まだ中途半端な時間帯のためか、人の影は少ない。入り口でフミと別れた霊幻とモブは、広い脱衣所で服を脱ぎ、早速大浴場へと向かった。

 湯気で白く濁った視界の中、身体を手早く洗い中の湯に少しだけ浸かってから、外へ続く露天風呂の戸を引く。
 とたんに身体を撫でる涼しい空気と川の水音に、一瞬ぶるりと鳥肌が立つ。頭上に広がった色とりどりの葉が、時折露天風呂へ舞い落ちては水面を乱している。そんな景観を楽しむ前に、小走りで真っ先に湯に浸かった霊幻。ああーー……と力が抜けた嘆息に、モブは自分との年齢の差を少しだけ感じてしまった。

「温泉なんて何時ぶりだっけか……仕事続きの身体に染みるぜ」

「これ、天然温泉なんですよね。あんまりそんな感覚ないけど」

「まあ、硫黄の匂いがしたりお湯が赤かったりってのももちろんあるが、これは違うな。浸透性が高くて肌にいいタイプのやつだ」

「そんなの分かるんですか?」

「書いてあるだろ、ホラ」

 霊幻が指差した方を見ると、確かに泉質表示がされている掲示板があった。美人の湯、と大きく書かれた古めかしい文字の下には“肌によくなじむ柔らかいお湯。汚れた角質を取り除き美しい肌に生まれかわれる『美人の湯』として、女性に人気―――”と説明がつらつらと書かれていた。

「ナトリウムとかカルシウムが含まれてるお湯は大抵そう言われるやつだ。っつーかこんな掲示板男湯に置かれてもな……」

「そうですね」

 女性には嬉しいものだが、二人には特に興味もないことだった。もちろんそれ以外にも疲労回復の効果はある為、ゆっくりと湯を楽しんだといえば楽しんだのだが。
 美人の湯といえば、フミなら喜んで入っているかもしれない。そういえば温泉に先に行きたいと言ったのも彼女だ。別に美人の湯がどうこういうつもりはないが、そうでなくともフミは綺麗な方だとモブは思っていた。

 特別目を引くほどではない。だが人当たりの良さそうな笑顔は見ていて暖かい気持ちになれるもので。料理も美味しいし、しっかりものでよく気の回る彼女は、とても素敵な女性だとモブは思っていた。

「……師匠は幸せ者ですよね、フミさんみたいな素敵な人が奥さんだなんて」

「はッ!?」

 いきなりモブの口から飛び出た言葉にすっとんきょうな声を上げる霊幻。なんとなく口にしただけだったが、変に慌てたようなリアクションをとる師を不思議に思いながら少しだけ眉をひそめた後、自分が言った台詞を思い出して訂正した。

「あ、すいません、奥さんじゃなかったんですよね」

「んっんん、そうそう!奥さんじゃない、から!うん!」

「でもじゃあ、フミさんはなんで相談所にいるんですか?」

「なんでって……そもそもなんでいきなりフミの話なんだ?」

 どうも自分は頭で考えていたことを脈絡なく口に出してしまう癖があるらしい。状況を飲み込めない霊幻にそれまでの思考回路をすべて話すと、形容しがたい苦い顔をしながらああうん、と微妙な返事が返ってきた。

「アイツもお前とだいたい一緒だな。自分の力の使い方に迷ってたみたいだから連れてきたってとこか。ついでに就職口も探してたから採用しただけだ」

「へえ……でも僕みたいに師弟関係って訳でもないですよね」

「フミのは超能力とは違うからな。それ以外に雑用も引き受けてもらってるし、あくまで仕事の補助なんだよ」

「そうだったんですか」

「さ、そろそろ上がるか」

 話を一旦切り上げて腰を上げた霊幻。そういえば随分湯に浸かっていたかもしれない。同じように立ち上がれば、くらりと頭が揺れる感覚を覚えた。
 脱衣所の冷たい空気が心地いい。椅子に腰かけて備え付けられた扇風機に当たりながら息をつくと、身体中の力が抜けていくような気がした。

「げっ、増えてる……」

 隣の体重計に乗って渋い顔をしている霊幻をちらりと見やる。恐る恐る目盛りを読んでいる彼を横目に、のそのそとした動きで浴衣を着込み、再び椅子に身体を預けた。

「ほら」

「あ、牛乳……!」

「温泉といや、やっぱコレだろ」

 渡されたそれに、普段あまり変化のないモブの表情が綻んだ。彼の好物である牛乳は、今ではあまり見ることのない瓶に入っている。紙の蓋を開け、両手で抱えたまま瓶を傾けると、冷たい牛乳がひんやりとした感覚を伴って喉を滑っていった。

 さっきより落ち着いたモブが横を見ると、同じように瓶を持った霊幻が腰に手を当て豪快に牛乳を飲み干している。牛乳の飲み方はこれがベストだぜ、と得意気に言う様子はなるほど様になっていたが、口の上についた白い髭がその台詞を台無しにしていた。

「髭ついてますよ」

「あ、ほんとだ……って、お前もついてんぞ」

「え」

 口の上を手で擦ると冷たい液体の感覚。二人揃って白髭をつけながら牛乳を飲む姿は、そこにフミがいたなら笑われていただろう。その後、霊幻と同じように腰に手を当てて牛乳を飲むモブの姿を、脱衣所の清掃員が微笑ましげに眺めていたのは誰も知らない。

「はー温まった温まった」

「フミさんは……まだみたいですね」

 暖簾をくぐって脱衣所から出てきたモブが目の前にある休憩所を見渡す。テレビやマッサージチェアが置かれたそこにいるのは男ばかりで、女性の姿はない。

「女はこういうのにはやたら時間がかかるからな。だが待ちくたびれて腹を立ててはいけない。いくら遅れて来たとしても笑顔で迎える、そういう心掛けがモテる男への第一歩だぞ、モブ」

「はい師匠!」

「いい返事だ」

 満足げに頷いた霊幻は休憩所のマッサージチェアに身体を沈める。待っている間の時間潰しらしい。モブもそれにならって隣の椅子に座るが、機械の強い指圧は彼にとっては痛みでしかなく、すぐに電源を切る羽目になった。

「フミさん……まだですかね……」

「まあ急くな、たっぷり待てばその分いい思いが出来る」

「いい思いって?」

「風呂上がりの女ほど色っぽいものはねーぞ?」

「ごめんなさい!お待たせしちゃったわね」

 途端に焦ってマッサージチェアから立ち上がる霊幻。噂をすれば、と言うところだろうか。冷ややかな目で彼を見たモブは、しかし戻ってきたフミに視線を移してから、一瞬前の自分を心の中で叱った。

「師匠が言ってたことは本当だったな……」

「?何、なんの話?」

「風呂上がりのお―――」

「あーあーあー!!まだ時間が余ってるなーどうすっか!?そうだ確か向こうに卓球台があったぞ!やるよなモブ?」

「え、せっかく汗流したのにですか?」

「軽く身体動かすだけだ。俺も少しは運動した方が……いや、みなまで言うこともないが……とにかく行くぞ!!」

「……さてはあの人、筋肉落ちて焦ってるのね」

 一人でずんずん進む霊幻の背中を眺め、お見通しとばかりにほくそ笑むフミ。ヒールを履いていないせいで自分より少しだけ低い背丈の彼女に続き、モブも卓球台のある遊技場へ向かった。


□□□□


「あっ!」

「モブ、球を打つときはもっと腰を落とせ。膝を曲げてフットワークを軽くしろ!」

「は、はい!」

「たかが温泉卓球なのにやたら真剣ね……」

 正確かつ最もな呟きをしたフミは、卓球台から離れた椅子に座り、球を打ち続ける二人を眺めていた。霊幻の方は何故か手慣れた様子で球を送っており、モブは次々と迫るそれに必死に食らいついている。
 昭和のスポ根アニメさながらの光景に苦笑しか浮かばなかったが、しばらくすると流石についていけなかったのか、息を切らせながらモブがこちらに戻ってきた。

「大丈夫?」

「は、はひ……」

「ちょっと、大人げないわよー!」

「俺はモブのことを思ってやってるだけだ」

「モブくんの為じゃなくて自分の為の癖に……」

「なんだ、そう言うならお前がやってみるか?」

「え!?えっと……私はいいわよ、汗かきたくないし」

「ま、元々お前運動音痴だしな。そもそも俺の相手になんねーか」

 その瞬間、フミの頭のなかで何かが音を立てた。普段温厚な彼女だが、霊幻に馬鹿にされるときは決まって気が短くなってしまう。

 もっと分かりやすい挑発ならフミも冷静になれたのだろうが、その台詞が本心からくるものだと分かったからこそ、彼女は黙っていられなかったらしい。隣に座ったモブが驚いて跳ね上がるほど勢いよく立ち上がったフミは、下ろしていた髪を纏め上げてから卓球台の前に立つ。

 霊幻を静かに見つめる彼女の表情は、十人いればその全員が綺麗だと認めるような、それはもう怖いくらいに美しい笑顔であった。

「あら、言ってくれるじゃない?これでも球技は得意な方なのよ。試してみる?」

「ほーお?」

 背後に何か立ち上るオーラが見えたモブは、反射的に目を反らそうとした。卓球台を挟んだ二人はどちらも笑顔だが、確実に流れている空気は不穏なものだ。

 静かにラケットを手にする両者。

 隣では和やかなムードで卓球を楽しんでいる学生たちがいたが、彼らとは全く異次元の空間が作り上げられている気さえする。モブが冷や汗を流して見守る中、霊幻が静かに球を上げ、試合は開始された。

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