「閃ちゃん」

襖の前で彼の名を呼んでみたけれど、返事がない。まだ任務から帰っていないのかと思い襖を開けてみると、畳の真ん中に膨れ上がった布団がひとつ。なんだ寝てるのか、と忍び足で布団へと歩みを進める。
近づいて寝顔を覗きこめば、余程疲れているのかだらしなく口が開いた顔があった。こんな、年相応にあどけない姿が見れるのは珍しい。
大人に囲まれて仕事をすることが多々あるからだろうけど、彼はいつもどこか背伸びをしているような感じがしてならない。仕事以外の時くらいもっと子どもっぽくしてればいいのに、なんてことは言ったら怒られるのが目に見
えているから言わないけど。

「閃ちゃーん、晩ご飯食べないのー?」

ゆさゆさと揺すりながら声を掛けてみるが、呻き声を出すだけで目を覚ます気配がない。もうこれは朝まで起きないパターンかな、と考えながら顔にかかった髪の毛をどけてやる。
こうしていると、彼が年下なんだということがいつもよりも実感として感じられる。彼にとってはお姉さんみたいな歳。そのことがときどき私を悩ませる。不安にさせる。やっぱり世間一般的に見て、年上の彼女って少数派だし、ね。
そんなことを考えて温もりが恋しくなって、思わず彼の寝ている布団に潜り込んだ。一人用の布団に二人の人間が入っているのだから当然のごとく狭く、布団からはみ出た左足が寒くて、思い切って彼の方に身を寄せた。

「せーんちゃーん」

「……」

「閃ちゃーん、構ってよ、寂しいよ」

私が恥を忍んでこんなに甘えているというのに、ひどいなあ。
目の前に無防備に晒された白いおでこは、デコピンにちょうどいい。ちらちらと顔を覗かせる悪戯心に勝てなくて、手を伸ばす。彼がなかなか起きないのが悪いんだとわざとらしい言い訳を考えながら。ぴん、と指先で弾いたおでこがみるみる赤くなっていく。だけど彼はまだ目を覚まさなくて。
ここまでしているのに起きないなんて余程疲れているのかなぁ。
このまま寝かせといてあげるのがいいんだろうけど。わがまま言いたい気分が抜けない。年上の余裕なんて、私はこれっぽっちだって持ち合わせていないんだと分かって、鼻で笑ってしまった。
しん、と静まり返っている部屋にあるのは一組の布団と彼の寝息と私の吐息だけ。こんなに甘い状況なのに、一人は寂しいよ、閃ちゃん。
もうすぐでキスになってしまうような近距離まで彼の耳元に唇を寄せて「閃」と一言彼の名を囁いた。普通の人間よりずっとずっと感覚の鋭い彼が、私の声に気付いてくれることをぎゅっと祈りながら。

「うっ……わ!」

「起きた?」

「な、にやってんの」

祈りは、通じた。やっと目を開けた閃はその猫みたいな目をぱちくりさせながら、慌てて起き上がる。その様子を見て、なぜだか私はとてもほっとした。閃が動いている、生きている、ここにいる、私の声に気付いてくれている、私の目を見てくれている。
それだけの事実が、さっきまで広がっていた不安と寂寞のもやもやをあっという間に溶かし去ってしまう。溶かし去ったその跡に残る彼の温度だけじゃ足りなくて、もっともっとと強請ってしまいたくなる。さすがにそれを素直に表に出せるほど子どもにはなれないけど。

「起こしに来たけど起きないから。布団に潜り込んじゃった」

「あ、そう……うん」

「閃ちゃん、晩ご飯どうする?」

「……あー、腹減ってないし、いいや」

そう言ってまた布団にばたりと倒れこむ。気まずいのか、照れくさいのか、腕を顔に当てて長く息を吐いている。彼の細い身体の薄い胸がゆっくりと上下に動くのを私はぼうっと見ていた。

「私が耳元で囁いたのそんなに恥ずかしかったの?」

「いや、違くて」

いや恥ずかしいのは恥ずかしいんだけど、などともごもご言っている姿を尻目に、じいっと彼を見つめ続けていると、ふと目が合った。いつも見つめ合う度、私は彼の特徴的で魅力的な目にぐっと引き込まれて閉じ込められてしまいそうになる。捕まってしまったら、もう視線は逸らせない。
きっと、相手が彼だからだ。私がこんなに余裕がなくて、自分のことだけでいっぱいいっぱいで、まるで年上の威厳を保てないのは。他の同年代の子たちよりも随分と大人びているその目には、様々な葛藤や苦悩を乗り越えてきた過去が詰まっているような気がした。そして、私は知らず知らずの内にそんな彼に尊敬の念を抱いていたのかもしれないと思った。

「さっきさ」

「うん?」

そう自覚したら、何故だかすごく穏やかで甘い声が出た。
無理に大人ぶろうとしなくたって、余裕なんてなくったって、それでいい。閃は確かに私よりも年下だけれど、きっとどこかでは私より大人で、でもどこかでは私より子どもだ。年齢なんて関係なしに、私は閃のことを尊敬しているし、彼のことが大好きだ。それでいい。

「耳元で、閃って呼んだだろ」

「びっくり。そこまで聞こえてたんだ」

「なめんな……。初めて、だよな」

「えっと、なにが?」

「なまえに閃って呼び捨てにされたの」

「閃は最初からずっと私のこと呼び捨てだったけどね。生意気に」

うるせ、と呟いて、それから彼は「嬉しかったんだよ」とぶっきらぼうに言い放った。
私はどれだけツンデレなの、と内心笑みをこらえながらまたもう一度「閃」と彼の名を呼んだ。こしょばそうに視線をまた彷徨わせて、苦虫を噛み潰したような何とも言えない表情をする。それが照れているだけだと分かる私は、その部分では確実に大人だ。

「ねえ、これからは閃って呼ぶね」

「勝手にすれば」

「うん。閃、気付いてくれてありがとうね」

私さっきまでとは違ってとても満たされているよ。ひとつの体に二人分の温もりを詰めて、心臓は穏やかに拍動を繰り返す。閃は眉を少しひそめてから、ぎゅうと私をその手で引き寄せてくれた。

「……ほんとはさ、なまえがこっちに向かって廊下歩いてる時から気付いてたよ」

「うそ」

「ほんと」

「……このタヌキめ」

「見抜けなかったなまえが悪い」

そう言って閃は私を余裕綽々で出し抜き、少年のように笑った。



二十歳からの魔法学



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去年の秋ごろに結界師を一気読みしまして、その熱をもって書き始めた影宮閃くんのお話でした。結局完成したのが七ヶ月後の六月となってしまいましたが。長い期間ちょこちょこ加筆修正を繰り返していたのでなんとなく納得のいくお話になりました。
夜行大好きです。何やかんや言いながらみんなでわちゃわちゃしていて、そして家族って感じの雰囲気がもうほんと!
刃鳥さんとお茶したいです。

タイトル、√A

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