夢の話

「あ、」
 深夜。人気のない廊下で青年と少女が鉢合わせた。青年の名は、アキレウス。この少女―名をフジマル・リツカという―と契約するサーヴァントの一人だ。
「よう、マスター。寝付けねえのか?」
 にこり、と青年は少女に笑いかけてそう問うた。至極平凡な質問だ。眠りを必要としないサーヴァントはさておき、少女は普通の人間である。午前三時など、起きているべき時間ではない。また明日も少女にはレイシフトの予定があるのだから。
「…ええと、その、うん、そんな感じ」
 青年は世間話的な会話を投げかけたにも関わらず、少女はじり、と後ずさり、青年には目も合わせずそう答えた。
 青年はその様子を特に気にするわけではなかった。もう慣れていた。青年に対して少女はいつもこのような態度をとっていたからだ。青年には不可解極まりなかったが、何かしらの理由があるのだろう、と。けれども、ああ、この機会に尋ねるのも悪くないのではないか―と結論を出した。
「わたし、それじゃ、」
 回れ右をして(自分のマイルームとは逆の方向へ)去ろうとする少女の手を、青年が掴んだ。
「あ、あの、明日の予定なら、ケイローン先生に伝えております、し」
 振り返りはすれど相変わらず視線は足元へいったままの少女。手を離しても少女は動かないだろうに、アキレウスは手をそのままに問いかけた。
「何故俺を見ない?」
 その言葉に少女がびくりと肩を震わせる。別にただの少女ならば、コミュニケーションが取れなかろうと問題はない。だが生憎、この少女はアキレウスのマスターである。マスターとサーヴァントが1:1でない特異的なこの環境ではあるが、それでも命の綱渡りはするしディスコミュニケーションから損害を負うことは避けるべきである。
 少女はそう問われてもなお、青年を見ようともしなければ問いに答えようともしない。どもって短く母音を微かに吐き続けるだけだ。
「…俺を、見ろ」
 少女のそんな様子にアキレウスは痺れを切らし、少女の頬を両手で掴み持ち上げるようにして無理矢理己の顔を覗かせる。少しばかり短気―好戦的ゆえだろう―なところがあるのが、この青年の僅かばかりの欠点であった。
「、ぁ」
 青年はこのとき初めて、少女の瞳が琥珀色であることを知った。その中に映る青年の顔がぐにゃりぐにゃり歪んで、ぼろ、と雫が頬を伝う。少女の瞳はアキレウスの瞳を見つめたままである。意思よりは、蛇に睨まれた蛙のようにもう身動きが取れなくなっているといったほうが良いだろうか。かたかた小刻みに震えながら、カチリと鳴る歯でどうにか舌を噛まぬよう少女がなんとか紡ぎ出したのは、
「っこ、ころさないで、殺さないでください、やだ、ごめんなさい、ころさないで、」
などという、命乞いであった。
「何を、」
 言っているのだ、とアキレウスは眼前で少女が泣いているという異常性を気にもとめず首を傾げる。一度たりとも、青年はこの少女に槍を向けたことは無かったし危ない目に合わせたこともなかったはずだ。
 少女に頬に当てた青年の手が濡れていく。生温かいその感触はまるで血のようだと思った。
「アキレウス」
 落ち着き払った背後からのその声に、青年は振り返る。
「先生」
「やめてさしあげなさい」
 そうアキレウスに淡々と告げたのはアキレウスの師であるケイローンだった。
 ケイローンがそう言う前にアキレウスは少女から手を離しており、彼が意識を少女に戻した時には少女はもう床にへたん、と座り込んでしまっていた。
「立てますか、マスター」
魂が抜けたように口をぽかんと開けている少女の背をさすりながら、ケイローンはそう言った。数拍置いて、ハ、と我に返ったらしい少女はぼんやり周囲を眺め、ああまたやらかしたのか―とでも言いたげに顔を顰めた。
「大丈夫、です」
少女はケイローンの手を取り立ち上がる。多少覚束無いが、歩けないということはなさそうだった。
「部屋まで送りましょう」
「…すみません」
 流れるような救助作業に一人ぽつんと取り残されたアキレウスは、どうにもバツが悪い。
「アキレウス、彼女のマイルームまで白湯を持ってきなさい。マスターも、よければ話をお聞かせ願えますか」
 その様子を感じ取ってか否か、ケイローンはそう手早く話をつけてしまった。少女は少し迷ってから、こくりと頷いた。

「…その、本当に、ごめんなさい。怖いんです、アキレウスさんのこと」
ベッドに腰掛け、カップを握って少女はそう口を開いた。もう随分落ち着いたようだった。カップの中にはカモミールティー。キッチンで出くわし事情を聞き出したメディアが用意したものだった。あまり見かけない男がいるというので彼女も気になったのだろう。
「…夢のことはご存知ですよね、」
「ええ。マスターは契約したサーヴァントの生前の夢を見る。この特異な状況でもそれは変わりませんか」
「はい。魔力源はわたしでなくとも、契約者はわたしなので…いろいろな夢を、見てきました」
はは、と少女は乾いた笑いをしてみせる。苦痛だと主張するべきでもなく、かと言って決して楽しいものでもなく。結果苦しそうに、自嘲するように形だけ笑って見せたのだ。
「…ヘクトールと、ペンテシレイアか」
アキレウスが呟くように言った。二人とも、生前の彼が殺した相手だ。
「……一人称視点だったんです。喉を裂かれて、息が詰まる。諦めと、申し訳なさが少しだけ。胸を貫かれて、ただ、苦しいのと、悲しいのと、絶望と、とてつもない怒り。」
そこまでひっかかるように言って、少女は自分の首を撫ぜた。横一文字に、蚯蚓脹れが覗く。
「先程、二人の夢を見ました。気分を切り替えようと散歩していた最中だったので、いつもより混同してしまったんです。ごめんなさい」
アキレウスには何の非もない。自分の精神が弱いせいだ。たったそれだけで、こんなにも迷惑をかけている。信用を失っている。マスター失格だ、こんなの―。落ち着いたら今度はその恐ろしさがひたひたと少女へにじり寄ってきていた。
「そうか」
吐き捨てる、という表現がとても似合うように、アキレウスは言った。その相槌に少女はびくりと身体を震わせる。―ああ、見捨てられた。どうしよう、自分が、弱いばかりに。
「アキレウス」
ケイローンが少しだけ焦りを見せ、諌めるように彼の名を呼ぶ。
「…いや、別に気にすることじゃねえよ。なんだ、さっきの、悪かったな」
「ごめんなさい、できるだけ、頑張るから、?」
叱責が飛んでくるとばかりに身構え謝った彼女は首を傾げた。
「…あの」
「そういうこった。先生、後は頼むぜ」
少女の疑問符を素通りして、アキレウスは部屋から出て行った。
「…ケイローン、先生」
「いいですか、マスター。強くなることと、心を殺すことは違います。昔、彼に教えたのです」
「…はい」
「まあ彼には役立たぬもののようでしたが。…さて。ここで蟠りをとくことができたのです。安心して、お休みになっては如何ですか」
 空になっていたカップを少女から受け取り、ケイローンは少女にそう優しく声をかけた。もう日が昇る方が近い。けれども休めるときに休むべきである、と言外にそう微笑みかける彼に、少女は従わざるを得ない。
「…お、おやすみなさい…そして、あの、ありがとうございました」
「はい。おやすみなさい」
「あ、あと…その、アキレウスさんにも、ありがとう、と、伝えていただけますか」
 ええ、とゆったり頷いてから、ケイローンも部屋を後にした。
 ぽつり、一人残された少女は、再び首を撫ぜた。腫れは引き、既にいつものなめらかな肌に戻っていた。



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