空が高い。 遥か頭上に浮かぶ雲は、オレンジの光と空の青に照らされ、柔らかな極彩色にその身を染め上げている。地平線に程近くなった太陽の強烈な光は、名残惜しむようにゆっくりと沈んでいく。 そろそろ秋ねえ、とフミはぼんやり空を眺めた。 珍しく午後からバイトが入っていたため、今日は事務所には一度も顔を出していない。そもそも呼び出されてもいないので本来ならそのまま自宅のアパートに帰っても別に構わないのだ。しかし朝はバイト、昼からは事務所、夜とっぷりと日が暮れた頃に自宅に帰るという習慣が、気がつけば事務所へと勝手に足を進めていた。 (ま、夕ご飯も一人より二人よね) 未だに太陽の日差しはきついが、吹く風は微かに冷たくなり始めている。広く視界の開けた土手をぶらぶらと歩いていると、小さな向かい風がフミの前髪を揺らした。 「今日は何つくろうかしら……」 どこからかカレーの美味しそうな匂いが漂い、夕暮れ時の土手は途端に恋しい空気に包まれる。鼻腔をくすぐるその匂いでふと思い付いたフミは、事務所の冷蔵庫に何が入っていたかを思い出そうとした。 確かこの間買った茄子と昨日の豚肉が残っていたはずだから、トマトと一緒に炒めて―――ああ、そういえばトマトはあの子が全部食べてしまったんだった。 霊幻の弟子である超能力者の少年。まだ子供らしい体躯の割りに食事を掻き込んでいた以前の食いっぷりを思い出し、フミは一人で笑顔を浮かべた。 部活に入って体力を付けたいと言っていたが順調に進んでいるだろうか。モブにしては珍しく、自分自身の意思でその部に入部したらしい。いつも仏頂面を崩さない彼がどんなことを考えているのかは分からないが、一生懸命に活動に取り組んでいる風景は想像できた。 霊幻の言うことをよく聞く、いい意味でも悪い意味でも素直で真面目な子だということはフミも知っている。そんな彼が自分から決めたことなのだ、がむしゃらに頑張っているのだろう。 「なんて名前の部活だったかしら……ええと、肉がどうとか……」 「にく、かい……ふぁい、おー、ふ、ふぁ……」 「ああ、そうそう肉改……肉体改造部、だったような……ん?」 横から弱々しく聞こえた声の主は、歩いていたフミをゆっくり、ゆっくりと抜いていく。走り込みの途中なのか、体操服を着た小柄な人物は息を切らせながらひたすら足を動かしていた。 が――― 「あっ!ちょっと、大丈夫ですか!?」 少し離れたところまで走っていくと、突然糸が切れたようにばったりとその場に倒れ伏す。汗だくになった背中を支えて身体を起こすと、見知った顔がそこにあった。 「モブくん?」 「は、はぁ……あれ、フミ、さん……?」 □□□□ 「落ち着いた?」 「はい、すみません……」 「大丈夫よ、気にしないで?」 先程モブが走っていた土手から少し降りたベンチに座る二人。太陽は強い光を発しながらもじわじわと下から消えていく。次第に下がる気温の中、先程より更に涼しい風が目の前に広がる川と草むらを揺らしていた。 「自主練習?」 「は、はい……。中々肉改の人たちについていけなくて……一人で走り込みを」 「頑張ってるじゃない。でも無理はダメよ?身体を壊しちゃったら元も子もないもの」 「そうですね……」 肩にかけたタオルで未だに止まらない汗を拭きながら、モブは俯いた。なにもそう焦らなくても、と言いたいところなのだが、必死に力を付けようとしている彼に水を差すのも悪い。そう思ったフミは前から気になっていた疑問を彼にぶつけた。 「そういえば、モブくんはどうして体力を付けたいの?」 「えっ、ええと、大したことじゃないんですけど……」 「?」 明らかに動揺したモブに首を傾げる。何か後ろめたい動機なのだろうか。数秒躊躇う様子を見せたモブだが、少ししてぽつぽつと言葉を溢し始めた。 「じ、実は僕、小さい頃好きな子がいて。その子にはよく超能力を見せてたんです。物を浮かせたりして、喜ばせようと思って」 照れ臭そうに頭をかくモブの表情はどこか柔らかいように見える。もじもじと言葉尻を濁しながら彼は続けた。 「でも、ツボミちゃん……その子、ツボミちゃんって言うんですけど、しばらくすると飽きちゃったみたいで……超能力で何かしても“つまんない”って」 「あら」 「ツボミちゃんは超能力なんかより足の早い男子に夢中で……女の子は、運動できる男の子が好きなんだなって」 「……えーっと、つまりその子にモテたいってこと?」 「えっあっそれだけじゃないんです!今までずっと超能力に頼ってきちゃったし、単純に運動できるようになりたいなっていうのもあって……!」 焦ったように早口で捲し立てたモブがもの珍しく、フミはわたわたと慌てる彼の様子をしばらくぽかんと眺めていた。図星だと言っているような分かりやすい弁解に腹の奥底から笑いが込み上げてくる。 「ふ、ふふふ……!!そんなに一生懸命にならなくてもいいのに……ふふ、」 「えっええ……そんな、笑わなくても……」 「あっご、ごめんなさいね!ふふ、いや、なんかモブくんも男の子なんだなあ、と思ってね」 「はあ……」 いつも落ち着いた受け答えをしていて忘れかけていたが、モブは中学二年生、まだまだ子供なのだ。年相応な一面が垣間見え、どこか安心したのかもしれない。彼には失礼だと思いながらも、なかなかフミの笑いは止まらなかった。 □□□□ モブと別れた後、事務所に到着したフミは冷蔵庫を覗き込む。あくまで保存食や来客用の茶菓子のみを入れる用でしかなかった小さな冷蔵庫は、野菜やら肉やらでいっぱいになっていた。最近は事務所で食事をすることが多いため、知らない内に食材が増えていたらしい。今日の夕食二人分なら充分足りる量だ。 「そろそろどうするか考えないとね」 朝以外はほとんどここで食事を取っていることだし、自宅の冷蔵庫をここに運んできてもいいかもしれない。霊幻に一応許可をもらう必要もあるが、まず大丈夫だろう。 よし、と腰を上げたところで事務所のドアが開く音。声もかけずに開けたところからして、恐らく依頼を終えた霊幻だ。 「おう、来てたのか」 「おかえりなさい。依頼は?」 「ああ、霊関係なさそうだったから適当にあしらっておいた」 「なら安心ね、あなた除霊以外のことは大抵うまくできるもの」 「それ誉めてんのか貶してんのかどっちだよ……」 「両方よ」 今日必要な食材だけを台所に広げ調理にとりかかるフミの後ろを横切り、霊幻は冷蔵庫から麦茶を取り出しその場でコップに注いだ。 「っああ〜〜うめえ!」 「おっさん臭いわねえ……」 溜め息を付きながらもいつものことなので、特に咎めることもなくフミは手を動かす。見た目だけの印象で言うのなら容姿は悪くはないし、事務所の経営主としてはかなり若く見えるはずだが、振舞いが残念だとどうしても中年親父に見えてしまう。先程会ったモブとなんとなく見比べそうになって止めた。 「そういえば、さっきモブくんに会ったわよ。走り込みしてたわ」 「部活の自主練か。そういえばんなこと言ってたな」 「体力つけたいんですって。なんてったかしら……女の子にモテたいとかなんとか」 フミがそういった途端、ははあーなるほど、と霊幻の感心した声が聞こえた。てっきり吹き出して笑いだすものだと思っていたフミは、その納得したような反応に首を傾げる。 「分かる、分かるよモブくんキミの気持ち。女にモテたい、これ男の永遠の夢だからね、うんうん」 妙に悦に入った喋り方に、誰に話してんのよ、とやや呆れ気味に呟く。どうも心底モブに共感している様子だ。モブも霊幻も、そういった意味では考えることは同じらしい。 「というかアンタ、モテないのね……やっぱり」 「やっぱりってなんだ!俺はなあ、好きな女と一緒にいれりゃそれでいいから今は別にモテたいとか思ってねーの!」 「えっ」 がちゃん、と食器が音を立てる。 あまりに衝撃的な発言に、フミの思考は完全に停止した。途端に訪れた沈黙を不思議に思ったのか、ソファに座った霊幻がこちらを振り返る。 怪訝そうな表情で何かをいいかけたその口が途中で大きくぽかんと開けられた。自分の言葉の意味に気がついたのだろう、ああいやそのえっとな!?と混乱した様子の霊幻に、フミはぽつりと声を漏らす。 「あなたがそんな純愛思考だったなんて初めて知ったわ……やだ、似合わない」 「……はあ!?おま、失礼にも程があんだろ!」 「あ、ご、ごめんなさいねあんまりにもだったから」 「ったく……」 再び手を動かすフミと、彼女をしばし睨み付けてからソファに座り直す霊幻。ほんの一瞬生まれた気まずい雰囲気はそこにはもうなかった。 (“今は”ってことは……) (うっかり口滑らせたけどバレてねーよな……) のんびりとした空気が流れる事務所。いつも通りに振る舞う二人は、お互いの脳内で巻き起こっている嵐に気づくことはなかった。 [前] | [次] 戻る |