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もうすぐ梅雨が明けて本格的に夏に入りそうになった頃のことだった。
七月に入ったばかりの我が洛山高校の生徒達は七夕や夏休みに花火大会などの行事を目の前に浮き足立っている。
いくら文武両道に秀でた名門校でも生徒達は何処にでもいる普通の高校生とは変わらず、勿論私もその内の一人であった。
最も、私の場合は目先の行事に目を輝かせている場合ではない。
夏休みだろうがなかろうが結局私の時間は全て部活へ捧げているのだから。
何処もかしこも浮き足立つ生徒達で賑わう廊下をすり抜けて体育館へ向かう。
少し前まで放課後のこの時間は空に薄っすらとオレンジ色が滲んでいたのに、今はまだ鮮やかな青色のまま。
「そんなに溜息ばかり吐いていると幸せが逃げてしまうよ」
突然背後から声をかけられて振り向くとそこには唇に緩く弧を描いている赤司くんがいた。
赤司くんの指摘に私は無意識に溜息を吐いていたことに気がついて苦笑いする。
それから私と赤司くんは体育館へ向かって並んで歩き出した。
「それで、何かあったのか?」
赤司くんは私が溜息を吐いた理由が気になったようで尋ねてきた。
七夕や夏休みに花火大会、私も行きたかったなと思って。
と言いたいところだが、そんなことを赤司くんに言えるわけがない。
仮にも私はバスケ部のマネージャーなのだ。
遊んでいる場合ではない。
「ずいぶんと日が延びたなと思っただけ」
嘘は言っていない、事実、先程廊下の窓から見た景色に素直にそう感じていたのだから。
私の返答に赤司くんも廊下の外へ視線を向ける。
まだ青い空を見上げながら柔らかに目を細めた。
「確かにそうだな。もう夏だ。そういえば玲央が新しい水着を新調しようと意気込んでいたな」
頭の中に実渕先輩が乙女オーラをふんだんに撒き散らせながら水着について語る姿を容易に想像できる。
ちなみに、男物と女物、どちらを買うつもりなのだろうか。
「名前は水着を新調しないのか?」
ふと、赤司くんが私に視線を向けて思わぬことを言い出した。
赤司くんの表情が真顔なのでこれは真剣に答えを言わないといけない気がする。
「私は新調しないかな。水着を買ってもどうせ私は泳げないし。あ、でも、夏服は買おうと思っているけど」
「別に泳げなくても水着を買って損はないだろう。浮輪やボートに乗って遊んでいれば問題ない」
「いや、まぁ、そうだけど」
「名前には白が似合いそうだな。だが、華やかにピンクでもよさそうだ。それに、水玉模様も名前の可憐さが引き立つと思うよ」
やたらと水着の話に食いつく赤司くんの姿に私は頬が引きつる。
一方の赤司くんは指の背を顎に当てながら真剣に考え込んでいるではないか。
「水着と言っても様々なタイプがある。個人的にはマイクロビキニと眼帯ビキニとタンガがお勧めだ」
どれもかなりの露出が高いのが印象的な水着ばかりだ。
悪いけどそろそろ気持ち悪くなってきた、勿論、赤司くんに対して。
「あ!赤司と苗字だ!」
階段を降りようとしたら上の階から葉山先輩がやってきた。
葉山先輩は軽やかな音を立てて急いで私達の隣に並ぶ。
正直葉山先輩の登場に本当に心が救われましたありがとうございます。
「何の話してたの?」
葉山先輩が大きな目を数回瞬かせながら興味津々に尋ねてくる。
あまり人に言えない話題に私が内心困っているのに対し、赤司くんは表情を変えずに言ってのけた。
「夏と言えば水着という話だ」
赤司くんの言葉に葉山先輩が再び瞬きをする。
それから人差し指を唇に当ててから、何か思いついたようで声をあげた。
「俺は夏と言えばやっぱりアイスだな」
「小太郎の意見も一理あるな。水着でアイスを食べるのもなかなか」
話が噛み合わない赤司くんと葉山先輩の会話に私は苦笑いを浮かべる。
そろそろ本気で水着から離れようよ、赤司くん。
結局赤司くんと葉山先輩の間にある絶対的な壁に阻まれた会話を聞きながら階段を全て降り一階に辿りつく。
しかし、そこで赤司くんが何か思い出したようで足を止めた。
「僕としたことが話に夢中になっていて職員室に寄るのを忘れてしまった。すまないが、二人は先に体育館へ行っててくれ」
赤司くんが踵を返して職員室に向かっていく。
赤司くんの背中を見送ってから私と葉山先輩はお互いに視線をあわせる。
思わず小さく笑い声をあげた。
「赤司でもうっかりすることってあるんだな」
「そうみたいですね」
体育館までの道のりを今度は葉山先輩と二人並んで歩く。
葉山先輩は両手を頭の後ろで組みながらまた先程の話の続きを始めた。
「これだけ暑いとアイスが恋しくなる。ゴリゴリくんでも買ってこようかなぁ」
「これから部活ですよ、葉山先輩」
「苗字だってゴリゴリくん食べたくない?」
「私はゴリゴリくんよりスイカバー派です」
「そっち!?」
大きな目を真ん丸にしながら葉山先輩が私に視線を向ける。
しかしそれも一瞬で、葉山先輩は再びアイスが食べたいと愚痴を溢した。
やがて、葉山先輩の呪文の如く紡ぎ出されるアイスの種類を聞きながらようやく体育館に到着する。
体育館の中では実渕先輩が根武谷先輩にどの水着がいいかとファッション雑誌片手に熱烈に演説していた。
「あー、ダメだ。アイス食べたい」
まだ言うか、そう思いつつ葉山先輩に呆れた視線を向ける。
それと同時に、葉山先輩はパッと表情を輝かせながら私に振り向いた。
「そうだ!帰り付き合って!」
「はい?」
「俺今日は自主練するのやめる!だから帰りに寄っていこうぜ!な?」
「え!?何処に!?」
「それじゃあまたあとで!」
「ちょ!?葉山先輩!?」
私が呼び止めるのも聞かず葉山先輩は軽やかに走って部室へいく。
一方的に約束を取り付けられてしまった私はただただ口をポカーンと開けることしかできなかった。
空がようやくオレンジ色と深い青色が混じりあった頃、本日の部活動終了を迎えた。
我がバスケ部は全国で常に上に立つ強豪校のためこれから自主練する部員が多い。
勿論葉山先輩もその内の一人である。
しかし、それはいつもだったらの話。
部活が終わった早々葉山先輩は私の首根っこを捕まえて、きらきらした笑顔を浮かべて言ったのだ。
アイス食べに行くぞ、と。
いつもだったら私もマネージャーとして自主練している部員達のサポートで残るのだが、渋々帰り支度を済ませ体育館の入口にいるのである。
「あら?小太郎ったら今日はもう帰るの?」
同じく帰り支度を済ませた葉山先輩が待っている私のところへ走ってこようとしたのだが実渕先輩に呼び止められてしまった。
すると、葉山先輩はにへらと笑う。
「これから苗字と一緒にアイス食べに行くから今日は帰る!」
羨ましいだろと無邪気に笑う葉山先輩がとてつもなく憎い。
それもそうだ。
葉山先輩の言葉に実渕先輩は体育館の入口にいる私に視線を向け、含みのある微笑みを浮かべたのである。
「あらあら。名前ちゃんとデートなのね。いってらっしゃい」
「は?葉山が苗字とデート?」
ひらひらと手を振る実渕先輩の隣に根武谷先輩もやってきてしまい、デートという単語に反応してしまった。
そこにもう一人めんどくさい人が現れる。
「今、小太郎と名前が水着を買いにデートすると聞こえたのだが、本当か?」
未だに頭の中から水着の話題が離れない赤司くんの登場に私は思わず頭を抱えた。
これ以上話が大きくなられても困る。
「私と葉山先輩はそういう関係ではありません。だから、これはデートでも何でもないんです」
慌てて割って入ってきた私に実渕先輩がにこりと微笑んだ。
その微笑みに誤解が解けたのかと安堵していたら、そうでもなかった。
「照れなくてもいいのよ。楽しんできなさいね」
「そうだな。水着も選んでもらえ」
再びひらひらと手を振る実渕先輩と、また水着という単語を発した赤司くんの姿に私はもう何も言えなくなった。
そんな私の心情を知らない葉山先輩は赤司くん達に手を振ってから私に向き直る。
「早く行こうぜ!苗字!」
葉山先輩に促されて私は泣く泣く従う。
それから葉山先輩と共に体育館をあとにした。
ちなみに、根武谷先輩はデートという文字には全く興味がなく、頭の中にはアイスの文字だけが浮かんでいたのであった。
そんなこんなで時間のわりにずいぶんと明るい空の下を葉山先輩と一緒に並んで歩く。
葉山先輩は何を食べようかなとぼやいては私に同意を求めるを繰り返した。
「というか、何処へ行くんですか?」
「何処って、アイス食べにだけど?」
「だって葉山先輩はゴリゴリくんが食べたかったのでは?コンビニ、とっくにすぎてしまいましたけど」
私の言葉に葉山先輩が目を丸くしながら私に視線を向けてくる。
不思議そうに首を傾げてしまった。
「コンビニに行くだけだったら今頃自主練してるって」
「では、どちらへ?」
「内緒」
葉山先輩が悪戯っ子のように人差し指を唇に当てて笑っている。
なんだか私だけが何も知らないみたいで悔しい。
最も、葉山先輩の考えていることを私が分かるはずもないのだが。
葉山先輩と歩き続けていると、学校からずいぶんと離れた場所にある通りに辿りついた。
清流に架かる太鼓橋を渡ると、その先には古い木造建築のお店がずらりと建ち並んでいる。
家具屋さん、呉服屋さん、甘味処などに目移りしながら葉山先輩の背中を追う。
時々華やかなかんざしと着物を身に纏う舞妓さん達とすれ違い、私は思わず感嘆の溜息を吐いた。
「京都って素敵ですよね。こうして昔ながらの日本文化に触れることができるし、何より街並みが綺麗でうっとりとしてしまいます」
「そうか?そういうのは俺には分かんないや。赤司なら理解できそうだけど」
お世辞にも葉山先輩は芸術家タイプには見えないので、その言葉に妙に納得してしまう。
ふと、葉山先輩が足を止める。
「じゃーん!到着!」
私に振り向いてそう言ってから葉山先輩は一足早く暖簾をくぐる。
私も慌てて暖簾をくぐった。
すると、木造建築のお店の中は檜の香りで溢れていて何処となく落ちつくものがあった。
ガラス張りの冷凍庫の中にはそんなに種類はないものの、様々な味のアイスが売っている。
「どれもおいしそう」
思わず声に出してしまうと、私の隣から葉山先輩の笑い声が聞こえてくる。
ムッとしながら葉山先輩を見上げると、葉山先輩も私に視線を向けていた。
「苗字ならそう言ってくれるって思ってた」
そう言った葉山先輩の表情がとても嬉しそうなものに見えてしまい、私は怒ることができなかった。
少しだけ気恥ずかしく思い、葉山先輩から再びアイスに視線を戻す。
よく見ると変わったアイスの名前を見つけた。
「この壬生菜のアイスをください」
私のすぐあとに葉山先輩も注文する。
それからアイスを受け取ってからお店を出た。
通りを抜けた先にある鴨川の河原でアイスを食べることになった。
先程まで明るかった空はもうそろそろ夜になるようで深い青色が多くなり、ちらほらと星も見える。
「あの、すみません。おごってもらって」
「そんなこと気にするなって。そもそも俺が苗字のことを誘ったんだし」
私の隣に座る葉山先輩は大口を開けてアイスにかぶりつく。
ちなみに、葉山先輩のアイスはチョコレート味。
私は葉山先輩にいただきますと告げてからアイスに口をつける。
興味本位で頼んだ壬生菜のアイスは苦味もなく甘すぎることもなくおいしい。
よく売っている抹茶に比べると甘味が少ない。
「おいしい」
「だろ?ここのアイスすっげえうまいんだ」
心底おいしそうにアイスを頬張る葉山先輩の姿に思わずクスッと笑う。
よっぽどアイスが食べたかったのだろう。
「壬生菜ってどんな味?苦い?」
「いいえ。苦くもなく甘さ控えめで私にはちょうどいいです」
葉山先輩が興味津々で私のアイスを凝視する。
私は持っていたアイスをそっと葉山先輩の口に近づけた。
「一口、どうですか?私の食べかけですけど、その、葉山先輩が気にならなければ」
葉山先輩の目が大きく見開かれる。
自分で言っておいて恥ずかしくて、思わず視線を鴨川へ向けた。
「うん、食べる」
葉山先輩の大きな手がアイスを持つ私の手を包み込む。
緊張で肩が震えた。
「なぁ苗字、こっち向いて」
言われた通りに葉山先輩に顔を向けると至近距離に葉山先輩の顔があった。
驚きに小さく声を溢すと、葉山先輩は眉を八の字に下げてしまう。
「目、閉じて」
その言葉に私の頬が一気に熱を集めてしまう。
いつものような無邪気な笑顔ではなく、真剣な表情を浮かべた葉山先輩はまた更に距離を詰めた。
「分かってないから言うけど、これ、デートだから」
体育館を出る前にした赤司くん達との会話が頭の中に浮かんだ。
そういえば、あの時否定したのは私だけで、葉山先輩は何も言っていない。
「葉山先輩」
「ん?」
「もう暗いから帰らないと」
「いつもはもっと帰りが遅いくせに」
「せっかくのアイス、溶けちゃいます」
「まだ溶けないって」
「あの、」
「分かったから、目、閉じて」
また近づいた距離に私は反射的に目を閉じてしまった。
その瞬間、私の唇に柔らかいものが押し当てられる。
それは本当に一瞬ですぐに離されてしまった。
目を開けると私の手を離して黙々と自分のアイスを頬張る葉山先輩の姿がある。
私も黙って残りのアイスに口をつける。
もうすっかり暗くなってしまった夜空の下、私達二人はお互いに耳まで真っ赤に染めながらアイスを食べ続けていた。
唇に触れる冷たいアイスのように、葉山先輩の唇に触れた私も溶けてしまいそうです。
触れたら溶けると思います