束の間の休息


「少し、休んだら」
 私が夜遅くまで仕事をしているのを見て、周りはみんなそう言った。そういう時はいつも笑みを形作って、曖昧な返事をしてやり過ごすのだが、いい加減にしてほしいと思う。
 休んでいる暇など、ないのだ、私たちには。やることは、山のようにある。
 活動する元手とするための資金や、それらを動かすための人材を確保するのが大前提。それ以外にも、活動拠点を確保しなければならないし、生活基盤を成り立たせるために、利用できる取引先を探し、契約をしなければならない。どれもこれも、早急に行わなければならないことだ。
 休んでいる暇なんて、ないのだ。組織の復活のために、彼が心酔しているサカキ様の為に、何よりも、その彼のために。
 今度こそ、世界を征服するのだ。そして、私たちを貶めた奴に、報復を。
 今は、そのための大事な大事な準備期間なのだ。
 一人、また一人と今日の業務を切り上げて、各々の時間を手に席を立っていく。まだ残って作業をやっている人間は僅かだ。
 机の上に山積みになっている資料を一枚手に取った。横に開いている帳簿と睨めっこしながら唸る。どこから予算を取るか、これを早く終わらせなければ、次の取引ができない。
「ふぁ……」
 頭をフル稼働させているせいなのか、それとも、何時間も休まずに事務作業をしているせいなのか、眠気が私を襲ってくる。そういえば、昨日はあまり寝ていなかったし、その前の日も寝なかった気がする。今日こそはゆっくり眠りたいものだが、どうだろうか。
 無理やりにでも頭を覚醒させるため、コーヒーを飲もうとカップを手に取ったが、あまりにも軽いことに気付いた。どうやら、既に飲み干してしまったらしい。温かいものを淹れに椅子から立ち上がって、異変を感じる。
「……っ」
 頭にくらりと来る強い重みと、眩暈が襲ってきた。一瞬で視界が真っ白になる。体に力が入らず、重力に抗えない。
 ……ぁ、まずい。
「ナマエさん!?」
 隣の席に座っていたはずの同僚の、驚きと焦りを含んだ声が、酷く遠くで聞こえた。

〇〇〇〇〇

 音が鳴っている。モーターが絶えず駆動している音だ。次いで、風が自分の顔に一定の間隔で当たっていることに気付いた。
「……ふぁ」
 上半身をゆっくりと起こすと、欠伸が漏れ出た。つい今しがたまで眠っていたはずなのに、まだ欠伸が出るということは、余程の睡眠不足だったのだろう。だが、休んでいる暇は、ないのだ。まだ、やらなければならないことが。
「何をしているのです」
 早々にベッドから抜け出そうとしていたところを見咎めたのは、ロケット団の暫定のボス。サカキ様のいない、今のロケット団を導く男だ。そいつが、部屋の入り口で呆れたような表情をして立っていた。その手が持っているのは、カップ麺。丁度、食事を摂ろうとしていたらしい。
 そこで、はたと気付いた。見覚えのある部屋はしかし、自分がいつも過ごしている空間ではないということに。
 白塗りの壁と、床。天井までご丁寧に白塗りなのだから、ここがどういう空間か、否応なく認識させられてしまう。が、その事実を認めたくはなかった。
「もしかして、医務室?」
「以外のどこに見えるというのですか」
 疑問は口からするりと零れたが、彼はそれを呆れと怒りをもって迎えた。どうやら、また、倒れたらしい。
 それを自覚して、大人しくベッドへと潜り込む。もはや常習犯と言っても過言ではないくらい、ここへ運び込まれ、その度に彼が横にいた。別にそんなことをしなくてもいいと言っているのに、彼はいつもすっ飛んできてくれている、らしい。
「……アポロは今からご飯?」
 とりあえず怒りを逸らしておこうかと、彼の持つそれに目を向けた。時間は分からないが、カップ麺なんて食べようとしてるくらいだ。まともな食事を摂っていないことは容易に想像できる。だが、それを私が指摘すればとてつもなく大きなブーメランが返ってくるから、絶対に言わない。
「えぇ、お前が倒れてくれたおかげで、こうして食べることができます」
 おかげで、などと言っているが、明らかに怒っている。声音がいつもよりも低いのだ。
 分かっている、分かっているのだ。倒れた原因は、睡眠不足と食事を摂っていないことだってことくらい。だからこそ、そこを衝かれるのは非常に痛い。言外に、私が食事を摂っていないことを分かっていますよ、お前はそれで倒れたんでしょう、と彼は語っているのだ。その表情が、雄弁に。
「一体、何度目だと思っているんですか」
 麺を啜りつつも彼は私を責めてきた。残念なことに、もう何度倒れたかなど数えていないから、無言を貫く。そんな私に慣れているからなのか、構うことなく彼は食事を続けている。
「早食いとカップ麺は体に悪いよ」
「お前に言われる筋合いはありません」
 ダメだ、もう何を言っても怒られる。どんなに話題を逸らそうと頑張っても、きっと今の状況を皮肉してくるのだろう。直接言われるよりもきつい。もう大人しく怒られる方が楽だ。そして、早く済ませて仕事に戻りたい。止まってる仕事を進めなければ。
「周りが、休め、と言っている意味をナマエは理解していません」
「してるよ。こうやって倒れるから休めって」
「ならどうして今ここにいるのですか」
「う……」
 厳しい一言だった。ぐうの音も出なくなる。間違いなく私が悪いのだ、他の誰も悪くはない。
「……でも、やらなきゃいけないこと溜まってるし……」
「それが倒れる言い訳ですか?」
「なっ、言い訳なんて、そんなっ!」
 言いかけて、言葉の続きが思い浮かばなかった。勢いだけで言い切ろうにも、何も思い浮かばなかった。それほどに、アポロは険しい表情をしていた。多分、私が何を言っても、許してはくれないのだろう。
 何を言っても、微塵も説得力を持たない。私は、それほど無理をしていたのだと、この段階にいたって、初めて気づいた。
 悲しくて、悔しくて、ぐちゃぐちゃだ。どうして、私は彼を気遣わせてばかりなのだ。自分は彼をほとんど気遣えないくせに。
「ナマエ」
 一向に続きを喋ろうとしない私を見て、彼は口を開く。気付けば、彼が食べていたカップ麺は空になっていた。
「少し休むこと、寝ることと比べて、倒れて周りに心配を掛けたり、長時間使い物にならなかったりすること。どちらが迷惑か、考えたことはありますか」
「……ううん」
 少し考えて、私は否定した。そんなことを考える暇もなかった。いや、考えることから逃げていたのかもしれない。私は、自分がやっていることを正当化したかった。これが、自分の為だと。そして、アポロの為になるのだと。
「終わった後にゆっくりすればいいって、ずっと思っていたから」
「このいたちごっこの状況で、よくもそんなことが考えられますね」
「そうでも思わないと、やってられない」
 たしかに、終わらせても終わらせても、次々とやることは増えていった。次こそは、と思いながら私は全力で取り組み続けた。やっと休める、という安堵と、次が来てしまった、という絶望と向き合いながら。それでも、私は止まりたくはなかった。アポロの持つ理想を実現して、一緒に見たかったのだ。
「それに、アポロだって、ろくに休んでないじゃない」
 組織を纏める立場であるはずのアポロだって、あまり休んでいないはず。夜中に報告書を持って行った時も、涼しげな顔で書類にペンを走らせていたことを覚えている。
「お前と違って、最低限の休息は取っています。今と逆の立場になったことはないはずです」
「よく、休もうって思えるね」
「倒れたら迷惑だと分かっていますからね。……大体、お前は事の重大さが分かっているのですか?」
 どうやら、今日のアポロは相当怒っているようだ。いつもは曖昧に終わる説教が、一向に終わる気配がない。
「お前が倒れたと聞く度、私がどんな感情を抱き、どんな気持ちで付き添っているか考えたことがあるのですか?」
「……多分、呆れてる。それから、怒ってる」
 それは、目を覚ました時にアポロがいつも見せる表情だ。安堵のような表情は大抵、説教の後にしか見せてくれない。きっと心配はしてくれている。が、それ以上にきっと、怒っている。
「そうですね、正解です。お前が倒れなければ、こうして見ることなく、すべきことに向き合えるのに、とも思っています」
「じゃあ、来なければいいでしょう!」
 静かなその言葉は、私の激情を呼び起こした。そんなに面倒なら来なければいい。私のことなんか放っておけばいい。優先すべき事柄を放り投げてまで、私に構う必要などないのに。
 私が倒れたことで、彼がこうして駆けつけてくれるのは感謝している。同僚も忙しいのだ、ずっと見ていてくれるような人はいない。そういう意味でも、アポロはすごく特別な存在だと言える。
 ……けれど、そこまで言わなくてもいいじゃない。
「アポロにはアポロのやるべきことがある。それを放棄してまで、私の所に来なくてもいい」
「何度も過労で倒れる恋人を放っておけるわけないでしょう!」
 彼に追い討ちを掛けるつもりで放った言葉は、激情の言葉となって返ってきた。誰にも明かしていない秘密を持ち出してまで、だ。
 言ってはいけないことを大声で言ってしまったことを悔いているのか、彼は顔を私から背けた。
 私は、やっと気付いた。彼が何度も怒り、飽きれていた理由を。毎度、目が覚めたら必ず横に居て、手を握ってくれている時もあることを。
「すみません、つい、大声で」
「ううん、私も、少し、言いすぎたかも」
 アポロを怒らせたのは、間違いなく私の発言だ。だから、悪いのは、アポロじゃない。むしろ、私の方なのだ。
 何を喋っても、アポロを心配させるだけなのだ。今、いや、これからの私に求められることは、そういうことではない。
 彼の声を荒げさせてから気付くなんて、私は最低の恋人だ。
「心配になるんです。ナマエがこうして頑張ってくれていることは嬉しい。でも、何度も倒れて、もう一緒に活動できなくなったらどうするんですか。まして、もう、一緒に生きられなくなったら……」
 その言葉の先を聞くことはできなかったが、予想は容易だった。もしも、逆の立場だったなら。私はそれを、最も恐れるだろう。彼がいなくなってしまった世界では、私はきっとこんなにがむしゃらに頑張れないし、誰かのために、だなんて思いもしない。
「うん、そうだね……」
 私は今まで、アポロの為に、と思ってがむしゃらにやってきた。だが、実際はどうだ。アポロをこんなに怒らせて、悲しませて、私がいなくなってじまうかもしれないことまで考えるほど、彼を追い詰めていたのだ。彼を大事に思う私自身が、彼を追い詰めていただなんて、それはなんて酷い話だろう。
 過労で倒れた数など、もう数えてはいない。そんなものに意味はないと思っていたからだ。しかし、アポロに心配や迷惑を掛けた数、と思ってカウントしていれば、少しは意識したかもしれない。
 私は、周りが全く見えていなかった。迷惑を掛けたのは、アポロだけではないだろう。私を医務室まで運ぶ同僚だって、迷惑だったはずだ。周りどころか自分さえ見えていなかった。
 私のせいで滞ったことがあるのではないだろうか、とようやく思い至った。
「もう少し上手に休んでください」
「……うん」
 柔らかな表情で、アポロは微笑んだ。あぁ、私の見たかった、彼の表情。人の上に立つ冷徹な彼の、心の奥底の部分。それを見れて、安心する。まだ、嫌われてはいない。まだ、私にチャンスはある。
 今度こそ、気付いた。今度こそ、口先だけの、上辺だけの反省ではなく、やっと心の底から反省できたのだ。まだ、逆転のチャンスはある。
「倒れて医務室に運ばれるのは、休むとは言いませんからね」
「分かったよ」
 念を押すように言われ、素直に頷くと、アポロが驚いた顔をした。そういえば、今までは反発するような答えしか返してなかったか。だとすれば、驚くのも無理はない。
「倒れて医務室に運ばれるのは、休むとは言いませんからね」
「……アポロも休むって言うなら、いいよ」
「なっ」
 先ほどよりも驚いた顔をして、アポロはこちらを見てきた。なんだ、その悪い物でも食べたんじゃないか、という目は。私の正直な気持ちなのに。
「……恋人ってのは、約束に縛られるものだ、と聞いたんだけど」
「そんなろくでもない話をしたのは誰ですか……」
 米神を押さえて彼は呟いた。なんだか、私が変な話をしたみたいじゃないか。
 それに、私たちは、恋人らしいことを一切していない。こうして私が倒れた時にだけ、ずっと付いていてくれるくらいだ。キスどころか、手を繋いだこともない。お揃いの物を持っているわけでもない。だから、約束で私たちを繋ぎたかったのだ。そう、願うのはいけないことだろうか。
「でも、いいでしょう。たまには、こういうのも」
「じゃあ」
「えぇ、約束ですよ」
 差し出された手を、私は握る。こうした触れあいは初めてだ。
 初めて握ったアポロの手は、とても温かくて、あの冷徹な男と同じ人間とは思えなかった。アポロにはちゃんと優しい心があって、人の温もりがあるのだと、感じられた。
 そんな優しい人間が掲げる理想の実現のために、私は、新たなスタートを切る。
 今度は倒れないように、無理をしない程度の休息を取ろうと誓う。
 恋人と交わす約束は、こんなにも尊くて、恋人と交わす体温は、こんなにも愛おしいのかと、私は初めて知った。
「約束するよ」
 この温もりを忘れないために、私は約束を守り続けよう。そして、休む時は彼の所に行って、少しでも長く、同じ時を共有しよう。形ばかりの関係は、終わりにして、実りある関係にしていこう。
 ……アポロも、同じことを考えてくれているといいな。
 これからは、少しずつ恋人らしいことをしていければいいなぁ、と考えると、毎日が楽しくなりそうで、まだまだ頑張れそうな気になった。

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