「あ、ああ」

 イサベルは顎に手を置いて少し考えてからそう言って建物を飛び出して行った。嬉しくてたまらないのだろう、いつにも増して明るい声にドレークは頷いて見送った。

「ありがとう、貴女の予言のおかげでおれはここにいるし、イサベルはまた会いに来てくれた」

 ドレークは言う。シャーリーの占いが自分との出会いを言い当てたことを始めとして、イサベルから彼女のことは聞いていたのだ。彼女の予言がなければイサベルは地上へ顔を出すこともなく溺れた自分は助からなかっただろうし、再び会うこともなかったのだ。

「ふふ、礼を言うのはこっちの方よ。予言はあくまで予言だからねぇ。彼女がそれを信じて死なずにいたのは彼女自信の決断」

「死なずに…そうか、イサベルはやはり」

「ええ。あの時の彼女は『死んでいない』だけだった。自分が死ぬのはいつか占ってくれと頼まれたこともあるわ」

 長寿であることは最早呪いなのだ。ドレークはうっすらと感じ取っていた彼女の不安定感の理由にやっと確信を持った。イサベルは時折、ふっと海に溶けてしまいそうな雰囲気を纏うことがあった。しっかりとそこに存在しているはずなのに、何故か希薄なのだ。死さえ視野にいれて日々を過ごす彼女はどんな気持ちだっただろう。砂浜で聞いて理解していたつもりでいたのに、自分は彼女のことを何もわかっていなかった。そうか。希死念慮の名残なのだろう。

「だからできる限り隣にいてやってほしいのさ。勿論そのつもりなんだろうけど」

 シャーリーはにこりと笑ってドレークに言った。彼女からすれば簡単に達成できるお願い事かもしれなかったが、ドレークにとっては事情が違う。彼にとってイサベルと共に生きたいのは紛れもない事実だ。本心だ。それでも、これから先は四皇の傘下に入らねばならない。どんな害が彼女に及ぶか知れない。万が一自分のせいで彼女が死ぬようなことになったらと考えると、それならば彼女を魚人島へ置いていった方が余程マシだと思えたのだ。何が恋だ、恋すらままならない環境に生きているというのに。ドレークはそんな思考を取りまとめて口を開く。

「ただいまー!ちょっと遠くだけどいいかな、ディエス」

「あ、ああ」

 すう、と謝罪を挟むべく息を吸ったところでイサベルが建物へ飛び込んできたので、ドレークはシャーリーの頼みごとに返事をしないことにした。彼の事情を汲んだであろうシャーリーの瞳は優しく細められる。いってらっしゃい、と笑顔で手を振る彼女に、ドレークはただありがとう、と繰り返したのだった。



「ごめんね、もっとお店とか観光地紹介できたら良かったんだけど…」

 イサベルがドレークを連れ立ってやってきたのは海の森だった。ドレークに出会う前のイサベルが自然に融け込んでいた場所。穏やかなその景色は彼女にとって飽きるほどに親しみのあるものだったけれど、彼にとってはそうではないらしい。いたく感動したのか、気にしないでくれ、と遥か遠くを泳ぐクジラから目を離さずに返している。

「君と出会うまではさ、ずっとここにいたんだよ」

 魚人島の端、シャボンによって隔てられた海と大気の狭間から三歩離れたところに立ってイサベルは言う。それを聞いて彼はああ、と膝を打った。目の前に広がる海の森は、彼の中のイサベルのイメージそのままを風景にしたようだったのだ。あたたかくて、穏やかで、ほんの少しさみしそうで。

「ねえ、奥まで行ってみようか。これでシャボン作れるからわたしが引いていってあげる」

 コートのポケットから先程取りに行っていたらしいバブリーサンゴをちらつかせてイサベルはそう提案した。これを利用すれば悪魔の実の能力者であり泳げないドレークにも自分の思い出を共有できる。今こう話しかけている間も海中模様に心を奪われている彼だ。きっと喜んでくれるだろう、と。

「ああいや、イサベル」

「なぁに?」

「おれは君の泳いでいるところが見たい」

 イサベルの思惑とは裏腹に、ドレークはそう言った。意識の遠のく中でしか見ることの叶わなかった彼女の泳ぐ姿。それは彼女本来のあり方である。重苦しい空の底を無理に歩くのではなく、自在に海中を泳いでいる彼女をもう一度でいいから見たかったのだ。

「ふしぎなひと」

 くすりと笑って、彼女はとぷりとシャボンの膜を通り抜けた。指一本でも突っ込めばその身に宿した悪魔が拒絶反応を起こす透明なこの膜が、彼と彼女の境界線だった。通り抜けた傍からサメの腹になっていくイサベルの足は、まるで魔法が解けたかのよう。本来の姿を取り戻した人魚は彼の方を一度振り返ってから、するりと泳いでみせる。小魚の群れに挨拶を、岩陰の大型魚と世間話を。そうしてくるりと自在に身体をくねらせては縦横無尽に泳いでいくイサベルに、ドレークは呼吸すら忘れていく。丸い鰭によるゆったりとした動き。靡く髪のグラデーション。何より生き生きとして少し恥ずかしそうな彼女の顔。美しかった。意識のしっかりとある今見てもなお、彼女の泳ぐ様は幻覚なんじゃないかと思うほどに。

 突如として、少しだけ遠くを泳ぐイサベルを大量の白い花弁のようなものが覆った。半透明のそれらに囲まれてくすぐったいのか、彼女は笑いを漏らす。そのうち一つを両手の中に掬って、呆然と立っているドレークの方へ見せる。何ということはない、ただのミズクラゲだった。海流に乗って運ばれてきたのだろう。ほう、とドレークは安堵の息を吐いた。彼女が攫われてしまう気がして取り乱しそうになった、なんていう真実は口に出すつもりはなかった。

[これでいい?]

 水中と大気中。膜を隔ててぼんやりとエコーのかかる彼女の声にドレークは頷いた。今思い返せば少々変態じみた要望だったな、などと反省しながら。

「なあイサベル。そのままで聞いてくれ」

 わかりやすい境界線だった。シャボンに触れる彼女の手に、そろりと手を重ねる。透明な膜は破れること無く間に確かに存在していた。

「…ここから先は、君を連れて行けない」

[そうだねぇ。元々魚人島までって話だったし]

 恋だと告白するよりも余程心の準備をしてから彼が口に出した言葉に、存外イサベルはフラットに返した。無感情なんかではない。寧ろ逆でドレークへ向ける彼女の感情は身体の中に収まりきらないほどだった。ずっと隣にいたい。いつか一緒に終わりたい。そんな当たり前の欲望を飲み込んで、ただ物分りの良いように頷いてみせたのだ。彼女の人生からすればほんの短い間だったけれど、傍にいれたのはきっと幸福なことだ。そのために一度無理を通しているのだし、きっとここらで引き下がるのが道理だろう。

「また、待っていてくれるか」

 別れは笑顔でないとね、と言わんばかりに笑顔の彼女にドレークは暫く言葉を探してから言った。全てが終わってまだ自分の命があるようならば、ここに来よう。そのときは今度こそ彼女と添い遂げるのだ。

[もちろん。来世になったって構わないよ]

 その代わり絶対だからね、と付け加えてイサベルはいたずらっ子のように笑った。本心からの言葉だった。彼にまた会えるのならば何十年、何百年先になろうと構わなかったのだ。

「ああ」

 ドレークも笑って返した。漂ってきたクラゲに囲まれるイサベルはまるで白い羽根を纏う天使のようで、彼は何度目かもわからず心を奪われていた。彼女の長い髪がただ揺れている様に、初恋を捧げた海の色に。

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