(8:52 p.m.)

海や砂漠を越え、連日の野営と数え切れない刺客たちのおかげですっかりくたびれた心と体。それをやっと存分に休ませ甘やかす時が来た。街中でどっさりと買い込んだ酒とつまみを持ち込んで、ホテルの部屋に集まれば、安くしみったれた部屋は豪勢な宴会場へと早変わり。そして、30分も経たないうちに浮かれて服を脱ぎだす者、壁に向かってつまらないジョークを飛ばす者、気難しい顔で説教を始める者たちが現れ、そこはただのカオスな空間にみごとに変貌をとげる。そんな彼らに見向きすることもなく、承太郎はただ虚空を見つめ静かに酒を飲んでいた。グラスに付着した水滴が濡らす長い指や、酒を飲みくだすたびに上下するその喉仏が気だるげな色っぽさを醸し出す。手を伸ばすこともできず、
そばで気づかれない程度に見守るしかない自分に歯痒さを感じる。

「おいおい。もっと飲めるだろ?ガキども」
ケケケと下卑た笑い声が突然鼓膜を否応無く揺さぶった。その発信元を睨めば、言うまでもなくポルナレフだった。彼は見せびらかすかの如く、蛍光灯の下で惜しげもなく上半身の厚い筋肉を晒している。しかし彼の肉体に誰かが興味を持って見向きすることなど一瞬たりともない。皆がそれぞれ自分たちの世界に入り込んでいたからだ。つまりその肉体美は今や壁にかけられた安っぽい絵画と同じくらいには部屋の中で無意味なものなのだ。そんなことに気づいているのかいないのか、肩に手を回してきて筋肉の押し売りをし始めるものだから、こちらとしてはたまったものではない。
「ポルナレフ見苦しいぞ。服を着ろ」
「ノリアキちゃんたらいい子ぶっちゃってつまんなーい!だからお前童貞なんだよ」
「そのご自慢の筋肉を穴だらけにしてやろうか」
ハイエロファントを呼び出し、かまえの体勢をとるとポルナレフは両手をあげて「おーこわいこわい」と慌てて降参の意思を伝えた。しかし、こちらを舐めてかかるような態度が見て取れるため、ぐらぐらと煮立っていた怒りは静まるどころか強火で沸騰寸前。
「エメラルドスプラッシュ」
「ぎゃあああああああああ」
部屋や備品を損傷することの無いよう威力を弱めたエメラルドスプラッシュだが、彼の天に向かいまっすぐ逆立つ髪の毛をぼろぼろにしてやることには充分に威力を発揮してくれた。
「あぁあ!おれの神がかった髪型になんてことしてくれるんだよ!ばかー!」
「つまらないダジャレはやめろ。ハイエロファント、エメラルドスプラッシュだ」
「…え?あ、今のはそういうつもりで言ったんじゃな…ぎゃああああ」
「フッ」
エメラルドスプラッシュが容赦無く弾ける音と音の間。その一瞬、耐えきれずに漏れ出たかのような笑い声が承太郎の口から零れたのを聞き逃しはしなかった。
「…どうかしたの承太郎?」
「いや、神がかった髪型ってすげぇおもしれぇシャレだなと思っただけだ」
そう言ってくいっと鍔を下げた学帽の下、いつもよりも幾分か緩んだ口元や、目元が浮かび上がっている。彼のそんな様子がとてつもなく衝撃的だったため思わず目を剥いていたが、この達者な口だけは本能的に動いてくれた。
「…あ、あぁ!確かに素晴らしいシャレだね。すごく簡潔にまとまっていてムダが無い」
「だろ?」
「あと、絶妙なユーモアと語感が後を引く。余韻がなんとも言えないな。実際のところたいして神がかった髪型ってわけでもないということにもまた皮肉や哀愁を感じてしまう 」
「やはりお前もそう思うか」
「待て待て待て!おい花京院てめぇさっきと言ってることが違うじゃねーかふざけんな!あと最後すっげぇ失礼だぞ!」ぎゃあぎゃあと噛み付くように騒ぎ続けるポルナレフを放っておいて承太郎を凝視する。彼は整った顔立ちにすっきりしたような楽しそうな笑みを浮かべ、勢いよく酒を流し込んでいた。(ああ、承太郎が、笑っている)たったそれだけのことでも、めったに見られない光景なわけだから、心臓がどくどくと音を早めだした。じんわりと暖かい幸福感が駆けめぐる。目を離すことのできないこちらのに気づいた承太郎と目がかち合った。
「どうした?」
「いや…なんでもないよ」
怪訝そうな彼の顔を前に、どうやってごまかそうかと、所在なく彷徨った右手が最終的につかんだのはソフトドリンクを入れていたグラス。乾いた笑みを口に浮かべていても、頭の中ではどうやって取り繕うか考えるばかり。「ポルナレフのせいでいらない体力使ったよ」そんな言い訳をもっともらしく呟いたならグラスを一気に傾けた。口に広がるのはぬるく甘い果汁の風味、と思いきや、予想に反してそれは喉を焼くような熱を持っていた。驚いた勢いで飲み込んでしまったなら、後の祭りで。慌ててグラスを目の前に持ってきて確認すると、黄金色の液体が小さく揺らめいている。
「おれがウィスキー入りのやつと替えておいてやった」
ニカっと口を大きく広げて笑うポルナレフの手にあるいかめしい瓶の中で黄金色の液体がとぷりと波を立てた。ぼくのグラスの中身と、おそろいだった。

「エメラルドスプラッシュ!」
「ぎゃあああああ」




(10:29 p.m.)

「おい、花京院飲み過ぎじゃあねぇか?」
「ばーか!承太郎よ、酒っていうのは飲みすぎるためにあるんだぜ?な、花京院」
「そうれすよ。ぼくぜんぜんよってないれすよ。まだのめますね。なんぼのもんじゃーい!」
「なんぼのもんじゃーい!!」
「……」
酒盛りがはじまってから早2時間。ジョースターさんは壁に向かってジョークを言い続け、アヴドゥルさんは説教をやめて酒瓶を抱きながら床で眠り、ポルナレフはタンクトップどころかズボンも脱ぎ去り、見苦しさマックスのまま酒瓶ごとアルコールを流し込んでいた。ぼくといえば、ポルナレフが作ってくれたジンジャーハイに味をしめ、二杯、三杯ともくもくと飲み続けていた。実をいうと、ぼくが酒を飲むのは今夜が初めてだ。一番はじめの意図しない飲酒によって持った「ウィスキーは強い、まずい」という印象を持ったのだが、ジンジャーエールと氷に薄められてしまえば、ウィスキーとは言ってもただのジュースのごとくすんなりと飲めてしまったので、そんな印象はあっさりと掻き消えた。また一杯ぐびっと飲み干して「ん」とポルナレフに向かってグラスを突き出せば、彼は場末のスナックのママのごとく、いそいそとぼくのためのドリンクを作り始める。
「そろそろストレートで飲みゃあいいのに。そんなもんジュースじゃあねぇか」
「すとれーとはおいしくなかった」
「お前お子ちゃまだなぁ〜」
「うるさいばかなれふ」
ぼくだって本当はこんなのよりもチェリーの風味漂う甘いお酒を飲んでみたかった。妙なこだわりだとポルナレフには鼻で笑われたが、初めて飲むならチェリーのお酒だとずっと決めていたのだ。今ならファーストキスを不本意に終わらせてしまった乙女の心境がなんだかよく分かる。

ポルナレフから受け取った冷たいジンジャーハイを飲みながら承太郎のほうを見た。先ほど彼の笑顔を目にしてからというもの、不躾にじろじろと見てしまったことへの罪悪感と、いつまでも穴が開くほど見ていたいような願望という、相反する二つの感情がぼくの心に押し寄せていた。無心になろうとポルナレフの無残な頭ばかり見て酒を飲んでいたが、途中からそんなのどうでも良くなっていたので、勢いよく隣に目を向けた。見たいものを見ることは別に悪いことではないだろう。気が大きくなったまま彼を見る。彼はまだ酒を煽っていて、自分のペースでただ自分の好きなように飲んでいた。まるで機械のように飲んでは注ぎ飲んでは注ぎの繰り返しだった。しかしぼくは見つけてしまったのだ。先ほどと何も変わらずただ虚空を見つめている彼の双眸が、色濃く翳っているのを。くだらない言葉遊びに笑っていた姿はどこへやら。その瞳の色はぼくに多大なる動揺を与えたのだ。そして、とてつもない不安に駆られる。まるで心臓がすうすうとつめたい風に吹かれているよう。
「…どうした?」
気がつけば、グラスも放り出していつの間にか膝立ちで承太郎のことを覗き込んでいた。いつもは見上げるしかないその翡翠の色を上から見下ろすというのはとても新鮮なことで、ぼくの気分はうなぎのぼりだ。困惑と多少の怒りに歪められたその顔から目が離せない。酒を飲む前にかちりと目が合ったときには首がもげてしまうんじゃないかというくらいの勢いで顔を背けるような小心者だったというのに、今のぼくはなんだかとてつもなく気が大きくなって、世界の王様にでもなってしまったかのよう。捕らえられた翡翠色の宝石のような目とそれを縁取る色濃い睫はさながらぼくのための献上品。その瞳の下の凛々しく引き締まった両頬に左右の手を伸ばした。
「ふとんがふっとんだ!あるみかんのうえにあるみかん!かみがかったかみがた!」
「…花京院、お前頭おかしくなったのか」
「わらえー!じょうたろう!」
頬にやった手を今度はその厚い唇の両端に移動させ思いっきり引き上げた。氷いっぱいのグラスをさっきまでつかんでいたことで冷やされた手が彼の唇に触れ、水滴が赤い唇をしたたる。ぼくが無理矢理作る口元の奇妙な笑顔と、困惑しきったその目はとてつもなくアンバランスなんだけど、ぼくはそれすらも心の底から愛おしいと思わざるを得なかった。
「何だ何だ?お前ら楽しそうだなぁ」とポルナレフが目を輝かせながらぼくたちのやりとりに混ざってきた。それから数分間つまらないシャレの言い合いは続き、承太郎もわけが分からないと言った表情を少しずつ崩し、しまいには呆れ半分で笑っていた。
「承太郎」
「なんだ」
「…きみは、笑顔が似合うよ」
ぼくは満ち足りた気持ちでそう呟いた。




(11:46 p.m.)

ひとりで大丈夫だと告げながら外に出て、おぼつかない足取りのままへべれけが辿り着いたのは、街灯ひとつない路地裏。 真暗闇にぽっかりと浮かぶ月が見下ろしてくる。ひどく気分が悪い。胃袋の中は何か重石でも鎮められているかのように重たく、今まで飲み食いしたものが溢れ出すのはきっと時間の問題なのだろう。月から逃げるように背を向け、ふらふらとしゃがみこむ。迫りくるような吐き気に思いっきり顔をしかめた。「んっ、かはっ、おえ」
口を大きく開けて空気を吸い込みえづく。けれど、ぼくが下手なのかどうしてもうまく吐くことができない。あと少しでこんな気持ち悪さからは解放されるはずなのに。幾許の焦燥に駆られながら何度も口を大きく開くが、やはり吐くことはできない。その間もずっと月はぼくを照らしている。まるでずっと浮かれていたぼくを嘲笑い、咎めるかのように。


「やっぱり吐いてやがったか」
低い声が夜のしんと張り詰めた空気の中でぼくの鼓膜に響いた。その声の主に気づいた瞬間、一番見られたくない人に見られているという自己嫌悪が吐き気とともにぼくを襲う。
「じょうたろう、どうかした?」
口元にだらしなく垂れた唾液を乱暴に拭いながら、わざとおどけた声で言ってみせた。
背後から、足音は一歩一歩近づいてくる。
「てめぇを探しに来たんだろ。気分が悪ぃんなら早く言いやがれ」
「慣れてねぇくせにあんなペースで飲みやがって」と呆れ声で続けたなら、彼はぼくの隣に屈みこむ。大きな手がぼくの背中をさすった。暖かな温度が背を行き来するたびに何とも言えない安心感に包まれた。ぐっと吐き気を飲み込んで、地面を睨みつけていた。
「…ぼくならだいじょうぶ。もうすこししたら、もどるから」
「お前みたいなやつ大丈夫とは言えねぇぜ」
背をさする動きが突然止まり、承太郎の手がにゅっと伸びてきた。顔の前に差し出されたかと思えば、ぐいっとぼくの顎を親指で固定する。訳が分からぬままにぴたりと動きを止めていると、あろうことか彼の無骨で長い人差し指がぼくの口内に侵入してきた。慌ててその手を押し返そうとするが、ぼくの抵抗など適うことなく、彼は力強くぼくの喉の奥を指で押さえつけた。「これで楽になる。我慢しろ」不快感が頭と体を駆け巡る。水っぽい音と一緒に、あっという間に胃の中から消化しきれていないどろどろの飲食物が勢いよく流れ出した。吐瀉物は虚しく地面に広がっていく。
「んっ、じょうたろ」
「これでちっとは楽になったか?」
「きみ、ゆびがよごれて」
「別に気にしねぇよ」
何事もなかったかのように彼はポケットからハンカチを探し出し指を拭う。そしてぼくの濡れた口元もついでに拭った。頭は彼にさせてしまったことへの罪悪感と情けなさでいっぱいになって、うつむいたまま謝罪の言葉を口にした。
「…ほんとうにごめんなさい」
「だから別に良いつってんだろ。まぁ、これに懲りて次からは飲みすぎんなよ」
ぶっきらぼうにそう告げて、うつむくぼくの頭をくしゃっと掻き乱して前を向かせた。
「さっきありがとな」
「え?」
「おれがしみったれた顔してたの気づいて、バカやって笑わせただろ」

「酒が入るとどうにも笑ったり感傷的になっちまっていけねーな」
そう誰に言うでもなく言って、帽子の鍔を下げる。ぼくの好きな笑みを浮かべていた。今まで見てきたもの全て適わないくらい、愛おしい笑みだった。


見つめていたいという願望が見つめられたいという傲慢に変わったのはいつの頃からだろう。自分の中にある、そのどす黒くいびつで醜い感情は絶えずいつまでも増長をくりかえしている。彼はいつだって気高く優しくたくましい。背負った血統の名に恥じることのないすばらしい人間だ。最強の名を欲しいままにして、前進しつづける。そんな彼にぼくは邪な思いを抱いていた。けれど、そんなことを知ることなくいつだって彼の双眸はただまっすぐに前を見据えてきた。その紛う事なき事実に、悲しい苦しいと、胸を焦がしていた。その一方で、こんなに誇らしい彼の隣にいられる自分にもまた誇らしさを感じている。こんな泥沼のような感情を恋だと名付けたのは、他でもないこのぼくだ。

酒をばかみたいに飲んでいた数十分前と同じくらい、頭の中があつくなってくらくらしはじめる。彼の前で嘔吐してしまったことへの情けなさとか恥とかそういったもの全部どうでもよくなってくるくらい。彼の姿を目にしてその声を聴くだけで、心はずむような楽しいことしか考えられなくなって、自分を取り巻く現実とか世界とかそういったことがどうでもよくなっていった。
手に入れられない宝物を眺めているだけで満足できるほどにぼくは無欲にはなれない。ぼくは、とてつもなく欲張りな人間だったのだ。ぼくはできることなら世界の王になって、欲しいもの全て手に入れたい。


「すきだ、じょうたろう」

すき、じょうたろう。すきだ。すきだ。すきだ。いつの間にか抱えきれなくなって溢れ出した思いは、ぼくの心からはみ出た分だけ、口からこぼれだす。自白剤でも飲まされたみたいに、言わずにはいられなくって、目からはぼろぼろと涙が落ちてくる。好きでいるってことは、何かを本当に欲しいって思うことはこんなにも苦しいことなんだ。ぼくはこんなにも承太郎が好きなんだ。承太郎はあっけに取られた顔をしたまま固まっている。そんな彼を目の当たりにしても、自分の中で行き止まり燻っていた思いは出口を見つけた今、加速をやめようとはしなかった。 「ぼくは、きみが、すきなんだ」




身体中を麻薬のような幸福感が駆けめぐり、心臓は甘く痺れる。馬鹿みたいに涙をこぼしながら繰り返す。
「きみが、すきだ、だいすきだ」
しかし急に襲ってきた吐き気に、またもや気分が悪くなる。声にならない声で呻いてもう一度崩れるようにかがみこんだなら、先ほどと同じように、けれど、先ほどよりもいとも簡単に胃の中のものは流れ出ていった。「おええええええ」すっきりとした解放感に包まれて、安堵する。そして、そこでぼくの意識は糸がぷつりと切れるように途切れたのだった。そうしてぼくは泥の中に身を沈めこむかのように、吐瀉物のに埋もれて深い深い眠りについたのである。

今夜は承太郎のいろんな表情が見ることができた。楽しそうな笑みだとか、物憂げに揺れる瞳だとか、今この瞬間の驚きに満ちている表情だとか。ぼくの心は高揚している。シロップのふんだんにかかったチェリータルトに手をつける時のように。そしてもっともっと貪欲になり続ける。意識を手放す前に考えたのはもちろん承太郎のことで、彼がこれからもぼくに向かっていろんな表情を見せてくれたならどんなに幸せなんだろうと、密かに祈りを捧げた。
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