血の匂いがして振り返れば、頭の中に浮かんだ人物が戸のところに血まみれの姿で佇んでいた。恐らく今回も彼自身の血ではないのだろうから、淡々といらっしゃいという言葉を発す。おう、と返した蛮骨はずんずんとこちらへ歩いてきて、どかりと私の隣に座った。首の後ろに手を回されて、私なんかでは決して抗えない強い力で引き寄せられる。そのまま私の意思なんかまるっきり無視した口づけが交わされて、血の匂いが一層濃くなって私の鼻孔をくすぐった。 蛮骨が飽きるまで唇をついばまれたり、貪られたり。やっとのことで距離が出来たと思って彼の顔を見れば、満足そうな笑みを浮かべていた。 「また人殺してきたんでしょ。ここに来る前にちゃんと体くらい洗ってきてって前に言ったわよね? 私血の匂い大嫌いなんだけど」 「だってよー、早く会いたかったからよ。ひと月ぶりだろ、会うの」 「そうかもね」 そう言いながら彼に向かって手を差し出す。何を勘違いしたかその手を握ってきた彼の手を振り払った。 「着物。また新しいのあつらえなきゃならないんでしょう。出すもの早く出しなさい」 「じゃあ体で払わせてもらうわ」 「要らない、欲しくない」 「ケッ、相変わらずつれねぇのな」 言いながら蛮骨は渋々懐から銭を取り出した。それを受け取り、彼の着物に使う生地の残りがどれ程あったかを確認するために腰を上げる。蛮骨はぼやきながら勝手にその辺りにあった干し芋を齧り始めた。布がたくさん詰まった箱を開けて、彼の着物の生地を探し当てようとすれば、一番上に大事に大事に仕舞ってあった紫陽花柄の女物の着物が目に飛び込んでくる。一番目の付くところに置いておきたい、とその場所に仕舞っていたのだからそれは当たり前のことなんだけれど。 紫陽花柄のそれは、頼まれてもいないのに私が勝手に仕立てたもので、これからの夏の季節にぴったりな涼しげな色柄のものだ。反物屋でこの布を見た瞬間、あの人によく似合いそうだと衝動買いしてしまった。少し青白いあの人の肌に、きっと似合うはずなのだ。 「ねえ蛮骨」 「なんだよ」 「蛇骨さんの着物は傷んだりしていないの」 蛮骨の方は見ずに言ったものの、蛇骨さんの名前を出した途端に背中ごしで彼の機嫌が悪くなったことが感じ取れた。そして大きな溜め息が一つ。 「おめぇも諦め悪いっつーか、馬鹿っつーか……」 「蛮骨に言われたくない」 と反論したものの、内心彼の言う通りだと自分で自分に呆れてしまう。ほとんど無に近い可能性に期待を掛けて、こんな差し出がましい自己満足なものを用意したりして。もしかしたらあの人はこの着物をとても気に入ってくれて、私のことを気に掛けてくれるようになって、そしていつかは好きになったりしてくれるかもしれない。そんな愚かな想像を巡らせながら縫った着物を、ぎゅっと握りしめる。 蛮骨は食べていた干し芋を囲炉裏に放り投げ、ずんずんとこちらへ歩いてきた。私の隣にしゃがんだかと思えば、私が手にしていた紫陽花柄の着物を無理やり取り上げそれを凝視して、また大きな溜め息を吐く。 「独り善がりっつーんだっけこういうの」 「うるさい」 「蛇骨は絶対にお前のこと好きになったりしねぇよ」 心底呆れた様子で言い捨てられた言葉に、かっと頭に血が上る。 私の気持ちを勝手に否定しないでよ、蛇骨さんでもないくせに、あんたなんかただの第三者のくせに。 あんたなんか、自分の欲を満たすために私を利用してるだけの卑怯な奴のくせに。恋心なんてきれいなものさえ持っていないくせに。そんなあんたが私のこの気持ちを否定する権利なんてないはずよ。 「……知ってるわ」 そう、本当は分かっているのよ。蛮骨の言葉に腹を立てているのは、その言葉が図星だからってことも。蛇骨さんが私を決して好きになってはくれないことも。私は蛇骨さんの嫌う「女」に属する人間だってことも。 それでも、いつだったか蛇骨さんからの頼みで着物を一着あつらえた時、私が彼に一目惚れしてしまった事実を。気に入ってもらえるかドキドキしながら差し出した菖蒲の柄の着物を見て「気に入った! また頼むわ、とびきり綺麗なの見繕っといてくれよ」と嬉しそうな笑顔で言ってくれたことを。その言葉の通り、蛇骨さんが大切にその着物を着てくれたことを。それらを忘れ去って、ただのお客さんとして蛇骨さんに接することなんて出来ないのだ。 蛇骨さんがここに来るのは、半年に一度ほど。新しい着物が欲しいときだけだ。したがって私は年に三着も着物を仕立てていれば事足りるのだけれど、反物屋に行って彼のことを考えながら布を探す楽しさや、彼を想いながら針を進める喜びは三着なんてものじゃとても足りなくて、私の家の押し入れの中には彼のために仕立てたけれど渡すことが出来ていないままの自己満足の着物の塊がどかりと居座っている。 行き場のない着物たちと自分の気持ちを思うと自然と頬に涙が伝ってきて、蛮骨の手から紫陽花柄の着物をひったくって、それに顔を埋めて流れてくる涙を吸わせた。 この着物だって、私の特別な想いが籠ったものだと知ったらきっと受け取ってはもらえない。私の気持ちに蛇骨さんが気付いてしまえば、もう二度とここに来てくれることもないだろう。 だからいつも私は溢れんばかりの自分の気持ちを蛇骨さんの前ではいつもひた隠しにして、そして影で喜んだり泣いたりするのだ。今の様に。そしてその場面にはなぜかいつも蛮骨が居たりするのだ。今の様に。 会いたい人には滅多に会えないのに、なんでこんな男とはしょっちゅう顔を合わせているのだろう。 「蛮骨、恋ってなんでこんなに苦しいの」 「質問する相手間違ってんぞ」 「分かってる。でも他に誰もいないんだもの」 でもやっぱり、蛮骨にこんな質問をしたってまともな答えが返ってくるはずもないし、時間の無駄だ。口を閉じて改めて考えて、思春期の少女みたいな恥ずかしい質問を蛮骨にしてしまったことを後悔した。その場で大口開けて笑われなかっただけましというものだ。 箱の中から蛮骨の着物に使う布を取り出し、これなら一着作るのに十分足りるだろうと安堵する。採寸をするために蛮骨を立ち上がらせ、今着ている鎧の類を脱ぐよう指示をした。蛮骨の方も大人しく私の指示に従い、ぱちんぱちんと鎧の金具を外し、脛当ての紐を解いていく。 「背とか伸びたりした?」 「嫌味か」 「違うわ。ただ単に事務的な必要事項を聞いただけ」 本当に忌まわしそうな舌打ちをした蛮骨が、「伸びてねえよ」とぶっきらぼうに言い放ったのは何だか少し微笑ましくて、十代なんだからまだまだこれから伸びるわよ、と励ましておいた。それでも不服そうな表情はそのままだったけれど。 いつも重い鎧をまとったり重い蛮竜を振り回しているから身長が伸びにくいんじゃない?などと取り留めもない話をしながら、蛮骨の体に直接布を当てて寸法を測っていく。生返事ばかり返してくる蛮骨に、まださっきの身長の質問に対しむくれているのだろうかなどと考えていた時、突然低い声が鼓膜を震わせた。 「苦しいのは手の届かねぇことを高望みしてっからだろ」 そう言った蛮骨は、言葉を発する隙さえ与えずに私の髪留めをするりと外して、髪に指を通す。これがいつもの体を重ねる前の合図で、それから行われる身勝手な彼の行為とはあまり結びつかないこの優しい手付きを私はいつも不思議に思っている。 それと同時に、先ほどの私の稚拙な質問に蛮骨が真面目な答えを返してきたことに私は驚きを隠せないでいた。目の前の蛮骨を見つめてみれば、いつもみたいに愉快そうな表情とは違う、神妙な面持ちだった。 「すぐ手の届くとこにあるものを欲しがればいいのによ」 「……蛮骨は単純で、幸せそうでいいわね。自分の欲望に従順で、すぐ手の届くとこに私っていう都合のいい捌け口がいて、よかったわね」 彼が一瞬苦い顔をしたことに動揺したのも束の間、思考を遮られるかのように深く深く口づけられる。息が詰まって苦しさを感じている間に、膝をかくんと折られる。やっと唇が離れたと思えば、肩を押されて冷たく固い床が背中にぶつかる。着物の帯が解かれ、身長はないくせに無駄にがっしりとした体が私に覆い被さり影を作る。 もはや慣れてしまった一連のこの流れが、なぜだか今日は鼓動を速くさせた。再び目の前の蛮骨を見つめれば、もうそこにはいつもみたいに男の顔をした蛮骨しか見当たらなくて、欲を満たすためだけに彼は私を抱くのだと実感してしまうからいつもは嫌で堪らないその表情を見て、今日は無性に安心してしまった。 鏡の中では似合いの君達 ***** 私の拙い文章ではちゃんと読み手の方に伝わったかが不安なのでここに書いておきますが、蛮骨は彼女のことが好きです。でも彼女は蛇骨しか目に入っていないから、蛮骨との行為の中に彼の好きだという気持ちを感じることはないのです。すれ違って、傷付けて、二人とも報われない。 手の届かないものに手を伸ばしているのは、蛮骨も同じ。 どこかで何かが違っていれば、結ばれて幸せな今を過ごせていたかもしれないのに。 蛮骨がもう少し彼女の気持ちに寄り添ってあげられていたなら、彼女がもう少しちゃんと蛮骨の気持ちに気付いてあげられていたなら、幸せになれたかもしれないのにね…というお話。 蛇足でした。 タイトル、あもれ 131006 |