手からこぼれ落としたものがあまりに大きすぎた、という事実に苦しめられている。

自分が強いとは思っていなかったけれど、こんなに弱いとも、思わなかった。

忘れられないのは、きっと私だけ。
あなたはさっさと私とのことなんて忘れて、他の子に、私を幾度となく触れた手で唇で、愛を伝えているんでしょう。



「…森山くん、あの、」

「いんだ、分かってたことだし」

「でも、わたし…」

「ゆっくりで、いいって言ったのは、俺だもん」

「森山くん…」


ベッドに押し倒された私の腕がとられ、優しく起こされる。森山くんは、傷ついたような笑顔を浮かべるわりに、口調はとっても優しくて。
罪悪感しか湧かない私は、ただひたすらにごめんなさい、ごめんなさいと、思うことしかできなかった。



半年前、長年連れ添った最愛の彼と別れた。
理由はなんてことない、すれ違い。
お互い社会人として任される仕事の量も責任も増え、必然忙しくなった。同棲していたものの仕事の都合上、出勤時間と帰宅時間が丸かぶりするという運のなさ。同じ場所で暮らしているはずなのに会えない。別れは、そんな日々が続いていた最中に告げられた。
愛していたから。泣きつくような真似をして、これ以上彼を苦しめたくはなかった。
彼が私とうまくいかず、そして、それが重荷になっているということを、私は知っていた。

“「今までありがとう。」”

そんなありきたりな台詞しか出てこなかったけど、あの思いは本物だった。彼を愛し、彼に愛されたという事実は、この関係が終わっても消えることなどないと。それは嬉しくもあり、悲しくもあるなと自嘲気味に笑い、朝早く、彼が目を覚ます前に家を出た。



そして私は森山くん、という、完全に無理矢理連れていかれた合コンで出会った男性とお付き合いを始めた。その合コンはクリスマスに催され、相手のいない可哀想な男女6名が集った。そんな中でひときわ顔のよかった森山くんだったけれど、実は、“ナンパばっかりしてるって聞くよ”“そんな軽いのは流石にやめときなって”と、私を強制連行した張本人達からイエローカードを出されていた。そして、


「あ、俺苗字さんお持ち帰りするわ」

一次会が終わり、次の店へ移ろうと店内を後にした矢先。いきなりイエローカードの彼が、さも当然であるかのように、その時の私にとってはレッドカードまがいの台詞を放った。
そういうことだから、と言って私の腕を強引に引く彼に抵抗することも叶わず、私はあからさまに心配する友人の声を背に、駅へ向かった。
運が良いのか悪いのか、駅は会場のすぐ近くだったので、声を荒げたり走って逃げたりすることもできず。しかし驚いたことに、駅から届く明かりが強くなってきた時、掴まれていた腕がふっと軽くなった。


「はい」

「…え?」

「なんか苗字さん、あんまり乗り気じゃなさそうだったからさ。でも二次会行かないとは言えないくらい、気遣い屋さんなんだろうなって。だから、今日は帰りなよ」

「………なんで、」

「俺、可愛い子を自分からリリースしたことなかったんだけどなぁ」

私の質問には答えず、元々切れ長の目をさらに細めて優しく笑う彼に、不覚にもドキ、と心臓が音を立てた。
その日は素直に感謝の気持ちを述べ自宅へ帰ったものの、数日後には二人きりで会う約束をどちらからともなくしていた。



「ココアか紅茶、どっちがいい?」

「…ココア」

「ん」

何の役にもたたない、過去の恋愛を引きずり回しているヘタレ女のどこがお気に召したのかは分からない。だけれど確かに彼は“「ゆっくりでいいから。俺と付き合って、こっち、向いてほしい」”という言葉どおり、大切に壊れ物を扱うかのような優しさで私の側に居てくれる。

彼を、好きだと思う。
こんなに格好いい人にこんなに優しくされて、好きにならない女などいるのだろうか。
だからこそ、どうしても“そういうこと”をしようとすると前の彼の顔がちらつく、そして分かりやすいほどにそれが表情に出てしまう自分を、とても恨めしく思う。彼にあんな顔をさせたくなどないのに。愛してくれる人を、私も心から受け入れたい。愛し返したい。



「…森山くん、」

「ん?」

「私…忘れたい」

「…」

「嫌かもしれないけど、私がどんな顔してても無視して」

「…名前ちゃん」

「心からあなたに、好きって、言わせて」

「…俺も君も、バカだな」


コトリと手に持っていたマグカップを机において、近づいてくる彼の顔。目を閉じれば違う顔が浮かんできそうで、そっと目を開けていた。

「…目、閉じて」

ほとんど距離のない唇がそう囁く。
私はその言葉に不思議と安心して、静かに目を閉じた。


「…すき」

唇が離れた瞬間に涙がこぼれ落ちる。
ああ、なんて幸せなんだろう。こんな人を私にくれて、ありがとうございます、神様。

「名前ちゃんと会ったときさ」

窓の方を見ながらぽつりと彼が話始める。

「サンタさんが、俺にくれたんだと思ったんだよね。」


“一生ものの宝石をさ”


私たちが出会ったクリスマスは雪の降らない、特段寒くもないただの冬の日。
でも確かにサンタさんはくれたのだと思う。
こうして彼のとなりにいられる、その権利を。
そしてそれは、あの時彼に引かれて歩いた、静かな駅までの道の中で手にいれたのだと思う。


「まぁ俺は、“すき”って言うより愛してるけど」

にっこり嬉しそうに笑う彼に胸が締め付けられる。
再び近づいてくる唇に、今度は自然と自ら、目を閉じた。