novel*long



進行夢 第1話

─死んだ女よりもっと哀れなのは、忘れられた女です。
【マリー・ローランサン 『鎮静剤』より抜粋】


目の前には、家庭で使われるようなごく一般的な包丁を持った男が立っていた。
男は顔も隠さず、堂々とこちらを見ている。微かに口元が笑って見えるのは、自分の計画が順調であるからだろう。
「止めて……お願い、お願い致します、たすけて」
掠れる声で訴えるが、男はまるでそれが聴こえないかのように、こちらににじり寄って来る。
慌てて、座り込んだ体勢のまま後ろに下がる。するとあっという間に、背中が木の幹にぶつかった。

辺りを見回す。
地面は湿り気があり、ひんやりとした土。周りは、木しか見えなかった。
ガサッ、という音がして、我に帰って上を見上げる。
そこには、男がにやにやとしながら包丁を構えていた。
「嫌だ……イヤだ、ユヅキ……ユヅキ……!」
思わずそう叫ぶが、震えで大きな声にはならない。

そこに。

どすっ、と身体に振動が響く。
男は満面の笑みで、彼女の腹に包丁を突き立てていた。
刺された所が、熱い。
「たすけて……ユヅキ……ユヅキ……ごめんね、ユヅキ……」
頬を、涙が伝うのが分かる。もう、反撃する気力もない。
その間に、男は腹から包丁を抜いていた。そしてもう一度、降り下ろす。
また、包丁は腹に刺さった。身体が震える。
今度は男はそれを抜かず、腹に刺したまま、動かした。刃物が腹を、臓器を切り裂く。
もう痛みはない。しかし、恐怖が襲って来る。
男は何度も何度も、腹を切り裂く。
視界がフェードアウトして行くのが分かった。もう、意識を保っていられない。
もう、


「────っ、」
霧生真理(きりゅうまこと)は真っ青な顔をしながら、ソファから飛び起きた。そしてその瞬間、バランスを崩して床に転げ落ちた。
「っつ…………」
落ちた時にぶつけた頭を押さえながら、真理は顔を歪めた。
「……畜生……」
頭を押さえていた手を、髪の毛ごとくしゃりと握る。
そして真理は、荒い息を整えるように、その場に膝を抱いて蹲った。


三十分程して落ち着いた頃、真理はさっき見たあの映像を思い出してみた。
いくつも流れるように見た映像の、一番最後。
包丁を降り下ろしながら笑う男の顔が脳裏にこびり付き、離れない。
刃物等で腹の中を掻き回される感覚は、前にも体験した事がある。しかし今回のあれは、なんというか、悪意に満ちていた。
いや、悪意とは少し違うかもしれない。上手い言葉は見つからないが、とにかく何らかの感情が強く籠っていた。
人の思いというものは、時として何よりも深い恐怖を与える。
人間が殺される瞬間なんて、覚えきれない程見てきた。しかし、あれは頭から離れなかった。
─早く、見付かりますように。
真理は心の中でそう祈り、もうあの《夢》の事は忘れる事にした。


「おーい、真理ぉ。生きてるかぁー」
その日の夜。
呑気な声と共に、40代後半程の中年男が、真理が住むマンションの一室に押し入って来た。
「……義隆さん。もっとまともな台詞無いんですか」
真理の叔父である義隆(よしたか)は、からからと笑いながら靴を脱いだ。
「そんな事言ってもなぁ! お前、本当に生きてんのか死んでんのかも分かんねぇからなぁ」
「生きてますよ、なんとか」
真理は、今年22歳の青年である。
両親は、彼が生まれる前に離婚。母が女手一つで育ててくれていたが、その母も、真理が10の時に病で死んだ。
それ以来、8つ上の姉と二人暮らしで生きてきた。
母の弟である義隆は独身なので二人を引き取ろうとも考えたらしいが、母と暮らしたマンションを離れたくないとの事で姉はその申し出を断った。
断られた義隆は、そんな真理達の家に度々顔を出し、元気でやっているかを見に来てくれているのだ。

「─まあ、元気そうで何よりだよ」
義隆は微笑み、乱暴に真理の頭を撫でた。
「ボサボサになるから勘弁してください」
真理は言いながらも、義隆の手を払おうとはしない。
頭から手を離した義隆は、リビングに入ると直ぐにソファに座った。
そして、リビングの扉を閉めながら後から入ってきた真理に視線を向けた。
「そういえばお前。相変わらず寝てねぇのか」
自分の目の下を指差し、真理の目の下の隈を指摘しながら聞く。
真理は、台所に入りながら答えた。
「寝てますよ。二日に一回。昼に寝てます」
「……んなモン寝てる内に入らねぇだろ……」
義隆が呆れながら言うが、真理は気にせず、カチャカチャとコーヒーカップを出しながら言う。
「まあ確かに、二日に一回だと体力も続かないですね。かなり疲れやすい。でも俺は、寝た方がむしろ疲れるから、これくらいがちょうど良いです」
「………夢は、まだ見るのか」
義隆が、静かに呟くように言った。

真理は、視線だけをちらりと義隆にやりながら淡々と答えた。
「見られなくなる方法があるなら知りたいです。いい加減、被害者役には飽きました」
「……すまないな、余計な事を言って」
義隆は顔を上げると、苦笑いをしながら謝った。
コーヒーを注いだカップを両手に持ちながら義隆の元に来た真理は、静かに首を振った。
「別に気にしてないですよ。義隆さんが悪気があってそう言う人なら、とっくに縁切ってますから」
「あー……─そうだ、久し振りに姉さんと真紀ちゃんに挨拶してこようかな」
居心地が悪くなった義隆はそう言いながら、そそくさと襖を挟んだ隣の部屋に逃げた。

そこには仏壇があり、二つの写真が並んでいた。
「……姉さん……」
義隆は目を細めながら小さく呟くと、仏壇の前に座った。
写真の一つには、義隆の姉であり、真理の母であった霧生佳奈恵(かなえ)の笑顔が収まっていた。
優しく微笑みながらこちらを見詰めてくる佳奈恵は、とても美しかった。
真理の顔の整い具合は、母に似たのだろうと直ぐに分かる。

「真紀ちゃん……」
義隆は、姉の写真の隣に並ぶ写真に写る、もう一人の女性の名前を呟いた。
霧生真紀。
真理の、姉の名前だ。
真理の8つ上なので、生きていれば、今は30歳になるはずだった。
佳奈恵が病で死んだ時、まだ高校三年生だった真紀。
義隆の引き取りの申し出を断り、大学進学を諦めて就職をし、必死になって弟の真理を養っていた真紀。
そんな彼女がこんなにも早く佳奈恵と同じ場所へ行ってしまうなんて。
世界は不平等過ぎる、と義隆は溜め息をついた。
義隆が二人の女性の笑顔を前に肩を落としていると。

「義隆さん。コーヒー冷めますよ」
襖を薄く開け、真理が顔を出して言った。
「あ、ああ。今行く」
我に帰った義隆は立ち上がり、仏壇に一瞥をくれるとリビングに戻った。





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