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青く澄んだ高い空に響くは波の音、高揚な気分を感じさせる人の声、ビーチボールを弾く音、そして────……。


「……ソレ、脱がねぇの?」



ドクドクと荒く血を送る心拍音と、その心臓の輪郭を這うような声。

どちらも、大きくて聞き取りやすい音程のものでは決してない。だけどその距離僅か数センチの私が聞き逃す訳もなければ、隣の人に打ち付けるような心臓の音が聞こえてしまっていないか不安になるのも無理はないだろう。

『え、…っと……?』

胡座をかいて片手でうちわを扇ぐ彼の極めつけは、前開きのパーカーから露になる引き締まった上半身。正面にいなくて良かったと心底安堵して気にしないフリをしつつも、目映く光るようなそれにチラチラと意識を奪われてしまうから自分を殴りたい。
白いけど貧弱そうなほどの色ではなくて、程よい色合いのそれは少し割れた腹筋を美化するのだ。……って何を分析してるんだ私は。




お昼休憩。みんなが適当に焼きとうもろこしやら焼きそばやらお好み焼きやらかき氷やらを買ってくると散らばった中、何となく成り行きで絶賛留守番隊になった私たちは広いビニールシートの真ん中、パラソルの下で海を眺めていた。……つもりだ。
風が吹いて今日の空と同じような青いパーカーが翻る合間に、隣の罪深き腹筋に目が動いてしまうだなんてそんなのは不可抗力。ただでさえイケメンと持て囃されしかも普通の友人以上の気持ちを抱いている相手なんだからそこら辺ご理解頂きたい。

会話の内容を探すにもそんなことに気が散って中々気まずい雰囲気を一人噛み締めていた状況下で、冒頭の台詞だ。正直耳を疑ったとか以前に意味がわからなかった。
理解しようとするために脳をフル回転させていた私はそれ以外に能力を割けず、とんだアホ面でキョトンとしていたことだろう。

隣の彼は視線こそ真っ直ぐ目の前の海を見ていたが、この場で彼が話しかける相手なんて私しかいないはず───霊感なんて持っていなければ、だけど。


とはいえ、いくら意味が分からなくったって折角の会話のチャンスだ。しかも向こうから投げられたもの。ただ思い出として持ち帰るには余りにも勿体ないし、キャッチボールを続けたいのが本音な話である。

『ぬぐ、ってなに?』

「そりゃあ……、だからその、……泳がねぇのかな、って、」

眺めないようにしていた横顔の、眉と口が形を変える。うちわを仰ぐ速さが少し増したかもしれない。

そう言われて、合点がいった。つまり対象は私が羽織るパーカーのことだったらしい。「来てからずっとその格好だから、……勿体ねーなって、」突然口数が増えた彼は益々苦い顔をしている。

しまった、変に気を遣わせてしまったのかもしれない。
中々どうして似た色のパーカーを着ていた私たちが周りが冷やかされるのを止めてくれと思いながらも、実際心中“お揃い”チックであることに何とも言えぬ嬉しさを温めていた自分が恥ずかしくなる。

別に泳げない訳じゃないけど、さつきちゃんのナイスバディーとか、リコちゃんの細さとかそういうのを目の前にして機会を逃してしまっただけだ。いや、十分立派な動機だとは思うけど。だからこそガッチリ前もファスナー締めて首もとまであげてますけど。


それに、

『このパーカーね、水中大丈夫なやつなんだよ。水着用のパーカーなの! だから脱がなくても海に入れる仕様なんだ! 今時はすごいよね』

日焼けすると赤くなってめっちゃ痛くなるタイプだから肌はそもそも出したくない私にとって素晴らしいアイテムなのである。

そう説明すれば、初めて彼────虹村くんは首ごと向きを変えて私を見た。視線が合う瞬間の双眸こそ見開かれていたけれど、すぐ何時もより二割増しに細められて目だけまた海の方へ逸らされる。

「……そーかよ」

『……え、なんか怒ってる?』

「怒ってねーよ別に」

『そ、そう……』

突然不機嫌になった虹村くんは唇をへの字に曲げてまた顔を正面に向け、黙りが始まってしまった。
うっわ何これ私のせい!? 上手くボールが取れなかったのか、それとも向こうがボールをパスしてくれていないのかは定かじゃないけど望んだ展開ではない。

もしかしてこれは、折角回してくれた気遣いを無下にしてしまったことになるのだろうか。
いやでも、だからといって脱ぐのはなんか恥ずかしいし、……どうしろと!?



その時、買い物に行っていた面子が何人か戻ってきた。そのうち一番早くこちらに走って来たのが葉山くんで、両手に焼きそばのジェンガを積み上げて私の横に着地する。

『お帰り葉山くん、買い出しありがとう』

「ただいまどういたしましてーって、名前まだパーカー着てんのー?」

『え、あ、うん、これ実はね、「見てて暑苦しいから脱ごうよ!」っえ、ちょっ、』

ジェンガを私の少し後ろに置いて見事空になった葉山くんの手が、あっという間にパーカーのチャックを掴んで無造作に下げる。

リコちゃんたちと買いに行った水着には私の意見なんて含まれてなくて、上半身は胸にしか布のないそのタイプ故にお腹とかそういうの全部丸見えなわけで。下は何とか短パンの形に納めたけど上はダメだ。

『はっ、葉山くん!?』

「何だ、普通にちゃんと水着じゃん!」

全開になった前を普通に見てくる葉山くんにあたふたしていると、不意に上から影が降りて暗くなった。

「おい葉山何してんだオメー」

「えっ虹村何怖いよどうしたの」

見れば、後ろに虹村くんが立っていて。
振り向いた私と目が合うと舌打ちをした挙げ句、呼んだのは葉山くんのはずなのに腕を引き上げられて無理矢理立たされる。そうして、彼に対して後ろ向きだった私の体をぐるりと回されパーカーのフードを今度は葉山くんに見せる状態になったかと思えば、五秒。


五秒ほど身体を見下ろした虹村くんの両手が、ジーッと音を立ててジッパーを締め上げた。



────「……俺が先に見たかったのに他のやつらに見せてんじゃねーよ」



ボソリと何かを早口で呟いた虹村くん。確実に口は動いていたし音は聞こえたのだけど、一音一音を識別するには些か無理がある言い方だった。
首を傾げる私にまた舌打ちをした虹村くんは厳しい表情のまま命じる。

「苗字それ、絶対脱ぐんじゃねーぞ」

『え、なんで、』

「いいから脱ぐなっつってんだよ。アイス奢ってやるから約束しろ名前

『ッ!?』

初めての唐突な名前呼びに息を止める私はたぶん彼の思う壺で、ここに来て漸く虹村くんは私に口角を上げてくれる。……ニヒルなほくそ笑みだったけれど。


それでもやっぱり不機嫌なのは直ってないらしく、また口を元の形に戻しては葉山くんに手を伸ばした。

「オイ葉山。オメーはちょっと面貸せや」

「痛い!! ちょっ、虹村頭掴むなよ痛いってーー!!」

『虹村くん!?』

私の横を通った手でガシリと葉山くんの頭を文字通り鷲掴んだ虹村くんはそのまま海の方へ葉山くんを引き摺って歩いてしまう。

脱がないか聞いたり脱ぐなと言ったり。しかも名前で呼んじゃったり食べ物を餌に約束を取り付けたり。虹村くんはやっぱり少し横暴で、確信犯なところがあるよなぁと思いつつも。
私を再び白に包んでくれたこのパーカーは絶対脱がないと決めてしまう辺り自分も大概だと苦笑した。


不機嫌な理由は教えられません