「半田くん、これからよろしくね」

初々しく頭を下げ、優しくてふわふわした笑みを向けながら挨拶をしてきた名字におう、とこちらも笑顔で返した。名字が席に座るのを確認すると、俺は机に突っ伏しながら無理に笑顔を作ってひきつっている頬を両手で覆って小さく溜め息を吐いた。後ろの席のマックスに「何その変なポーズ」と笑いを堪えているような声色でバカにされる。だって、だって。
一週間前に担任の口から発せられた「よし、来週は席替えするぞー」という宣言におっしゃ、と心の中でガッツポーズを決めた日が懐かしい。今日という日をどれだけ楽しみにしていたことか。今日があったから、この一週間どんなことがあっても頑張れたと言っても過言ではない。それなのに、これだ。
首を長くして待っていた席替えの結果が挨拶もしたことない奴と隣だなんて。こんなの、机に突っ伏して溜め息つく他ない。
本人の前では言えないけど正直もっと可愛い子とか、親しくて話しやすい奴と隣の方が良かった。別に彼女作りたいとか、下心があるわけじゃないし、第一中途半端な俺に彼女なんてできるわけない。ただ、せっかく授業を近くの席で一緒に受けるとしたらやっぱ楽しい方がいいじゃん?うん。はっきり言ってしまうと名字は地味で、可愛くないわけではないが可愛いって訳でもない。どちらかと言うと優等生の部類で、いつも本ばっかり読んでるから友達といる所もあまり見たことがないし、皆から少し近寄りがたい、と距離をおかれている。話したこともないのにこんなこと言うのはなんだけど、やはり俺も少し名字を苦手だと感じていた。

がっくりと項垂れていると一時限目開始の鐘が鳴り、担任と入れ替わるように数学の先生が教室に入ってきた。授業が始まるらしいのでとりあえず数学の物を一式出そうと机の中をあさった。が、引き出しの中に数学の教科書は、なかった。嘘だろと思い中から教科書を全部出したが、あるのは社会、国語と数学とは違う教科書ばかり。
さーっと血の気が引いていく。まずい。自分の顔は今頃蒼白になっているに違いない。他の教科の忘れ物ならまだよかった。何故って。雷門中の数学の先生は、めちゃくちゃ怖い。授業中、小さなくしゃみをしたり咳をするだけで凄い声で怒鳴るくらいの先生。忘れ物なんてもっての他。
やばい、やばいよ俺。もしかしたらこれ今まで生きてきた中で一番やばい状況かもしれない。

そんなことを思っている間にも学級委員が起立、と号令をかけて授業は開始されようとしている。
着席しつつ、どうか教科書使いませんようにと願う俺の願望は先生の「教科書42ページ開け」と言う声で崩れ去った。どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。

「おい!」

皆の肩がびくりと揺れる。円堂なんてあまりの驚きに首を折って気絶している。ああ。あれはただ寝ているだけか。
俺は心臓をドキドキさせながらこちらへ歩いてくる先生を見た。どう言い訳をしようかと頭の中をこれでもかというくらい働かせていたが、生憎俺の頭はパニック状態で使い物にならない。ああ、もうだめだ。鼓膜が破れるような怒声を覚悟して目を瞑った。想像していた通りの猛獣の鳴き声のような声が静かな教室全体に広がる。けれど。
先生の発言の中に何故か俺の名前は出なかった。
出てきたのは、あいつの名前。

「名字!教科書はどうした!」

教室が一気にがやがやと騒がしくなる。あの名字さんが忘れ物?と後ろの席のマックスも信じられない、というように呟いていた。何故名字が呼ばれたんだと名字を見るとさっきまで置かれていた数学の教科書が跡形もなく無くなっていた。最初は不思議に思ったがその理由は俺の机を見ればすぐにわかった。数学の教科書は、いつの間にか俺の机に移動していたのだ。

名字は立ち上がり先生に「すみません。自分の不注意で忘れてしまいました。以後気をつけます。」と丁寧な口調で頭を下げた。先生は「次から気をつけるように。座れ。」と言うと珍しくすんなり黒板へ戻って行った。多分、名字の礼儀正しい対応にこれ以上は怒らなくても大丈夫だろうと察したのだろう。
名字は安心したようにほっと胸をなで下ろし、俺の方を見てにこ、と笑った。その額には、汗がぽつりと浮かんでいる。

「半田くん、教科書一緒に見せてくれるかな」

「え、あ、うん。どうぞ」

借りたのは俺なのに、何我が物顔でどうぞとか言っちゃってんだ、俺。と思いながら離れていた俺の机を名字の机にくっつけ、間に教科書を置いた。
名字はありがと、と小声で礼を言い何もなかったようにいつもの真面目な表情でノートを開いて黒板の文字をすらすらと書き写していた。しばらく何が起きたのかわからなかったけど、俺、助けてもらったんだよな。うん、そうなんだよ、な。確かめるように自分の心の中で自問自答する。

真剣な眼差しで先生と黒板を見据える名字に、一瞬話しかけるか躊躇われたけど多分今言わなかったら、一生言えない気がして。できるだけ大きな音をたてないようにぴり、ぴり、とノートを小さく慎重に破っていく。消しゴムくらいのその紙切れに不格好な字で、授業なんてそっちのけで自分の思いを書き綴る。
とん、と優しく名字の腕を肘で叩くとぴくんと反応する小さな肩。先生の注意が黒板に向いた瞬間ノートの切れ端をそっと素早く名字の膝の上に置いた。

一度周りをきょろきょろ見回して切れ端の文字に目を通すと名字の顔はほんのり赤くなり、「うん」と小さな小さな声で返事をしてくれた。あれ、こいつちょっとかわいい、かも。


(ありがとな)



120325 / パステルカラーの爪先で駆け抜ける