名字先輩とは新学期が始まってすぐに別れた。原因は俺だった。先輩と付き合いながらも他の奴に浮気して先輩にそれがバレたという何とも単純明快な理由である。それからも先輩は前と変わらず俺に話しかけてくれてきたけれど、前みたいに二人きりの時間などはなくなった。

名字先輩はとても優しい人である。温和で和やかで決して美人ではないけれど、サッカー部のマネージャーとして懸命に働き、選手が活躍すると自分のように喜び、選手が疲れていれば誰よりも先にその選手に駆け寄り手を差し伸べた。選手を第一に考え、日々のハードな仕事をあたかも平気そうな顔でこなしていく姿はチームメイトみんなに評価されていた。

そんな名字先輩に惹かれて好きです、と耳まで熱くしながら精一杯告白した日が懐かしい。ただでさえ暑い目眩く夏の日だった。名字先輩も俺に負けないくらい真っ赤な顔をして私もだよ、って噛みまくりながら言ってくれたんだっけ。
何故かその様子をサッカー部の全員が見ていたらしく佐久間先輩曰わく「二人が顔真っ赤にして並んでてさくらんぼみてえだった」とのこと。その時はどんな気持ちより羞恥心が勝っていてあまり気にしなかったけれど、今思えば夏なのにさくらんぼだなんて、おかしな話だ。こんなどうでもいいことを気にしてしまうほど、あの日がもうどこか果てしなく遠いところに行ってしまったような感じが、する。

先輩と付き合っていながら俺にはもう一人の彼女がいた。すっげえ可愛い奴だったからあちらから告白してきた時、ついオーケーをしてしまったのだ。その時は「やっぱり俺もガキだなあ」なんて思ったっけ。
土曜日だったか、日曜日だったか。休日に街中で俺が違う彼女と手を繋いでデートをしていた所に丁度部活の買い出しに来ていたであろう先輩と直面することとなった。何故先輩がここにいるんだと俺は慌てては彼女を隠すように先輩に笑いかけた。先輩は一瞬目を丸くして戸惑いの表情を浮かべたけど、すぐにいつもの花が開きそうな温かい笑顔とは打って変わって大変悲しそうに笑った。明日の部活頑張ろうね。そう言い残して先輩は何もなかったかのように俺達の横を通り過ぎた。

左の胸がほんの少し痛かった。罪悪感と情けなさが同時に俺の首を締め上げた。そして枯れかけていた先輩への気持ちが、俺が引き裂いた先輩の心の傷の血潮を吸って毒々しい色の花を咲かせた瞬間だった。

あんなことになってしまって今更気がついたのだった。違う彼女の方にばかり気を回していて、先輩には何一つできていなかった。デートだってしたことがなかったし、抱き合ってもいなかった。キスだって、まだまだ先のことだって先輩となら、と思っていたのに。何も、できてないのに。
彼女を止めようとした腕は行き場をなくし、ぎゅっと握り拳を作っても先輩よりも小さくてちっぽけな塵一つ掴めない。隣の彼女は様子のおかしい俺に何回も呼びかけていたけれどどうでも良かった。その頃の俺は、どこか遠いところを見ていた。





「なーるくーん」

「…」

「ちょ、なるくん?」

「…」

「なーるくーんてば!」

「うわっ何?」

「その台詞そのままそっくり君に返すよ」

はぁ、と呆れたように溜め息を吐く洞面にそうか自分がぼうっとしていたと自覚する。どうやらこいつはもうすぐ休憩時間が終わるのを知らせるために、何度も俺を呼んでいたらしい。最近こんなやりとりを誰と何回しただろうか。
丁度鬼道さんの呼び出しがかかったのでさんきゅ洞面、と軽く礼を言うとしっかりしてよね、とちっちぇえ手で肩を叩かれた。痛くねえっての。そう毒づいて小さな友情に感動しながらグラウンドまで走る。
集まった先には名字先輩もいて、少し胸が嫌な音をたてたけど構わず走った。
皆が鬼道さんを囲んで指示を待っている。洞面と俺も急いでその中に入った。
全員が集まったのを確認すると鬼道さんが少し重苦しそうに口を開いた。

「キリが悪い時にすまない。今日は皆に大事な話がある」

大事な話と聞いてグラウンド内が少しざわつき始める。次の練習試合が中止になったんじゃないかとか練習場所が変更されるんじゃないかとか色々なことが飛び交うけれど、そんなことだけなら鬼道さんはこんなに険しい表情はしない。それはわかる。
しかし覚悟を決めたように鬼道さんが口にだしたのは予想以上に残酷で、聞くのも辛い事実で。

「今日限りでマネージャーの名字がサッカー部を辞めることになった」

しん、と空気が底無しに冷えた。声が出なかった。隣の洞面も佐久間先輩もみんなみんな黙っていた。前に立つ名字先輩は相変わらず笑顔で、今から先輩がいなくなるなんて信じられない。信じられない。信じたくない。首にかけているヘッドフォンを思わず耳に当てて叫びたい衝動に駆られた。

「き、鬼道さん、冗談でしょ」

「冗談じゃない。名字は今日限りでサッカー部と関わることはない」

やっとの思いで口を開いたであろう辺見先輩の言葉は軽く一蹴される。なんで、なんで。いきなりのことについていけなくて疑問ばかりが募った。手が震える。もしかして俺のせい?俺が浮気なんてしたから?先輩に辛い思いをさせたから?そんな自惚れた考えが頭を過る。

一年の奴らも二年三年の先輩もみんな心底悲しそうな面持ちで俯いている。暗い面々に少し戸惑っている名字先輩は場を明るくしようと努めているのか笑顔で口を開いた。

「で、でも転校するわけじゃないし辞めるのもちょっと忙しくなったからだし、サッカー部のこともずっと応援しています」

だから、これからも頑張ってください。

皆に向かって深く頭を下げた名字先輩は頭を上げると今にも泣き出しそうな顔で笑っていた。その様子に一年の奴らは顔をくしゃくしゃにして泣いていて洞面も俺のジャージを掴んで一生懸命涙を堪えているようだった。
みんな悲しんでいる。
みんな泣いている。
みんな別れを惜しんでいる。
だけど俺の目からは涙が出ることも出そうになることもなくて、ただ、寂しくて寂しくて、狂いそうだった。

部員の一人一人に握手していきながら先輩はみんなに声をかけていた。

辺見くんならまた絶対レギュラーになれるよ!
洞面くん、必殺技期待してるから。

沢山の先輩の呼びかけが耳に入っては通り抜けついに俺の前に先輩がやってきた。俯けていた顔を上げると優しい先輩の顔。にっこり笑って俺の元に今まで仕事を頑張ってきたその努力の賜物といえるであろう乾燥しきって赤くなっている手を差し出した。
震える手を恐る恐る先輩の手に重ねてみる。付き合っていて一度も繋いであげられなかった手。カサカサしているけれどほんわりしたその優しい温もりは俺の乱れた心を落ち着かせてくれているようで。

「成神くんの手、みんなの中で一番冷たいね」

ぎゅう、と握りしめる力が強くなって心臓がどきりと鳴る。じわじわ温もりが広がっていって、体がポカポカ温かくなる。久しぶりに近くで聞く、先輩の鈴の音みたいに澄んでいる声。何か言わないと。そう思っているのに言葉が喉をつっかかってはまた消える。何も言えずにいる俺を見てちょっと困った顔をする先輩。

「えっと、気にしなくていいんだよ?あの時のこと」

「え、」

「その代わり、彼女さん大切にしないとだめだからね?」

「あ、の、先輩」

「風邪ひかないようにね。部活頑張るんだよ!」

最後にわしゃわしゃと俺の頭を撫でて、先輩は行ってしまった。嫌だ、待って行かないで。引き止めたいのに胸につっかかる黒い何かがそれを阻む。俺は前みたいに先輩を止めることもできず、ただそこに立ち尽くしていた。でも本当は、何となく自分の気持ちには気付いていた。

**、なんですよ、先輩。

伝えずに終わったその言葉はもう何の意味も成さない。
俺が視線を向ける先には名字先輩、隣にはもう俺ではない、先輩の想い人が二人で笑い合っていた。俺は自分の気持ちをそっと摘んで足でグリグリと踏みつけた。





110429 / 再恋(サイレン)
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