「あら、塩がない」 キッチンの奥、コンロのすぐ横に並べられたケースの内の一つが空っぽになっていた。 今の時刻は午後六時を回った頃。ちょうど晩御飯時である。 珍しく遅い時間に依頼が入り、一時間ほど前に事務所を出ていった家主とその弟子の為に晩御飯を用意して置こうと思ったのだが、料理においてほぼ不可欠な塩がないとなるとどうしようもない。 確か買い置きがあったはず、と後ろの戸棚をすぐに確認する。この前買ったまだ封も開けていない袋詰めの塩は、その袋ごと姿を消していた。 塩の行方が分からず、キッチンで立ち尽くし腕組みしたまましばらく唸ってみる。 自分が使った記憶はないし、ここのところ毎日事務所に晩御飯を作りに来ているから、食事の際彼が使った可能性も少ない。とすると、後考えられるのは一つ。 「まさか……」 この事務所の主である霊幻新隆に軽く悪態を付きながら、フミは財布を手に、近くのスーパーへと大急ぎで出掛けた。 □□□□ 「お?今日はサンマか〜!!」 「ただいま、フミさん」 「おかえりなさい。モブくんの分も作っちゃったから、今日は食べていって?」 「あ、どうもありがとうございます」 程無くして帰ってきた二人。ちょうど夕飯が出来上がったところで、サンマの焼ける芳ばしい匂いが事務所に立ち込めていた。 腹を空かせた二人はソファーに腰かけて食事の到着を待つ。少しもたたずに手慣れた様子で食事を運んできたフミは、てきぱきとテーブルの上に食器を並べてからエプロンを外して霊幻の隣に座った。 「おーし、今日はご苦労だったなモブ!依頼も無事遂行したし、んじゃー一杯いくか!かんぱ―――」 「ちょっと待ちなさい」 「あ、ちょっ、なんだよフミ」 気持ちよく音頭を取ろうとした霊幻の手にある缶ビールを奪い、眉に皺を寄せたフミは疑わしげな視線を隣へ送った。 「アンタ、キッチンにあった塩どうしたの」 「ん?塩か?それなら今日の除霊に使って……あ、そうだあの塩ちゃんと清められてなかったぞ?お陰で俺の必殺技も不発……ゴホゴホ、」 「当たり前じゃない、あれ普通の食塩なんだから!」 やっぱりこいつだったか、と頭を抱えたフミには構わず缶の蓋を開けてビールを喉に流し込む霊幻。豪快にサンマの身をほぐしながら口に運ぶ姿は自分が腹を立てているのが馬鹿らしくなるほど堂々としていた。 「んなこと言ったってよ、オメー普段から触るもの全て清められるって前言ってただろ?だから台所の塩は清められてるもんだと思ったんだよ」 「そんなこと言った覚えないわよ……」 ああ勿体ない、と沈んだ気持ちで自分も食事を口に運ぶ。先ほどスーパーで買ってきた塩を使ったサンマの身は程よく味が染み込んでいて、じわりと口の中でそれが広がった。 ふと向かいを見ると、勢いよく食事を掻き込むモブの姿。今までとは全く違う食いっぷりに、フミはくすりと苦笑を漏らした。 体力がないのが悩み、と言っていたが最近部活動で運動を始めたせいか、明らかに前より食が進んでいる。やはり育ち盛りの中学生、作りがいがあるというものだ。 「でも、確かにそういえばフミさんが触ったものって少しだけそんな感じしますね。本当にわずかなんですけど、それに気づくなんてさすが師匠です」 「だ、だよな!?ほら、お前は霊とか見えないから気がつかないだけだって!!」 (アンタも見えないでしょ……) 弟子の前で言うのもあんまりなので発言は控えたが、こんな分かりやすく動揺するような調子でどうやってモブを騙し続ける気なのだろうか。そもそも純粋な中学生を口八丁手八丁で丸め込んで利用しようという魂胆がまずあんまりなのだが、もう言及する気も失せたためフミは何も言わなかった。 □□□□ いつもの通り食卓で繰り広げられる痴話喧嘩を眺めながら夕飯をすっかり平らげたモブは、ご馳走さまでした、と無愛想ながらにしっかりと挨拶をして事務所を出た。 途中、自分の師匠である霊幻との会話を思い出しながらのんびりと帰路を辿る。 『そういえばこの間も私が使ってたファブリーズ持ち出してたわよね……まさかあれも除霊に使えると思ったの?』 『お前が普段からよく触ってるもんだからと思ってだな、……あー細かいことばっか気にすんなって、姑かっつーんだよ。なあモブ?』 『そうですね、フミさんは姑じゃなくてお嫁さんですし』 『えっ』 『え?』 『…………?あの、どうかしましたか』 『誰が誰の、』 『嫁ですって?』 『え、フミさんは師匠と結婚してるんじゃないんですか?』 『……。そういうことにしとくか?』 『アンタと夫婦なんてちょっと嫌ね』 『まあそう言うなよフミちゃんよ〜〜?この際籍入れちゃう?ん?』 『私、食器片付けてくるわね』 『おうおう照れなくていいんだよ』 『師匠、たぶんフミさん本気で嫌がってます』 (仲良しだし、気心知れてる感じだったからてっきりそうだと思ったんだけど……まあ二人が違うっていうなら違うんだろう) 結局単純な思考に落ち着き、考えることを止めたモブが自宅に着いたのはすっかり日の落ちた頃だった。食卓に座っていた両親と弟に夕食を食べてきたことを告げ、自室へと向かう。リビングのドアノブに手をかけ部屋を出ようとして、モブは思い出したようにほんの少しだけ振り返った。 小馬鹿にしたような、しかし楽しげに言葉を交わす両親の顔が、事務所にいた二人と少しだけ重なったような気がした。 [前] | [次] 戻る |