店の引き戸を引いた瞬間、ひゅうるりと冷たい風が吹き込んでくる。まだ飲み会のテンションのままの人間たちが夜の街に解き放たれて、一気に人っ気のない道が賑やかになった。 「じゃあねー」とか「おやすみ」とかそんな言葉が飛び交って、自然と帰り道が同じ人同士が一緒に帰路に着き始める。私と帰り道を一緒にしているのは平子隊長。同じ五番隊なのだから隊舎だって同じで、まあこれは、自然な流れ。いつもの流れ。 「お前酔っとるかー?」 「酔ってないでーす」 これも本当。あまりお酒を飲まない私がいつもより多くお酒を飲んだことにも間違いはないけれど。隣の平子隊長も気分良さそうに鼻唄を歌っているが酔っているわけではなさそうだ。 私も平子隊長もしっかりした足取りで隊舎までの道を歩いている。 「俺、お前が酔っとるとこ見たことないわァ」 「だって酔ったことないですもん」 「なんで」 「うーん、どこか気が張ってるからかもしれませんねー」 「飲み会くらい気ィ抜かな死んでまうでお前」 「そういうわけにもいかないんですよぉ」 「隙のない女は可愛くないんやで」 すいませぇん、って私なりにかなり砕けた返事をしたって、これが隊長の言う隙にはならないことを私は自覚している。 飲み会で平子隊長と一緒になることはそう少なくないし、他に五番隊の隊士がいない時にこうやって二人で帰ることだってもう何回も経験した。いつも通りに二人並んで歩いている。30センチほど空いた二人の間は広がらないし、縮まらない。 今私は恋愛上手な私の友達を思い浮かべてる。男の人の言葉や気遣いに素直な笑顔を見せて、甘えるところをしっかり弁えていて。そしてどこか守ってあげたくなるような危なっかしさ、平子隊長の言う「隙」を持っている。 そういうものが私自身に欠如していることは十分承知だが、いきなりそれらを自分の中に取り込むことなんてできるはずもない。気恥ずかしさが邪魔をして、結局この距離を自分から縮めることすらできないままなのだ。 好きだという気持ちだけは一丁前に数年間も自分の中でくすぶらせているというのに。 「あーあ」 「なんや溜め息なんか吐いて」 「いやぁ、何か無性に寂しいっていうか虚しいっていうか」 「なーんやそれ。彼氏に構ってもらえ彼氏に」 「いないですそんなの」 あ、そう。 帰ってきた返事はぞんざいなもの。もうちょっと食いついてくれたっていいじゃない、興味持ってくれたっていいじゃない。 彼氏がいないという心ばかりのアピールはきっと平子隊長には届いていないし、届いて欲しいのなら私はもっともっと分かりやすく素直になるべきなのだ。頭で理解はしているのに感情がそうさせることをどうしても阻む。 草履と地面の擦れ合う音が規則的に刻まれる。行き場のない手を後ろで組んで、ゆっくりと一呼吸。こうやって二人きりでいられる時間はやっぱり特別で、何もないのに楽しくて嬉しくて、自然と気持ちは弾んでしまう。 「よっしゃ、手ェ繋いで帰るで」 だから、平子隊長のいつものおちゃらけた口調で唐突に何気なく放たれたその一言を頭で理解するのには少しの時間を要した。やっと言葉を受け止めたところで私はただ困惑してしまうばかりで、こちらに差し出された手をただ見つめることしか出来ない。 「ホラ、手!」 そんな私を見兼ねてかもう少し強引な言葉が続けられる。その言葉に背中を押されるような追い立てられるようなそんな感じで、半強制的に差し出された手に自分のその手を重ねた。私のものではない温度が手の平から腕を伝って心臓まで届く。 こんなの、いつもの流れには含まれていない。 「きゅ、急にどうしたんですか」 「寂しいとか虚しいとか手繋いでほしいとか言うたんは自分やんけ」 「手繋いでほしいは言ってません……!」 別に手を繋ぐのが嫌だという訳ではないし、ていうかむしろこれ私にとっては幸運な幸福でしかなくて。でもそれを甘受してしまえるほど自分に自信がないが故に、あぁこれはからかわれているのかななんて逃げ道が即座に頭の中に出来た。 誰にだってこんなことしてそうだし、平子隊長。 「女慣れしてますねえ、やな感じー」 「オイ、隊長に向かって何を減らず口叩いとんや」 「それにこんなの彼女さんに悪いですよ」 「おらんっちゅーてんねんそんなん」 ……そうなんだ。 嬉しい誤算に思わず頬が緩みそうになる。慌てて唇を噛んで堪えるけれど、弾み出した気持ちは段々とその高さを増していくばかりだ。 逃げ道の他にまた一本期待で踏み固められた道が出来た。 草履と地面の擦れ合う音は相変わらず規則的で、二人ともしっかりとした足取りで隊舎までの道を歩いていることは確かなのに。心の中で私は、逃げ道に逃げ込むべきか、それともさっきできた期待の道に飛び込んでみるべきか、右往左往しながら平静を保っていた。でも、いくら平気なふりをしていたって、手の平から伝ってくる温度が速らす心臓は不規則で、そして、ただ一本握りそこねられた左手の親指だけが、平子隊長の体温を分け与えてもらえなくて凍えている。 「……親指寒い」 「ハイハイ」 独り言のようなそれに応えてぎゅうっと包み込まれるように手を握り直されれば、凍えていた親指がじぃんとした。 今、一歩踏み出し時? 恋愛上手な友達を見習って素直になってみるべき? 「……平子隊長ォ」 「なんやー」 「隊長って……」 好きな人とかいるんですか。 って聞きたいけど、怖い。この静かなハイテンションに任せて聞いてしまえなんて思ったけれど、口にしようとするとその先の答えが頭の中で想像再生されて口を閉じてしまう。意気地なしだ、ずるい奴だ。 「おい何言いかけてん」 「何でもないですすいません。忘れてください」 ……そして、ずるいと言えば平子隊長だってそうだ。こんな、付き合ってもない女の手なんか握ったりして。 そう思ってしまう私は「お堅い」のだろうか。平子隊長にとってはこんな手を?ぐなんて行為は何でもないことなんだろうか。男っ気のない私をからかって面白がっているだけなのだろうか。 期待と不安が交錯する。 いつだってふらふらと本心が見えない隊長だからこそ、こんな風に余計に悩んでしまったりするのだ。 私ばかり翻弄されるのは不公平でしょう? 「あーあ、六車隊長みたいな人がいたらなぁ」 試すように仕掛けるように、そしてちょっと誘うようにそんな言葉を呟く。少しでも隊長の本心に近付きたいから。このまま期待して勘違いして一人で盛り上がってしまうなんてのは惨めすぎるもの。 でも、さっきの言葉には少しの本音だって含まれていて、実際六車隊長のような方ならこんな風に軽々しく女の人の手なんて握ってきたりしないだろうし、女の人とは硬派なお付き合いをしているんだろう。 「なんで急に拳西の名前が出てくんねん。お前拳西のことが好きなんか。さっき言いかけたんはそれか」 「違いますよ! 違いますけど、六車隊長みたいな男の人には憧れます。硬派な男の人、真面目に付き合ってくれそうだし」 「……ほぉー、お前拳西みたいなんが好きなんか」 きっと六車隊長のような人に恋をしたならば、こんな状況になることも、「からかわれているのか」なんて悩むこともなかっただろう。 そんな風に仮定ばっかり並べて、いじいじとまだ逃げ道を作り続けて保身に走る私の可愛げのなさに、自分でもうんざりする。 「俺、意外と硬派なんやけどなァ」 そう呟いた平子隊長の横顔をちらりと見上げる。その表情は飲み会の席と変わらず飄々としていて、何を考えているかなんて分かるはずもない。 月夜の下、私のすぐ隣で金色が舞っている。海の中で海月の触覚がゆらゆらと揺れるように舞うそれらを、あぁ綺麗だ、なんて思いながら眺めていたその次の瞬間だった。 繋いでいた平子隊長の手が離れた。 「……なにやってるんですか」 肩を少し強い力で引かれ、暗い影が斜め上から差し掛かる。さっきまで私の隣に並んでいたはずの体が正面に来ている。そして、先ほど見上げたはずの隊長の顔は今私の顔の正面、しかもその間わずか10センチほどのところに来ていた。 咄嗟に出た言葉はぶっきらぼうなものだったけれど、心の中では今のこのイレギュラーな状況に一人慌てふためいていた。恋愛を得意とはしていないけれど、この距離が何を意味するかが分からないほど私は初心ではなかった。 「それ、わざわざ聞くか?」 目の前で、それはもうまさに言葉の通りの距離で、隊長が薄く笑った。 ああもう駄目だ、と自覚した。心臓がドキドキとうるさくて、期待ばっかり膨らんできてしまっている。だってこんなの仕方ない。隊長がこんなことするから。だから私はこんなに戸惑いつつも、心臓を高鳴らせているんだ。 「あ、の……からかってるんなら止めてください。私こういうのほんと慣れてないので、辛いです」 「からかっとるつもりはないんやけどなァ」 「隊長の言葉は……どこまで信じていいのか、分かりません」 「なんや俺随分信用ないねんなあ」 ふらふらと、掴めない。隊長の真意も、私自身の気持ちも。きっと一歩踏み出さなければ掴めないままなのだろう。 もうこの際、恥はかき捨てだ。 いつの間にか自分の中で腹が括れていた。逃げ道はもう、細く細くなって人一人通れやしない。 「……平子隊長。私、隊長のことが好きです。面倒くさいこと言ってるのは分かってます。だけど、私本気なので、その、からかってこういうことしてるだけなら、本当に止してください。お願いします」 人生の中で告白をすることはこれが初めてではないけれど、それでも、何度回数を重ねても、この脈の速さは毎回変わらないのだろうと思う。恥ずかしさや不安や期待やそういうものでいっぱいいっぱいになって、頭がガンガンした。 行き場に困った視線を足元に落とす。指先は手を握られていた時よりも熱い。そして突然ふっと隊長の影が、気配が私から離れた。 やっぱりからかわれていただけなのか。そう思ったら、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうになった。 「ずるいわソレ。面倒くさい訳ないやろ」 「隊ちょ、」 「からかってへん。言うたやろ、俺意外に硬派なんやで」 一度離れたそれがまた再び距離を縮めて、唇が重なった。金色の長い髪が中途半端に宙に浮いた私の手に触れて、その柔らかさが伝わってくる。隊長の睫毛が一度大きく震える。何もかもが今までにない近さで、様々な感覚がじんわりと私に刺さるのを感じた。 時間にして一瞬だったさっきの会話と今のこの状況をちゃんと理解したいのに、それさえ出来ない。 そしてまた、影と気配がゆっくりと遠ざかっていく。色々と聞きたいことも、言いたいこともあるのに、言葉がまとまらなくてじっと黙ってしまう。 「好きでもない女と手なんか繋がんし、好きちゃうのに拳西に嫉妬まがいのことも、ましてや口付けなんかせえへんっちゅーに」 先に口を開いたのは隊長だった。鼓膜を震わせた言葉が脳に伝わり、その意味を必死に噛み砕く。 微妙な表情を浮かべていたからか、隊長は少し眉をひそめて苦い顔をした。何とか言ぃや、と続けられた言葉に多少の照れが含まれていることに気付いて、じわじわと実感が広がっていく。とびきりの嬉しさと共に。 「私、勘違いとか思い違いとかしちゃってそうで……ちゃんと言葉で聞きたいとか、駄目ですか」 「アホ、お前が思っとる通りで間違いないわ。恥ずかしーこと何回も言わせんな」 「何回も、って……一度も言われてない気がするんですけど」 「あーもーうるさいうるさい」 そう言いつつくるりと背を向けて、隊長がやや足早に歩き出した。急いでその背中を追いながら、ああこんな時まで私は全然可愛くない、と自己嫌悪。嬉しいのに、幸せなのに、それを素直に表に出すことが出来ない。 「あの、隊長」 「なんや」 「私こんな感じで、可愛げも隙もないですけど、いいんですか」 「……アホ」 恐る恐る伺った隊長の顔は優しく綻んでいて、ほっと安心したのが自分でもよく分かった。私なりに甘えるつもりで隊長の手をきゅっと掴んだら、しっかりとその大きな手で繋ぎ直してくれた。「これから俺がなんぼでも可愛くしたるがな」とニヤリ口角を上げながら。 隊舎まであと五分ほど。今日もあと数時間後には仕事だ。そんなことを考えて、夜が、この道がもう暫く続けばいいと、まだまだ朝が来なければいいと思った。 nuit nuit ***** 明けてほしくない夜のお話。 大切な思い出ができた夜のお話。 じわり。 130612 |