5 砂浜にほしのふる



 砂浜のある小さな入り江。ざざん、と波が貝殻を攫う。

 船の点検のためだけに立ち寄ったこの島は小さく、どこか活気に欠けていた。聞けば商業施設は全てごく近いシャボンディ諸島に集中しているらしく、この島にあるのはせいぜい島民向けの店とドックくらいだ。シャボンディ諸島への定期便は運行されているが、まあ早い話がベッドタウン。それでも船舶修理を主産業としてこの島はなんとかやっていけているらしい。シャボンディ諸島を前に修理をしておきたいという船は案外多いようだ。海賊を見てもなお怯えない島民が多いのはそのためだろう。

 船の修理は不要とのことだった。杞憂に終わり安堵した船員たちには束の間の自由時間を与えている。街の酒場に繰り出した者もいれば久々の陸だからと散策に出た者もいる。ドレークもまたその一人。ひとり砂浜に腰を下ろし物思いに耽っていた。

 ドレークにとってすっかりトレードマークになってしまった黒の二角帽と革の手袋を脱ぎぱさりと砂上に置く。街の灯も少ないこの島は少し上を見るだけで満天の星だ。ああ、そういえば。するりと時折滑る流星を眺めドレークはため息を吐く。丁度、流星群の時期だった。

 そういえば海兵になってからは星空を眺める暇など無かったなあ、とドレークはただ空を見上げる。海賊船にいた頃は星を見るときだけが唯一の心安らげる時間だったけれど、海軍に入ってからはそんなことを考える暇もなく日々を駆け抜けていたしそれは今も変わらなかった。海兵の頃から、自らの過去を清算することを念頭に置いてきた。更に今の彼には任務がある。己が命よりも重い使命と言っても過言ではなかった。ずっと、気を張っているので息を抜くことすら忘れていたのだ。勿論、今のような状況でも彼は完全にくつろいでなどいないのだが。

 彼女は元気にしているだろうか、とふと彼は考える。流星群を見る約束をして、結局果たせずじまいだった。新世界へ行く際に通過する魚人島でうっかり出会えやしないだろうか、などと妄想をしては首を振り鼻で笑う。そんな都合の良いこと、ある訳がない。すっかり汚したこの手では、怨嗟を背負ったこの身体では、あまりに高望みがすぎるのだ。彼女のことを考えることも本当は烏滸がましいと思っている。それでも、海を見ると彼女を連想してしまうのだ。彼女といえば海だったし、自分の中では海といえば彼女だった。幼い頃の印象は余程強い出来事でないと塗り替えることは難しい。溺れながら見た彼女の姿を忘れられやしなかった。彼女の髪がそれこそ海を宿したようであったことも。いくら記憶を美化している可能性があるとはいえど、それが心に染み付いているのは彼にとって変えられようのない事実だった。

「…ベリータ」

「呼んだ?」

「ッ!?」

 だからそう、ドレークは終ぞ言えなかった彼女の愛称を呟いたのだ。それに対して一人だったはずの砂浜で返事があったものだから、彼はくるりと華麗に後ろへ跳ね起きて声のした方と距離を取り砂に片手を着いた。武器の類は時間も動作もロスが大きいからと身体を半分、太古の獣に変化させながら。ずるりと出た尻尾がタシ、と乾いた砂を叩き強い音を立てた。

「かっこいい帽子だねぇ、少年」

 殺気を漏らしながら空気を張り詰めさせるドレークに対して、声の主はそう呑気に呟いた。脇に置いていた黒の二角帽を手にとってくるくると回して眺めているのは、少女だった。いや少女にしては随分と身体が大きいが、その形や声色は年端も行かぬ女子のそれである。

「イサベル」

 ぽつり、とドレークは呟いた。キリ、と引き締めていた表情はすっかり脱力し、目を見開いている。あるはずがない、と冷静な思考は言うがそれでも崩れ落ちそうになってしまう。今しがた妄想の中で微笑んでいた少女が、二十年近くも前に離れ離れになった彼女が、目の前に座っているのだから。変わらない髪色、少しだけ大人に近づいた顔つき。黒く袖の余るコートを羽織ってマフラーを巻いた姿に見覚えはなかったけれど、間違いなく彼女だったのだ。

「なぁに?」

 二角帽を被って彼女は笑っている。今すぐにでも彼女の手を取ってしまいたかった。それでも彼の首には懸賞金がかかっている。疑わざるを得なかった。そうやすやすと信じられるわけがない。都合が良すぎるのだ。能力者による幻覚か、何らかの精神攻撃か。それに、彼女とはこの姿で会いたくなかった、という本音もほんの僅かにあった。勿論会いたいに決まっている。アンビバレンスに結論は出さないまま。昔彼女に海兵になるのが夢だと語っていたのに、今のドレークは海賊である。彼女が本物であったとしても、任務も真実も明かすことは許されなかった。言葉に出さずとも嘘を吐くのは、彼女に対してだけは避けたかったのだ。ドレークはギリと奥歯を噛んだ。

「…お前は本物か」

「本物…?君が名付けたイサベルだけど…」

 似合わない帽子を被ったままにして少女は首を捻る。彼女はまごうことなきイサベル本人であった。だからドレークが何を言っているかわからなかったけれど、少し考えて彼が海賊であり命を狙われる立場であることを思い出した。

 彼女がどうしてここにいるか。魚人島を訪れる人々の噂、持ち込まれる世界経済新聞。真偽が怪しいものも含めて収集した情報を統合した結果、じきにドレーク海賊団がシャボンディ諸島を訪れるのではないか、と分析したからである。だから一週間ほど前からシャボンディ諸島にごく近いこの島に滞在していたのだ。流石に彼女といえど、人攫いの横行するシャボンディ諸島に居続ける気はしなかった。新聞に載っていたドレーク海賊団の船は、写真からして特徴的だったので遠くから見てもわかるだろうと日々海を見つめていたのだ。そこへちょうど、ドレークが船の点検にやってきた、という次第である。

 嫌だったのだ、少女は自分がただの思い出になってしまうことが。会えるチャンスがあるというのにそれをむざむざ見送って、きっとこれで良かったのだなんて誰もいない部屋で泣くことができるほど大人ではなかった。百年以上も生きている彼女が大人ではないというのはどうにも可笑しな話だが、彼女は見た目通りの精神年齢をしていた。成長が遅いのは見た目だけ、なんて好都合なことは無い。ただ自らの寿命に絶望したが故の周囲への無関心と年の功が彼女を大人に見せていただけに過ぎない。十二歳そこらの子供が数年前に別れた親友との再会を望むのと同じことだ。ドレークにとってイサベルが希望であり初恋であると心の中に彼女専用の不可侵領域を作っていたのと同じように、彼女にとってもまた彼も特別であったのだ。イサベルが地上への憧れの成れの果てだと蓋をしたその感情は間違いなく恋だ。恋であったけれど、彼女にとってその感情は絵本の中にしか存在しないものだったから理解が及ばなかった。一方でこれは憧れだけではないのだろうな、という冷静な思考も持っていたが意識的に考えないようにしていた。この感情を恋と定義してしまったら、付随する言葉にならないものたちが次第に欠落してしまうのではないかと恐ろしかったのだ。恋ではあるけれど、恋だけで構成されるものではなかったから。少女は一人の時間を過ごすのだけは得意だったので、感情の分析など朝飯前だった。

「んー…ソムニオスス・ミクロケファルスだと名乗ったけれど君がイサベルと名付けた者です?一緒に木苺食べたりお話したりしたよ。あれ美味しかったなあ。流星群を見る約束をしてたけど結局だめになっちゃって…ううむ…」

 戦闘態勢を解かないままのドレークにイサベルは困ってそうさらさらと自己紹介をした。自分が自分であることの証明なんて、哲学者が長年頭を捻ってもそのものズバリの答えが出ていないものだ。ドレークだって疑わざるを得ないからこうしているのだし、早く証明せねばならないのだけれど、と彼女は黙りこくって考える。

「わたしがイサベルで無かったら君はわたしを殺すのかな」

「…………そのつもり、だ」

「じゃあそうしよう。わたしが不穏な動きをしたらその場で切り捨てて貰って構わないよ」

「は」

 ドレークとて人の子である。できれば幼い頃の友人を信じたかったし、そのつもりが無くても殺すなどと言い切りたくなかった。褒められたことではないが、例え幻覚や敵の術中、夢であっても彼女に会えたのが嬉しかった。それなのに目の前の少女は自分が本物であることの証明を投げて殺されても構わないと言う。

「そういえば昔、長生きはどんな気分かって聞いたね、ディエス。あのときは誤魔化したけど今答えようか」

 ぴしゃり、とイサベルが丸い三日月型をした尾で湿った砂地を叩く。彼女の周囲の空気はゆったりとしていた。まるでそこだけ時間の流れが遅いような錯覚さえするほどに。

「退屈で、冗長で、大嫌い。誰もわたしと同じ時間に存在しない。置いていかれるばかりでなんにもいいことなんか無いよ。今ここで君に会えたのならそれで終わって満足だ」

 未だ警戒態勢を解かないままで、いつでも一直線に彼女を切り裂ける姿勢を取っているドレークを見つめて、イサベルはそう語った。暗い中、彼女の大きい瞳が射抜くように彼を見つめている。彼女の、長い間擦り切れるほど再生して変容した記憶とは異なる様子にドレークは唾を飲んだ。通常の人間の感覚では到底計り知れない彼女の思考回路。その一部を覗いたこと、何より自分は彼女につらい質問をしていたのだということが彼に重くのしかかる。正直、彼女は本物であると思っていた。肉食恐竜の研ぎ澄まされた嗅覚は彼女の甘い海の香りを認識しているし、それで呼び起こされた郷愁のせいで泣いてしまいそうだった。

「というわけで、会いに来たのです。積もる話をしたら…えーと、恐竜かな?その牙で一思いにしてしまってよ」

 静かな語り口から一変、イサベルはゆるやかな口調で言った。物騒で生々しいことをそう言うのも、彼女らしいとドレークは思う。残酷なまでの海の世界を語る彼女の喋り方と全く同じだった。

「…できると思っているのか」

「できるできないじゃない世界に生きてるんでしょ、ディエスは」

 ただただ痛い。彼女の言葉が、彼女の視線が。図星だったのだ。彼女の中の海賊像がどのようであるかはわからないし、自分が未だ海軍側の人間であることを彼女が知る由もない。それでも、その通りだった。彼女が本物であろうと偽物であろうと、任務に支障を来すのならば彼は彼女を切り捨てなければならない。それが現実だった。

「…ごめん、ごめんね、意地悪しすぎたね…その、君に会えたの、すごく嬉しいの。たくさんお話して、ほら。流星群。見たいなって」

 苦い顔をして目を伏せたドレークに、イサベルは眉尻を下げてあたふたと言って頭上を指差した。ころりと変わった表情に、遂にドレークは変身を解いた。無論警戒はしている。不用心だとはわかっている。それでも、ただ少女が隣で天体観測をするだけだと必死に言い聞かせる自分がいるのだ。彼女は本物だ。感覚ではわかっている。わかっているのに彼の理性は肯定してくれなかった。

「…すまない」

 人一人分開けた位置に座り直したドレークは呟いて、空を見上げた。気にしてないよぅ、と返事をしたイサベルも距離を詰めようとはしなかった。建前だった。現実だった。それらが近くて遠い隙間として二人の間に横たわっていたのだ。

「まああとはね?魚人島通過するなら案内役いたほうがいいかなっていうのもあるんだよね…慣れた人いないと本当に到達率下がるから」

「そんなに危険か」

「うん、怖い話しちゃおうか」

 仰向けになったイサベルは提案がてら言ってから、昔みたい、とくすくす笑いを漏らしながら語り始める。ドレークとて魚人島のことを何も知らないわけではない。他でもない彼女から聞いたことは覚えていたし、表向き海賊をやっている以上情報は仕入れている。ただ彼女の話を聞くことを楽しんでいた。それは彼女も同じ。淀みなくするすると出てくる言葉は時折、空を滑る流星に遮られていく。

「あっまた」

「この時期のは極大日じゃなくとも多いからな」

 歌うような彼女の説明の合間に、そうぽつりと会話を挟む。その繰り返しだった。当時思い描いていた天体観測とはかけ離れて毛布もココアも無かったけれど、会話は二十年近く前のものと変わらなかった。間に長い年月があるというのに、まるで栞を挟んでいたかのようなスムーズな「つづき」だった。今この瞬間だけ、まだ背の低い子供に戻った気分だとドレークは思った。もうこの大きな体躯が嘘であると言われたほうが信じてしまいそうだった。

「なあ、イサベル」

 イサベルの紡ぐ言葉が途切れて呼吸を三つ挟んだ後、ドレークは呼びかける。その声に彼女は星を追うのをやめ、彼の方を見た。

「おれは君に、恋をしている」

 きっぱりと言い切った。

「ずっと考えていた。これはきっと、恋だ」

 ざあ、と波の音が響く。沈黙は苦ではなかった。これだけは彼女に伝えたいと思っていたことだったから。

「そ、そっかぁ」

 上ずった声にふと、ドレークは隣を見る。夜だと言うのに星が明るいせいか、彼女が頬を赤らめているのが手に取るように分かった。

「わ、わたしもね?ディエスのこと、好きだよ。昔から、今もずっと」

 そうしていくつか呼吸を置いて発された彼女の言葉に、彼は我に返る。ああまずい、夢見心地だったと思ってももうとっくに遅い。ぽろりと溢れた言葉は取り返しのつかない方向へ―ただし世間一般的には好い方向だろう―ことを転がしている。

「……嘘では、ない」

 熱くなる頬を隠すように手で覆って、暫く考えてから本心であることは彼女に伝えねばと思いドレークはそう続けた。

「うれしい、です」

 どうすればいいかわからず髪に隠れた耳まで赤くしてイサベルは言う。他人行儀になってしまうほど動揺したのは、何十年ぶりだったろうか。

「あっ!ほら見てディエス、今おっきいのがね」

 二人して照れていては何も進まない。照れ隠しにイサベルはまた星を指差した。するりと降る星は止むことを知らない。これが祝福だと言うのなら。そう考えたのはどちらだっただろうか。結局口には出さず飲み込んで、ただ指差し星を追いかけたのだった。 

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