浅く息を吸い込む、廊下に漂う甘ったるい匂いが鼻孔をくすぐる。一呼吸おいてから控え目にノックをすると、気だるそうな「どうぞー」という声が聞こえてきた。
失礼します、と社会科準備室のドアを開けると何やら難しそうな顔をしている平子先生がいた。テスト問題でも作っているんだろうか。何や、と呟きながらも視線は机の上に向けられたままだ。
教室に置かれたひと昔前の型のストーブだけが煩く音を立てている。沈黙を埋めてくれるから有難いけど。窓ガラスは結露し白く曇っていて、この教室だけ外側の世界から隔離されたみたいだ。

「おい、何か用かって」

「ああ別に大したことじゃないんですけど」

「チョコやったら大歓迎やで」

何て切り出せばいいのか悩んでいた私の心の中を覗いてたかのように平子先生が言う。にやり、といつものように口元を歪ませながら。
後ろに回した手に握られている紙袋。中身は生チョコ。早くしないと溶けちゃうよ、なんて囁き声の空耳。

「そこまで言うならあげます、チョコ」

「何チョコ?」

「生チョコです」

「いや、そうやのうて。本命? 義理?」

「……お礼チョコです」

いつも勉強教えてもらってるから。その答えにがっかりしたのか、つまらなそうにお礼を言ってきた先生。
何かが擦れる音がして視線をそちらに向けてみれば、私のチョコが先生の長くて綺麗な指に捕まっていた。そこから口の中に放り込まれるまでの動作でさえスローモーション。
ああほんと、外側の世界とは空気の流れ方が違う。早く出ていきたい。新鮮な空気を、ちょうだい。

「ん?」

その声に肩が上がる。口をもぐもぐさせながら顔を曇らせた先生を私の目が見逃す訳もなかった。途端、私の脳味噌は直ぐ様心臓を速めるよう命令を下す。体の中がすごく熱い。

「あの、先生」

「……お前」

「なんか変な味しましたか? お口に合わなかったとか?」

「……お前、これ本命チョコやろ」

灯油が無くなってしまったのか、間抜けな音を立てて切れたストーブのせいで教室がしん、と静かになった。
本命チョコやろ、と言われたそのチョコは確かにお礼チョコなんかのつもりじゃない。
けど、なんでそれがバレたんだろう。生チョコなんてそんなに重いものでもない、よね。ラッピングだってそんなに凝ってない。

「どうして、そう思うんですか」

「本命チョコの味がしたからや!」

得意気にそう言い放った先生に、私は一瞬唖然としたあと、ぷっと笑いを漏らした。
何それ。真剣に泣きそうだった私が馬鹿みたい。さっきまでの不安を返せと平子先生を睨んだ。

「冗談やめてください。心臓に悪いです」

茶化すように言ったのに、先生は何も言わずただにやりと笑っただけだった。うわあ、何このはっきりしない感じ。いつもならここでまた軽い冗談を返してくれるはずなのに。
それから先生はポリタンクを掴んで教室のドアへと向かう。私は不審に思いながらその背中を目で追う。

「ホワイトデー楽しみにしとき」

ドアが完全に閉まる前にそう言い残していった平子先生に、私はあと一ヶ月間も、もやもやどきどきさせられることになったのです。


鏡よ鏡よ鏡さん



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ホワイトデーに続きを書くつもり、です。

タイトル、ケセラセラ

110227
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