「コーヒーの苦味を美味しく感じるようになるなんて思いませんでした」 「あ?」 「10代のころはこんな苦いの一生好きになれっこないって思ってたのになあ……」 手の平の中に収まっている白い陶器のティーカップ、その中でさざ波を立てるコーヒーを見つめる。ミルクと砂糖を多めに入れた、少し薄いコーヒーが私の好みだ。 向かいに座る兵長のティーカップも私と同じもの。と言っても団支給の量産品のものだから、お揃いとか言う可愛らしいものでは決してない。少しのミルクが入った濃いめのコーヒーが兵長の好みだ。 「俺も昔はそう思ってた」 「兵長も、ですか? 意外」 「ほとんどの奴がそうだろ。子供のころからコーヒーの苦味が美味しく思える奴らなんて少数派だ」 「年取ったってことですねぇ」 「俺の前でそれを言うか。お前まだハタチ過ぎてそこそこの乳臭いガキじゃねえか」 「乳臭いガキは余計です」 ぴしゃりと言い捨てつつも、私の口元からは笑みが離れない。 兵長のティーカップの中身はもう空っぽで、手にしている書類はもう昨日既に確認済みのもの。なのに自室に帰ろうとしないのはなぜですか、兵長。その書類と私に入れさせたコーヒーは、私と一緒にいるための口実だって、都合のいい解釈をしてしまっても許されますか。 「ニヤニヤしてんなよ、気持ち悪い」 なんて言う私の方だって、いつもなら五分ほどで飲み終わってしまう量のコーヒーを既に十五分ほど掛けてちびちびと飲んでいるのだけれど。 「兵長、気持ち悪いなんて言われたら私傷つきます。女の子なんですから優しくしてください」 「女の子なんて言えた歳かよ」 「さっき自分で私のこと『ガキ』っておっしゃったくせに」 チッ、と言う舌打ちが聞こえてちょっと調子に乗りすぎたかなと不安がよぎり、苦しまぎれに残ったコーヒーを一気に飲み干す。そこに溜まった砂糖の甘みとコーヒーの苦味がじんわりと口の中に広がった。 そして思い出す。一度だけ、優しすぎるキスをもらった日のことを。甘い甘い一瞬間を、私は今でも大切に大切に心の内にしまっている。 でもその一瞬間の思い出を苦く感じる時があるのも事実。あんなことをされれば期待を抱いてしまう。思いが深まってしまう。なのにその後、兵長との関係には何の変化もない。 たまに今日のように二人で過ごす時間に誘われるけれど、あの時のような距離になったことは一度だってない。好きという気持ちを持て余して数ヶ月、私はもうどうすればいいのかが分からないままだ。 「……兵長、そろそろ夜も更けてきましたし部屋にお戻りになった方が」 「……そうだな」 ちょっと名残惜しそうな顔をする兵長は、無意識なんだろうけどずるい。 「カップ洗っておきますね」 「悪いな」 カップを受け取る時に触れた指先を見つめられて、体温が上がりそうになる。 「明日のご予定は?」 「午前中は訓練、午後からはエルヴィンに呼ばれてる」 「そうなんですか」 「お前は」 「明日は一日非番です」 「……そうか。ゆっくり休め」 「ありがとうございます」 どちらともなく立ち上がって扉までの短い距離を歩く。 「それでは失礼します」 「ああ」 それだけの言葉を交して私はキッチンへ、兵長は自室へ。反対方向へ歩き出す。 カップに付着し乾いてしまったコーヒーの染みを見て、思いのほか長い時間兵長と一緒にいたことを実感する。洗剤を染み込ませたスポンジを泡立てながら、きっと私と兵長はこういう関係をずっと続けていくだけの星の元に生まれたんだろうななんてことを考えて、もやもやした気持ちに折り合いをつけた。 兵長が一言もそれらしい言葉をくれないのは、それらしい関係名をくれないのは、きっとわざとだ。そして、私がそれらしい言葉を口にしないのは、それらしい関係名を欲しがっていないのは、心の奥底では怖がっているからだ。 いつ死ぬかも知れないのに、と。 あの一瞬間は気の迷いでも、その場だけのものでもなんでもなく、お互いの感情の崩壊が引き起こしたものだ。 一人勝手にそんな結論に至って、私は白いカップに付着したコーヒーの染みを綺麗さっぱり洗い流した。 ***** お互いに相手が自分を想っていると知っていて、自分が相手を想っていると自覚している兵長と部下の話。でもボーダーラインを超えることは絶対にしようとしない、胸の中だけに思いを留めて日々を過ごしています。 結ばれることはない二人だけれど、不幸な訳じゃないと思います。どうか二人が出来るだけ長く一緒に居られますように、とひそかに願いつつ。 ちなみにコーヒーの花の花言葉は「一緒に休みましょう」らしいです。 130921 |