(ふりんのおはなし)

ささやかな夢があった。わたしの遺伝子を受け継いだ焦げ茶の髪の小さな男の子と女の子が手を取り合って、すみれの咲き乱れたかわいらしい小さな家の小さな庭であそびまわる。わたしはそんな情景を見つめて微笑みながら、頭の中ではぼんやり今日の晩ごはんのメニューをどうしようかなんてことを考えている。やがて夕方になれば優しい旦那さんが帰ってきて、男の子と女の子とわたしを順々に大きな腕で抱きしめる。わたしのささやかな夢はほんのささやかな幸せだった。大金持ちになりたいとか女優になりたいだとかそんなたいそうなことを望んでるわけではないけれど、わたしの夢にはかえってリアリティがないように思われた。だから他人に笑われるのが怖くて口外するのはどうしてもはばかられ、心のなかにそっと偲ばせてきたのだ。

海がある。わたしの頼りないからだは目の前の寒々しい色の波や、ごうごうと不気味にさざめく風にいまにも呑みこまれてしまいそうだ。恐ろしいと思った。だからぎゅうっときつく目を閉じる。ついでに息も止める。すべての世界を意識と切り離す。ふと、わたしの小さな手は大きな手にすっぽりつつみこまれた。しばらくそうしていると心細さはすっかりうすれて、ようやく目を開けることができたのだ。そしてわたしは嬉しいような切ないような不思議な気持ちを味わうのだった。
彼は昔からそんな人だった。いつもぶっきらぼうで何に対しても至極めんどくさがるくせに、十分なほどの優しさをよわいよわいわたしに与えてくれた。少女だった頃も今も、それは変わらないまま。だからわたしは後ろめたさを感じてしまうのだ。わたしは彼から優しさを与えられる権利なんてないし、彼にも優しさを与える義務がない。わたしたちは未来を生きることをお互いに別々の人と約束したから。


「今日は寒いね」
「そうだな」


秋の海が見たいと言ったのはわたしだった。波風がもっと穏やかな日に言えばよかったと後悔したのだが今となってはもう遅い。寒々しい光景はわたしの心を凍りつかせるだけだった。夏の暑い日にはここに子供たちと旦那と来た。明るい日差しの中で焦げ茶色の髪の男の子と女の子と優しい旦那さんが無邪気に走りまわる光景はいつかの理想とぴたりと重なっていた。わたしはそれを見て微笑みを浮かべていた。けれど、心のなかではすっかり別のことを考えていた。藤くんのこと。頭ではそれがいけないことだとわかっていたはずなのにやっぱりだめだった。抑えが効かない。なによりも藤くんが欲しかった。欲しくて欲しくてたまらなかった。
藤くんは大人になった今でも変わらず美しい。顔つきは中学生のときよりさらに凛々しくなって、背も伸びて、女性たちをとりこにしてやまなかった。奥さんはそんな藤くんに釣り合うとても綺麗な人。一度だけ、偶然にも街中でみかけたことがあった。寄り添う二人はこれ以上にない完璧な組み合わせだと思ったと同時に劣等感を覚えた。藤くんは海を見つめていた。風になびきそうなくらい睫は長くて、瞳の奥はぼんやりしている。ただ大きな手のひらはわたしの手を包みこんでいるまま。じんわりと互いの体温が溶け合って、わたしは涙が出そうになる。ふいに藤くんがこっちを見た。目と目があったのを合図に藤くんの整った顔が近づいてくる。わたしは目を閉じる。吐息と吐息が混じりあって、最後につめたい唇が重なった。その親密な行為に慣れなくて何度も奇声をあげたり心臓が爆発しそうになっていた頃が懐かしいなと心のなかで笑った。ただ藤くんのことだけを見つめていて、藤くんに愛されていることにとてつもない幸せを感じて、かぎりないふたりだけの未来を描いていた頃があった。たぶんそのときのわたしたちがどんなふたりよりもいちばん幸せだったのだろう。

「おれ、何よりもお前がいちばん大事だよ」
「うん」
「でもお前のことさらってどっかに逃げたりなんてできない」
「うん」
「だから、悪い」


藤くんはわたしをしっかり抱き締めて耳元でそう言った。胸が熱くなって涙が目に浮かんでくる。藤くんの茶色のコートから優しい匂いがした。わたしの知らない匂いだった。こんなに近くにいるのに寂しくて仕方がなくなる。涙はとめどなく溢れ出して藤くんのコートに染みをつけた。


「この海で死ねたらいいのにな」


藤くんの力ない声が聞こえた。そんな度胸などないくせに、心のなかで呟いてみる。もうすべてが終わってしまうんだなと思ったら心にぽっかり穴が空いたようで切なくて苦しくて寂しくて、とにかくいろんな感情にいまにも押し潰されてしまいそう。けれど藤くんが潰れそうになっているわたしを救ってくれることなんてもう二度とないのだ。わたしは理想の世界なんて要らなかった。ただ彼のこの先の未来が欲しかった。それがどんな形であったとしても。だけどもう遅かった、遅すぎた。

「藤くんさようなら」

わたしはよわいまま、これから彼のいない未来を生きていく。別れを告げて、彼の抱擁を解いた。



〇゚*
゜。

よわいひと
2010.9.20

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