七五三のときに撮った華やかな家族写真の隣に置かれた水槽の中を、悠々と泳ぐペットの金魚に「行ってくるな」と告げて俺は慌ただしく家を出て行った。途中途中で爪先を地面に打ちつけながら履ききれていない靴を足に収め、陸上部とサッカー部で鍛え上げられたこの足の速さで時間のない中を必死に走る。

いつもはスポーツマンシップに乗っとり早寝早起きを心がけている俺だが、今日は珍しく寝坊をし、登校時間の30分前というかなり際どい時間に目が覚めてしまったのだ。原因は、昨夜珍しく半田とメールのやり取りをし、思いの外話が盛り上がって寝るのが遅くなってしまったことだろう。慣れない夜更かしに、目が腫れぼったく感じる。時間がなく、鏡と睨めっこする時間もなかったけれど、きっと酷い顔をしているのだろうなと心の中で苦笑いをした。

学校の門をくぐり抜けた直後にタイミング良くチャイムが響き渡る。と共に、後ろで校門ががちゃんと閉まる音が聞こえて、ふう、と安堵の息をつき校舎の中へ入った。すると、校舎に入ってすぐに両横にある靴箱の前に、見慣れた背中を視界が捉えた。せっせと靴を履き替えているその背中の持ち主は俺が良く知っている奴だったけれど、俺は大きな違和感を抱いた。違和感の正体は、彼女の頭をみれば明白であった。

「おい、お前…」

そいつは呼ばれると俺の方を見て目をまん丸くした。そしてえっと、えっと、と忙しなく目を色々な所に泳がせて、あのぅ、とどもった声で言ったきり、だんまりを決め込んでしまった。
彼女は、比較的大人しい性格で、あまり喋らない。喋っても、このようにえっとやあのを乱用し、用件を話すのに最低3つ程のそれらを交えなければ会話が成り立たない、口下手でもある。しかし、幼馴染である俺には、こいつが口数は少なくとも優しく、思いやりがあって、偶に茶目っ気のある冗談を言うことも知っている。
そんな幼馴染は、今日何故かいつも解いている艶やかな長い黒髪を上の方で綺麗に纏め上げていた。そのせいか大人しい彼女が、元気で活発な女子に見え、その変貌っぷりに少し驚いてしまったが、俺が話しかけた途端不安気になった顔を見て、ああ、いつものこいつだと少し笑みが落ちた。

「よう、今日は髪纏めたんだ……な」

このように純粋に思ったことをぶつけようとしたところ、それは避けられ、彼女は猛スピードで長いしっぽを揺らしながら廊下を駆けていってしまった。廊下に走るなという先生の怒号が響くけれども、あいつは止まる様子もなく豪快に階段を飛び上がって行くのが見えた。

何か用事でもあったのだろうか。俺が来た時にここにいたってことは結構あいつも時間ギリギリだったわけだし、まああまり深く考えても仕方ないかと自己完結して俺も教室に向かおうと靴箱を後にした。




昼休みになると男子達がいっせいに元気良く教室を飛び出し、女子達は楽しそうに会話に花を咲かせる。今日もいつも通りの昼休みだ。

「風丸ー!早く行こうぜ!」

サッカーボールを手に収め、こちらに向けて手をぶんぶん振っている円堂に今行くと伝える。後ろには半田とか一年の奴らもいて、待たせちゃいけないなと思い席を立った途端不意に視界に入ったのはあいつだった。ポニーテールを風がそよそよと揺らし一人で窓越しの何かを見ているその横顔はなんだか久しぶりに見た気がした。だってそうだ、あいつはいつも長い髪をカーテンのように垂らして顔なんて滅多に見せない。昔から他人の視線が苦手で、髪でできる限り隠していると自分で言っていた。
ぼうっとしていた俺にもう一度早く早く!と焦れったそうに叫ぶ円堂に悪い先に行ってくれと両手を合わせて謝ると円堂はそうか、わかった!とすこし残念そうな表情をしたがすぐに気を取り直したように行こうぜ!とまた元気な声をあげながら他の男子達と同じように教室の外へかけていった。円堂達がいなくなったのを確認すると、俺はもう一度彼女に視線を向けた。髪型について聞こうと声をかけようかと思ったけど、最近あまり話していないせいか、あいつがいつもと違う姿をしているからか、少し躊躇いが生まれた。しかし今更躊躇ったって仕方ない。意を決して俺は「よう」と声をかけた。小さな肩に手を置くとそれはぴくりと小さく震え彼女は恐る恐るこちらへ顔を向けてきた。もしかしたら無視をされるのではないかと少し不安であったがそんな杞憂は5秒も立たずに終わる。こ、こんにちは。小さな唇がそう挨拶を口にしたのに安堵して、俺は彼女の隣に移動した。
目が合うと慌てたように手で頬を覆って目を細め顔を背けられる。細んだ瞳が微かに潤いを帯びているように見えて大丈夫か?と尋ねてみるけど聞いてみても返ってくるのはふるふると首を横に振る仕草だけで。
「ご、ごめんね…久しぶりだから、ちょっと、緊張しちゃって、て」
という彼女の言葉に少しばかりショックを受ける。長い付き合いだし、少なくとも俺は仲が良いと思っていたので緊張などと言われれば多少はへこむ。しかしこいつの性格上、それはしようのないことなのだろう。それに、別に彼女のそういう所は嫌いじゃない、というかむしろ可愛いとさえ密かに思っている。
基本あまり人に心を開かない彼女だが、俺にだけは心を開き、一朗太くんと控えめな笑顔で名前で呼んでくれる。それがいつも嬉しかった。

「緊張する気持ちもわかるけど、長い付き合いなんだからリラックスして話そうぜ。な。」

彼女の顔を覗き込むようにして笑いかけると、彼女の表情もたちまち緩んでいき、小さく笑みを作った。

「う、うん…そうだね、久しぶりだけど、一朗太くん変わってなくて、よかった」

昔から、ずっと優しいままだね。と、唐突に何の恥じらいもなくそんなことを言い出したから今度は俺が取り乱す番になってしまった。「あ、ああ、ありがと。」しどろもどろな返事になる。上手く会話ができない。彼女の魂が俺に乗り移ってしまったような気分だ。

「あ、そういえば、その髪型どうしたんだ?朝から気になってたんだが」

勢いに任せて力づくで本題に引きずりこむと目の前の彼女はぴしりと固まったと思ったらまるで機械が故障したかのように、ああああ、あのう、ええ、ああ、などとあ行の文字をランダムに何度も何度も呪文のように呟く。これはもしかして聞いてはいけないことだったか。見事な慌てっぷりに何も言えず俺まで慌てていると、案外早く落ち着いたようで、名前は口を真一文字にしてやがて黙りこくってしまった。しばらく二人の間に沈黙が流れる。何かを話そうとは思っても時間が経つにつれて彼女の顔はみるみる赤くなっていき、最終的には林檎みたいになって顔を俯けてしまった。どうしたものかと心配になり思い切って口を開いたが先に開いたのはあちらの方だった。

「あ、あのね…?」

「うん」

「この、か、髪型…変、かな?」

自分の髪をいじりながら精一杯言葉を紡いでいく彼女。変だなんて微塵も思っていない俺はそんなことないよ、と正直な気持ちを伝えた。

「むしろすげー似合ってる、と思う」

そう言った瞬間俺に恥じらいの波が押し寄せる前に彼女の顔は嬉しそうにひまわりみたいな眩しい笑顔を咲かせて、ありがとうと恥ずかしそうに、呟きに近い声で言った。いつもと髪型の違う彼女が笑うと笑顔も一味違って、すごく可愛いと思った。何か吹っ切れたのか、彼女はだんだんと口数を増やして話し始める。

「あのね、この髪型、一郎太くんの真似してみたの」

自分のポニーテールをゆっくりとした動作でするりととかして照れ臭そうに彼女が言った。その動作がなんだか俺を愛おしむように思えて胸がくすぐったく感じる。

毎日サッカーを頑張っている一朗太くんをみていたらね、誰よりも早く走る一朗太くんのポニーテールが風を駆け抜ける姿がとっても綺麗だなって、思ったの。それで、あの、昨日の夜、頑張って練習したんだ。

最初会った時よりもずっと饒舌になってそんな感じのことを言う彼女の目は言われてみれば少しばかり眠そうな隈ができていて、昨晩の彼女の様子が頭の中で安易に想像できた。確かに俺はいつも髪は上に縛っているけれど、まさか俺を真似ていたなんて言われるまで全く気付かなかった。
て、言うか、今の話だと少なくとも、俺のことは話さない間も視界に入れていた、ということだよな?それはそれで、正直に嬉しい。けど。
そんなことを考えていればだんだん羞恥心がじわじわと顔を侵食していって、その熱は頬から耳まで行き届く。今の俺はきっと先ほどの彼女と同じくらい赤いだろう。傍で不思議そうに俺を見ているこいつに何を言えばいいのかわからなくて、とりあえずありがとうなと言いながら彼女のポニーテール頭を撫でるのが精一杯だった。


110116(120219→131103) / ポニーテール仲間