「え……」

 枕元のフミの姿を認めると同時に布団を跳ね飛ばし起き上がった霊幻。暖まっていた身体にひんやりとした部屋の空気が触れ、一瞬だけ全身が強張る。直前までの眠気はすっかり吹っ飛んでいた。

 目を合わせると不安な表情をしていた彼女はほっとした様子で良かった、と呟く。しかしそれよりも霊幻の視線を奪ったのは、寝ていたせいか浴衣の合わせ目がはだけ谷間が露になっている胸元だった。

「一人じゃちょっと怖かったの、」

「ちょ、それよりお前、それ!胸!」

「え?……あっ」

 必死にそれだけ伝えると自分の格好に気付いたのか、フミは慌てて浴衣を正す。そのあとに自分に向けられたやや軽蔑の混ざった視線は目を反らして受け流した。

「そんで、なんだこんな夜中に……」

 ほんのちょっとだけ期待した自分が馬鹿らしく思えて、深い溜め息を一つ吐いてから尋ねる。すっかり冴えた頭はもう眠気を取り戻すつもりもなさそうである。脱力した霊幻に対し、フミは片方の耳を塞ぎながら緊張感のある声で返した。

「ねえ、今何か聞こえない?」

「ん?」

 そう言われて耳をすましてみたものの、聞こえるのは旅館の外に流れる川のほんの小さな水音と、室内の空調設備の機械音のみである。外には森が広がっているが、今日は風がないのか葉が揺れる音はなく、至って静かだった。

「別に、何も聞こえねえけど……」

 霊幻の返事を聞いた途端、 再び顔を曇らせたフミ。きょろきょろと落ち着かない様子で部屋を見回している彼女に、霊幻も小さな胸騒ぎを感じた。

「さっきから太鼓と鈴の音がするのよ……もう一時間は鳴りっぱなしで」

「一時間って……」

 フミは強力な除霊能力を持っていながら、幽霊を見ることはほとんどない。職業柄、霊幻も時折幽霊を目にするが、強すぎる能力のせいなのか、一般人にも見えるような霊をも彼女は見ることが出来ないのである。

 その代わり、視覚には映らなくともフミには幽霊がそこに存在するという気配が感じ取れる。それはなんとなくであったり、匂いであったり、触ってみたりと様々だが、今回は何かを聞き取ったのだろう。
 しかしこういうときは、いつもなら彼女が持ち歩いている手製の札で除霊しているはずである。

「幽霊じゃないのか?」

「それが、分からないのよ……部屋の四隅にお札も貼ったけど静かにならなくて。それより段々と音が大きくなってきて近づいてるような気がするの」

「……マジかよ」

 流石の霊幻もその言葉に背筋が冷える。
 フミが何とか出来ないものが自分にどうこう出来るわけがない。ようやく彼女の表情の意味が分かり、しかし何が出来るわけでもなく黙り込む。

(そうだモブ!アイツなら―――)

 と、隣で寝ている弟子の肩を揺らすが、かなり激しく揺さぶったにも関わらず彼は気持ち良さそうな寝息を立てて深い眠りについている。頬をつねってみても軽く頭を叩いてみても結果は同じだった。

「音、もうすぐそこまで来てるわ……」

 月が雲に隠れたのか、薄暗い室内が更に暗くなる。その中でも分かるほど顔色の悪いフミが必死に手を握ってきた。こんな状況じゃなけりゃありがたいのに、と頭の片隅で考えながら、霊幻は自分より一回り小さい冷えたその手を握り返した。

 見えない、聞こえない、感じないのであれば存在しないのと大して変わりないが、目に見える以外の曖昧な感覚で何かを察知してしまうということは、“何だか分からないが何かが近づいてきている”という恐怖を感じさせてしまう。正体が分からないもの程、恐ろしいという感情は強くなるものである。

「あっ!」

「な、なんだ?」

「音、止んだ……」

「…………まさか」

「ちょうど、窓の外辺りにいる……」

 布団のなかで暖まった身体はすっかり部屋の空気と同じぐらいに冷えきっていた。

 雲に隠れていた満月が再び顔を出す。柔らかい月明かりが深く射し込み、僅かに明るくなった部屋に、霊幻は何かの影を見た。

「何かいるぞ!窓の外!!」

「嘘!見えないわよ!」

「ど、どうするよ」

「どうするもなにも……」

「…………」

「…………」

「……分かったよ、俺が見てくる」

 数秒ほど無言の押し問答が続いたが、この状況で嫌だと言うほど霊幻も情けない人間ではなかった。少しだけ温もりの残った布団から足を出し、月の光で薄ぼんやりと明るい窓際に歩み寄る。
 障子に映る影は人のものではない。頭の位置に立った三角の耳が見え、霊幻はほんの少し息を吐いた。

(なんだ、ただの動物―――)

 しゃらん。

 耳にはっきりと届いた高い音。
 フミがずっと聞いていたものがそれだと分かった瞬間、大きな音と共に障子が木枠ごと吹き飛んだ。

「わっ!」

 反射的に腕で頭を抱える。細かな木片が霊幻に飛んでくるが、狭くなったその視界に白い何かが見え、彼は慌てて部屋の奥へと走った。

「フミ!!」

 一直線に向かってきたそれが飛びかかる前に、背中を向けるようにしてフミを抱きかかえる。その一瞬後、後頭部に重いものが打ち付けられ、霊幻の意識はぷっつりと途絶えた。


□□□□


「師匠。もう朝食の時間ですよ」

 何かに身体を揺さぶられ、ぼうっとした頭のまま瞼がゆっくりと上に上がった。見えるのは木の板の天井と、覆い被さった黒い影。しばらくたってようやくその影が見慣れた弟子の姿だと気づいたとき、今度こそ彼の頭は覚醒した。

「!?そうだあの影ガッ!!」

「ッ?!」

 自分の顔を覗き込んでいたモブに勢いよく頭突きを食らわせ、しばらく痛みに悶えた二人。顔を覆っていた手を下げたとき、涙で滲んだ視界に大きく開いた窓が見え、急速に額の痛みが引いていく。
 首を捻って周りを見渡すが、部屋に居るのはモブと霊幻の二人だけだった。

「フミ!オイ、無事か!?」

「起きたのね。おはよう」

「フミ!」

 洗面所の方から聞こえた声に立ち上がった所で、支度を終えたらしいフミがいつも通りの姿で部屋に戻ってきた。見たところ特に異常はない。

「お前昨日のアレは……」

「ええ、あとで詳しく話すわ」

「詳しく?」

「とりあえず朝ごはん、食べにいきましょう?」

 朝食を取るために部屋を出た三人は、昨日とは違う旅館内にあるレストランへと向かった。バイキング形式のため、各自食べるものをテーブルへ運んでから三人揃って手を合わせる。箸を片手に、ようやくフミは事の顛末を話し始めた。

 彼女曰く、あのとき襲ってきたものは幽霊ではなく、この地域で崇められている“地神様”であったという。
 旅館のそこかしこに置かれた狐の絵や像と昨日の白い影は似ているようには見えなかったが、そう言われるとなるほどしっくりきた。幽霊でないのなら、フミの札が効かないのも頷ける。

 旅館の女将が言っていたように、あの部屋の外は元々神様の通り道である。そのため近くにいたフミの清い気配を感じとり、地神様はやって来たと言う。

「だが昨日のはどう見ても襲おうとしてただろ……実際お前を庇ったとき俺は気絶したぞ」

「なんというか、地神様もはしゃいでたみたい。“強い気配を感じたのでつい高ぶってしまった。申し訳ないことをした”って謝ってたわよ」

「ガキかよ……」

 茶碗を持つ手を下ろし、がっくりと霊幻は肩を落とした。
 向かいに目を向けると、そんなことがあったんですか、とさも他人事のように言って玉子焼きを頬張るモブ。現場にいた癖にのんびりと寝入っていた弟子を悔しげに睨む。散々な目にあった霊幻とは反対に、よく眠っていたおかげかすっかり疲れがとれたらしく、いつもの三白眼は心なしか目付きが柔らかかった。

 呑気な様子のモブが羨ましく思え、霊幻は半ば自棄になって目の前の飯を胃袋に詰め込み、とったもん勝ちと言わんばかりに皿いっぱいに食事を取ってきた。しかしそれ以上に悔しかったのは、そこの食事がやけ食いには勿体ないほど美味かったことである。

 朝食を終えてから荷物を纏め、事が起きた部屋を出る前にもう一度見回す。

 壊れたはずの窓の障子は綺麗に直っており、昨晩の出来事がさも無かったことのような気さえした。

「お騒がせな神様とやらのせいでこっちは大迷惑だったぜ」

「そういえば、あなたが庇ってくれなかったら気絶してたのは私だったのよね。……ありがとね」

「…………。まあ、な。貴重な体験だったってことでよしとするか」

「ふふ、そうね」

「とりあえず、休みが欲しいな……」

 ぐんと伸びをして、紅葉のトンネルをくぐり抜けて山を下る一行。この後二週間ほどぱったりと依頼が途絶え、嫌でも長い休みがやってくるのだが、それはまた別の話。

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