3/6 拒否する権利もなく、腕相撲は始まった。勝負に負け続け机に叩きつけられたゴンの手の甲は、あまりにも強い衝撃で血をにじませている。机にも同じく痛々しい血液の跡が残っているが、勝負はそれでも終わることはなかった。 何度も何度も手がぶつかる鈍い音が響き、その度にゴンの右手は赤く濡れていく。 どこまで続くかと思われたそれに変化が起きたのは、ノブナガが仲間のために涙を流した時だった。 「仲間のために泣けるんだね」 静かに話し出したゴンにどことなく胸騒ぎを覚えたキルア。 今までゴンと一緒に過ごし、ゴンの事をよく知っている彼は直感的に感じ取ったのだ。 ゴンが何かに怒っていると。 そしてその直感は見事当たることとなる。 「だったらなんでその気持ちをほんの少し……ほんの少しだけでいいから、お前らが殺した人達に―――なんで分けてやれなかったんだ!!!」 そう怒鳴ると同時に、鈍い音。 勢いよく机の上に叩きつけられたのは、今まで一度も負けることのなかったノブナガの手だった。 静寂はすぐに消え去り、緊張の糸がその場に張り詰める。 いち早く動いたのは、真っ黒な衣服に身を包んだ小柄な男。ゴンが腕相撲で勝利した瞬間、男は瞬きの内にその左手を締め上げていた。 「お前、調子乗りすぎね」 「ゴン!!」 身動きの取れなくなったゴンを助けるべくキルアは足を一歩踏み出したが、次の瞬間、後ろから向けられたモノにそれは止められた。背筋から冷たい何かが這い上がるような錯覚と、肌が粟立つ不気味な気配。その発生源である旅団員―――否、ヒソカはゆっくりと言った。 「動くと、殺す◇」 いつもとなんら変わりのない口調に、完全にキルアの動きは停止する。 今動けば、本当に躊躇いなくヒソカは自分の首を跳ねるだろう。あっさりと、淡々と。壊れた玩具を処分するかのように。 想定外の彼の行動と、禍々しいオーラに全身から汗が吹き出すのがわかった。 動けない。 キルアの頭の中は、ただ“恐怖”の二文字だけに支配されていた。 今にもゴンの腕を折らんとする男の殺気とヒソカの放つオーラ、そして旅団員たちの緊迫した空気がその場に漂う。 だが次の瞬間、どろりとした密度の濃い気配が、二人だけでなくこの部屋全体を包み込んだ。 「っ……!?」 更に増した重圧にキルアは苦悶の声を漏らすが、そのオーラに驚いたのは彼だけではなかった。 空気が、微かに揺らぐ。 新たに現れた殺気はその場にいる人間に無差別に振り撒かれている。周りの者を全て拒絶するかのような攻撃的な気配の持ち主は、呼ばれるでもなく自らキルアたちの前に躍り出た。 「っお前……!!」 「よっ。おっはー」 ガキィ、と金属の擦れる嫌な音が広間に響いた。 軽い挨拶と噛み合わない激しい斬撃がノブナガを襲う。恐らく全力で降り下ろされたであろう攻撃は、彼の首元すんでの所で刀で受け止められていた。 「よォ、お目覚めか。気分はどうだ、ルーシャ?」 「あははっ、サイッテーだな」 そう笑い声を漏らしてノブナガに飛びかかったルーシャの顔は、キルアからは見えない。しかし纏う空気が、立ち上るオーラが、いつものルーシャとは明らかに違うものであることは嫌でも感じさせられた。 背後に立つヒソカとはまた別の意味で冷や汗を流しながら、キルアは静かに彼女の背中へと視線を預ける。 刀をひとまずしまったルーシャは、肩をぐるぐると回して固まった関節をほぐしていた。微かに左肩を庇うような仕草を見せていたが、何か怪我でもしているのだろうか。 「ったく、いきなり襲いかかってきて気絶させるとか有り得ねー。あー首痛い」 「そうでもしねーと逃げるだろ、お前」 「そりゃ当然」 「ほれ見ろ、強行手段にでるしかねェじゃねーか」 緊張感の欠片もない会話を交わしながら、ルーシャはぐるりと周りを見渡した。旅団員たちの顔を一人ひとり確認するように視線を巡らせる。 「ふーん、意外と団員交代してねェな……ん?」 そこでルーシャの視線は、目の前の机に押さえつけられているゴンにたどり着いた。 (…………) 一言も発することなく、キルアは彼女の横顔を見つめる。そのままルーシャの目線は、ゆっくりとこちらへ向かってきた。 蒼い瞳孔が一瞬だけ開かれたような気がして、息を止める。 どんな表情をすればいいのか。 どんな声をかければいいのか。 そもそも彼女と今、どう接すればいいのかさえ分からなかった。 キルアは一言も口を開くことなく、ただ目の前の彼女を見つめ続けた。 数秒のにらめっこの後、あっさりとルーシャは彼から目を反らして近くにいたノブナガに尋ねた。 「なんだこのガキども?新入りか?」 「いや……鎖野郎の手がかり、でな」 どうやらとりあえずは初対面、ということにするつもりらしい。知らぬ存ぜぬを通したルーシャに習い、キルアも余計な声をかけるのは止めた。机に突っ伏しながらそれを見ていたゴンも、ひとまず無言を決め込んだ。 一方ルーシャは聞き覚えのない単語に首を捻り、ノブナガの言葉を繰り返した。 「鎖野郎?」 「ウボォーを殺た奴のことよ」 「……は、……?」 無感情な声で小柄の男がそう言ったのを聞いたルーシャは、目を見開いて彼を見る。驚愕と否定の感情が入り雑じり、その口元には自然と笑みが浮かんでいた。理解できない、そんなはずがない。そう強く信じている顔で。 「なに言ってんだ?あいつは殺しても死なねェ身体してんだろーが。寧ろどうやって死ぬん――――」 鈍い、拳のぶつかる音が響く。 机を強く叩いたノブナガは、力なく項垂れた。 「…………死んだんだよ」 絞り出すような悲痛な声で、そう一言だけノブナガは言った。 「…………」 少しの沈黙の後、ルーシャはそうか、と呟いた。彼の死を受け入れたのかどうかは、彼女の口調だけではキルアには分からなかった。 「それがその、鎖野郎とか言うやつの仕業ってわけか」 「そういうこと」 今まで沈黙を守っていた金髪の青年が、そう言ってルーシャの前へと歩み寄った。途端、彼女の眉根が潜められる。不快そうな表情を見た青年は苦笑しつつも久しぶり、と礼儀正しく挨拶をした。 「もしかしてまだ怒ってる?アレは仕方なかったって何度も弁解したじゃないか」 「ああそうだっけ?そんなの忘れたな」 「ご、ごめんって〜」 あたふたと慌てる青年を疑わしげに睨むルーシャ。仲の良い友達が喧嘩したような光景に、キルアは今まで胸の中に感じていた違和感が徐々に形を取り始めるのが分かった。 それは、決して彼にとって良いものではなく、そしてクラピカにとって最悪の事実と成りうる可能性。 ゴンの方を見ると、彼も同じく複雑な表情を浮かべていた。 「まあ別に今更謝られても許す気はないけど」 「そ、そう言わずにさ。もしかしたらまたオレたち一緒に動くことになるかもしれないし」 「はあ?」 「団長の命令なんだよ、ルーシャを連れてこいって」 「マチ……」 マチ、と呼ばれた女性。先程ゴンが捕まったときに一緒にここまで連れられてきた団員の一人である。彼女はつり目を僅かに細めながら、ぽつりと呟くように口を開いた。 「ルーシャ、2ヶ月前に天空闘技場にいただろ?あたし、あんたを見てから団長に言ったんだよ。“ルーシャは生きてた”って」 「そうしたら連れてこい、と?」 「ああ」 マチの答えに、ルーシャは頭をがしがしと掻きつつ深い溜め息を吐いた。どうにもやるせないような、そんな表情。キルアが最初に感じたおぞましい空気はいつの間にか消え去っていた。 「あいつは何を考えてんだ全く。私がお前らに戻ってきてくれ〜とか言われて、はい分かりましたって素直に言うと思うか?」 「ないね。大体お前が戻ることに反対する奴もいるよ、ワタシみたいに」 「オレも、正直ルーシャが旅団に入るのは賛成できねえな」 「同感。いくら空き番があるといっても旅団にはいらないよ」 「フェイタン、フィンクス……コルトピもか」 どこか困ったようにそう言ったのはさっきルーシャに笑いかけた青年だった。見たところ基本的に旅団をまとめているのは彼らしい。団長、と呼ばれたクモのリーダーが居ない時には、彼が仕切り役を買って出ているのだろうか。 いや、それより。 ますますキルアの胸の中の不安要素は大きくなり始めた。ルーシャと旅団の会話から見えてくる答えは、分かろうとしなくとも頭に入ってくる。恐らく、ルーシャは――― 「とにかく団長が戻ってくるまで、ルーシャはここにいてもらうってことで」 「おいシャル、勝手に決めるなよ!私は出てくぞこんなとこ!」 「ヒソカー、ルーシャを頼むよ」 「え、ボクかい?」 思いがけない人選だったらしく、ヒソカは不思議そうな声で先程から彼らのまとめ役をしている青年、シャルに返事をした。 「だってルーシャを止められるのヒソカぐらいしかいなさそうだし」 「まあオレらには無理だろうしな」 お前に預けるのは癪だが、と呟くノブナガを横目に、ヒソカは分かったよ◇とそれを了承した。 (なんだかややこしいことになってきた) ヒソカとルーシャも、天空闘技場で戦った仲だ。彼女がヒソカに交渉すれば、このアジトから抜け出してこれるかもしれない。 「ヒソカ……ってあのピエロか」 「そう嫌そうな顔するなよ。お前の後番だぜ」 「新しい4番か?そりゃまた、クロロもすごい奴連れてきたな……」 大層うんざりした表情でルーシャは肩を落としている。それが演技なのか本心からくるものかは分からなかったが、嫌々ながらも抵抗することなく、彼女はヒソカの隣に並んだ。 「…………」 その際ヒソカの前にいたキルアは、必然的にルーシャとすれ違うことになる。距離が近くなり、ヒソカを除いた他の団員からルーシャの顔が見えなくなった一瞬。 小さな、本当に小さな声がキルアの耳に届いた。 「ごめん。また後で」 ルーシャとはそれきりだった。 その後二人はノブナガの意思によりアジトに閉じ込められた。彼曰く“ゴンたちを仲間にしたい”らしく、旅団の団長が戻るまでアジトで留守番、ということになったのだ。 勿論そのまま黙って監禁されている訳にはいかず、木造蔵の仕組みを応用したゴンのアイデアで二人はそこから脱出した。 アジトから出た後、人気のない暗い道を走りながらゴンがふと口を開いた。 「ねえキルア。ルーシャはさ……あいつらの何なんだろう」 「元幻影旅団の団員かもな」 「!!」 「“また一緒に”とか、“後番だ”とか、奴等との会話からは、そうとしか考えられない」 「でも……でも!」 「まだあいつらの味方だって決まった訳じゃない」 そう言うと、ゴンは必死に首を縦に振った。ルーシャは旅団に戻ることを拒んでいた。昔は仲間だとしても、今そうでないのなら自分たちは彼女を非難する気持ちはない。 ただ―――。 旅団に対して常に憎しみを抱き、復讐に生きている彼をキルアは頭の中に思い描く。 彼は、分からない。 「とにかく、ルー姉はまた後で説明してくれるはずだ。それを待とう」 あの時聞いたルーシャの絞り出すような言葉だけを信じて、キルアとゴンは夜のヨークシンを駆けた。 [前] | [次] 戻る |