最後の夜を受け入れた

旦那様――三成様は、ついに討つとお決めになったらしい。徳川様を。
出陣は明日の朝。美濃にある大垣城へむかうとおっしゃられた。
しかし、私がそのことを聞かされたのはほんの数刻前なのである。




城じゅうが大わらわだ。人の行き来が絶えない廊下。刀や槍がせっせと武器庫から運び出されている。私は女中たちとともに厨で兵糧のための握り飯を準備していたのだが、ふとある人物が近くを通っていったのを見たので

「左近」

と呼び止めた。

「げ、名前様……」
「げ、となんです。げ、とは」

島左近。派手な髪の色。派手な戦装束。そして軽い物腰と口調。規律規範に厳しい石田軍にあって、そんな彼の存在はまさに異質だった。
しかし、三成様は左近をひどく気に入っていた。いや、たしかに一日に一回は必ず怒られているようだし、相変わらず賭け事から足を洗ってもいないようだ。由々しき問題である。
左近は強かった。武功に優れていた。石田軍の切りこみ隊長を務め、左近隊なるものを率いることが許されているぐらいには。まずそれが、三成様が左近をひどく気に入っている理由だった。直接三成様に勝負を挑んだ過去もある(それが二人の出会いのきっかけらしい)ので、当たり前と言えば当たり前なのだけれど。
私は、でも、と考える。きっとそれだけじゃない。強さだけじゃ、武功だけじゃない。人間性だ。三成様は彼のまっすぐな素直さに触れて、
心から信頼できる人間だという思いを抱いたのだろう。

「あなた知っていたでしょう。三成様が徳川様を討つための計画をずっと前から立てていたこと。そして出発が、明日の長月の十五日になることも」
「す、すんません……三成様から絶対に直前になるまで誰にも言うなって口止めされてたんです」
「おかげで城じゅうは上を下への大騒ぎです! 女中も兵もかわいそうです。三成様は本当にこういうところがわかっていらっしゃらない。少数の家臣だけで大切なことを全部決めてしまって。これではほかの大勢の者たちが覚悟を決める時間もありません」

私もそうだ。同じだ。今だって、明日三成様が出陣なさるだなんて信じられないでいるのだから。これは悪い夢なんじゃないかと疑ってしまう自分さえいるのだから。
けれど、と思う。どうして気づかなかったんだろう。三成様のようにわかりやすい人が隠し事なんてできるわけないのに。それはきっと大谷様や左近の尽力があったからだろうが、もしかしたら自分自身望んでいたのかもしれない。願っていたのかもしれない。秀吉様の命を奪い、豊臣を裏切り、それでも絆というまったく矛盾も甚だしい言葉を唱えている徳川様に対して、ほかの誰でもない三成様が天誅を下すことを。

「三成様は今どうしていらっしゃいますか」
「刑部さんと一緒にいますよ。最後にどうしても二人きりで話したいことがある、って」
「……そうですか」

私は後悔していた。こんな大事なときなのにもかかわらず、先ほど三成様と口論になってしまったことを。口論と言っても私が一方的に色々と騒ぎ立てただけだったが。
どうやら左近はそれを知っていたらしかった。彼は栗色の目を細めると楽しそうに

「三成様、少し寂しそうでしたよ」

と言った。

「名前のお気持ちはわかります。なにか力になれることが私にもあったかもしれないのに。まるで私を信じてくれていないみたいじゃないか。でも、三成様はただ心配だったんですよ。自分が再び戦場へ出ることを名前様が知ったとき、どれだけ辛くて悲しい思いをされるのかって」
「わかってます。そんなことあなたに言われなくても。私が一番」
「じゃあ早く仲直りしてくださいね」

ああ、もしかして。ふとそう思った。左近はこれを私に伝えたくて、厨のそばを通ったんじゃないだろうか。
彼が踵をかえそうとしたので

「左近」
「はい?」
「今までありがとうございました。この城を、皆を、私を、そして三成様をよく支えてくれましたね。あなたにはいくら感謝してもしきれません」
「……なに言ってるんですか。そんな、最後の別れみたいな挨拶して。縁起でもない。やめてくださいよ」
「縁起がどうこうとかよりも、言いたいことは言えるうちにと思って。あとで後悔するのは嫌だから。
どうか三成様のこと、よろしくお願いします」
「もちろんです。この島左近、身命を賭して三成様をお守りいたします。そして必ずや家康の首を討ち取って参ります」




夜がふけた。どこかからか鈴虫の鳴く声が聞こえてくる。
私は三成様のお部屋の前にいた。中に誰かがいる気配は感じられなかった。だけど必ずいる。彼は必ずいらっしゃる。
障子戸を両手でそろそろと開けると

「三成様」
「名前」

こちらをふりむいた三成様の顔を月光が照らしていた。とても綺麗だった。

「ご準備はもうよろしいのですか」
「ああ。すべて終わった。あとは明日の朝を待つだけだ」

その言葉に私の胸は強く締めつけられた思いがした。いやいや、だめだ。私がここへ来たのは、別に感傷に浸るためじゃない。謝るだめだ。

「三成様」
「なんだ」
「申し訳ありませんでした。こんなにも大切なときに、大声でわめき散らしたりして。恥ずかしい限りです」

腰を折り、畳に額を擦りつけるぐらい低く頭を下げる。そういえば初めてかもしれない。こうやって三成様に謝罪するのは。そもそも私たちは今まで一度も仲違いというものをしたことがなかった。私は三成様がおっしゃることを信じ、すべて受け入れていた。そして三成様もわかっていた上で、私になんでもおっしゃってくれていたからだ。
今回は例外だったというわけである。

「左近が」
「左近?」
「お前とよく話をしておくようにと。……その、すまなかった。今回のことはたしかに名前にも言っておくべきだっかもしれん」

ふと左近の言葉を思い出した。
――三成様はただ心配だったんですよ。自分が再び戦場へ出ることを名前様が知ったとき、どれだけ辛くて悲しい思いをされるのかって。
三成様は榛色の瞳を軽く閉じ、その額に薄いしわを寄せていたが、やがてこちらにむかって大股で歩いてくると

「み、三成様?」
「なにも言うな」

私を抱きしめた。
一瞬なにが起きたのかわからなかった。こんな三成様は初めてだと思った。こんな大胆な三成様は。
心の臓が高鳴る。脈が次第に速くなっていく。苦しい。恥ずかしい。だけどとても満たされた気持ちだった。
三成様と初めて出会った日もこうして抱きしめてもらったっけ。政略結婚だった。豊臣秀吉の左腕である石田三成様はとても恐ろしいお人だという噂をかねがね耳にしていたため、婚礼の儀のあとたしかにとても怖そうな人だったと密かに震えていたところに彼がやってきて

「これから私たちは晴れて夫婦となる。二人協力して豊臣と石田の家を守ってゆこう。不甲斐ないところがあるかもしれないが、よろしく頼む」

と言ってから、自身の腕の中に私の体を閉じこめたのだった。まあそれは、大谷様の入れ知恵だったということがのちに判明したのだけれど。
しかし私はその言葉と行動で一気に救われた気持ちになった。頑張ろう。武家の妻として恥ずかしくないよう、せいいっぱい自分の務めをはたそう。

「三成様」
「なんだ」

行かないでください。思わずそう言いそうになり、私は慌てて口をつぐんだ。なにを馬鹿なことを。また同じ轍を踏みたいのか。
私は時間を置いてからゆっくりと、絞り出すような声で

「三成様、どうかご武運を」




しかし、それももう過日のことだ。
勝利は東軍のものとなった。西軍は負けてしまったのだ。左近と大谷様は討ち死に。三成様においては行方不明で、生死すらもわからないという。
その知らせが佐和山にもたらされてからほんの数刻後、城は東軍の兵たちで何重にも囲まれることとなった。先鋒を務めているのが小早川秀秋様だと聞かされたとき、私は思わず舌打ちをしてしまった。秀吉様の養子だった彼が、どうして。

「名前様! ここにいらっしゃったのですね!! さあ、早くお逃げください。いくら城が堅固だと言っても、あの大軍勢はとても相手にできませぬ。おそらく時間の問題でしょう。その前に名前様だけでも逃げていだたかなければ」

私の思考は、突然部屋に人が入ってきたことによって遮られた。
女中だった。私が石田家に嫁いでからずっと身のまわりを見てくれていた。
彼女が言いながら私の腕を強く掴んだので

「私は逃げません。最後までここにいます。残ります」
「なにを――」
「約束したのです。誓ったのです。三成様に。そして自分に。石田の家を守ると。武家の妻として恥ずかしくないよう、せいいっぱい自分の務めをはたすと。だから逃げません。さあ、あなたは早く城を出なさい」

自分はなにを言っているのだろう。西軍は壊滅した。左近と大谷様は討ち死した。三成様においては行方不明で、生死すらもわからない。そんな状態で、石田の家を守るだの自分の務めをはたすだなんて。もう守れないのだ。もう務めをはたす意味もないのだ。全部消えてしまうのだから。消えたのだから。
それでも、私にはできない。たとえここから逃げられたとして、あとはどうなる。もし、もし三成様が亡くなっていたら? ずっと行方不明のままだったとしたら? 私はそれでものうのうと生きていけるのか? 絶対に後悔しないと言えるのか?
尚も食い下がる女中に「もう決めたのです」と微笑んでみせると、急に諦めたように彼女は大人しくなった。腕の拘束も解かれる。
それからゆっくりと慎重に

「名前様」

名を呼ばれた。

「はい」
「たとえなにを申し上げようとも、覚悟が揺らぐことはないのですね」
「ありませんよ。永遠に」
「本当に、本当にそうなのですね」
「石田三成の妻に二言はありません」

きっぱりと私が首を横にふると、女中は三成様はよい奥方様をお持ちになってと言った。
その言葉を聞いた瞬間、無意識のうちに私は彼女を抱きしめていた。ずっと心の奥底で渦巻いていたものたちが一気に喉元まで駆け上がってきて、涙となって目からあふれた。それは女中の着物に濃いしみを作った。腰におずおずと手がまわされる感触を覚えた。
しばらくはそうして抱きあっていたが、いよいよ外が騒がしくなってきたのに我にかえって

「さあ、あなたは逃げるのです」

体を離しながら再び言った。

「名前様が残られるのなら私も」
「それはなりません」

まるで部屋から追い出すみたいにして、私は彼女の背中をとんっと押した。

「あなたは、生きなさい。生きなければならないのです。生きて、そしてどうか石田家に仕えたことを忘れないでください。誇りに思ってください」
「……名前様」
「はい」
「私、短い間でしたけれど名前様にお仕えできてとても幸せでした。きっと、私以上の果報者はこの日の本にはいないでしょう」

それが彼女の最後の言葉だった。絞り出すような声だった。彼女も泣いていた。
私は誰もいなくなった部屋をぐるりと眺めた。三成様の部屋だ。窓から月光がさしこんできている。けれどあの人は、もう、いない。
私はここで最後の夜を受け入れるのだ。