その靴は綺麗に足に合うなんてことはなく、少しゆるめだった。スニーカー。折原さんが買ってきたもの。買ってきてくれたと、思ってしまったもの。ゆるいのは、波江さんのサイズなんだから当たり前だ。でも私は何故かエレベーターホールでしゃがみ込んで、必死に紐をきつく締めてそれを足に合わせようとしていた。合えばいい。私にぴったりになればいい。そうすれば幾らでも、私の為に買ってきてくれたと勘違いできるんだから。さっきみたいに勘違いして、でも今度は口に出さなければきっと夢を見ることができる。
外は寒くて、かじかんだ指先はあまり器用に動かせなかった。必死に紐をひっぱるけど、やっぱりぶかぶか。お前じゃないんだよ、とスニーカーにまで見放されたみたいで自嘲した。ばかみたいだなあ、私。


「おり、はらさん」


はたはたと目から流れるのは涙。おかしい、さっきまで我慢できていたのになんで今更。我慢する必要がなくなったからかもしれない。なら今日で最後にしよう。だから思いっきり、全部出そう。もうこんなことがないように。夢をみて傷つくなんて、どこのお姫様だ。私はそんなたいそうなものじゃない。誰にも気づかれずに年老いていく、そんなちっぽけな存在でいいんだ。


「…おりはら、さ」


ひり、とナイフをあてられた首が痛む。この痛みは私の何なんだろう。私は、折原さんの何なんだろう。折原さんにとって私は何。部下?所有物?お荷物?毎日飲んでいるあのコーヒーにも満たない存在なんだろうか。彼にとって愛しい存在である大多数の人間の、ほんのすみっこの、それだけなんだろうか。それだけの、幾らでも代わりがいる存在の、たまたま今彼の側にいるだけの。それだけの、私。
ただそれだけの私なら、もっと早く要らないと言って欲しかった。同じ部屋に要るから、彼の居場所にいるから、私はいつの間にか彼の心のすみにおいてもらっているつもりだったんだ。でもそれがおこがましい事だったなら、やっぱり私が自分でいなくなるべきだった。この曖昧な空気で呼吸をする前に。少しでも自分の確固たる意思があるうちに。





エレベーターを使って降りて、マンションから出る。オートロックの扉が閉まるのをぼんやり見た。これでもう私は帰れない。折原さんの家に、じゃない。私にはもう家も友達もないんだから、本当にどこにも帰れなくなってしまって、なんだかおかしくて笑えた。閉まるエントランスのガラスに、情けない顔をした私が映る。さようなら。
マンションに背を向けて、夜空を見上げる。真っ黒な空で、黄色い信号が赤に変わった。鮮やかな赤。他のどの電光よりも黒の中に綺麗に栄えた。突き抜けるような赤色は、暗い闇の中を走る車にトマレを叫んでいる。
不意に、さっきの折原さんを思い出した。あの瞳の奥に隠された彼を、私は欠片も知らなければ知ることもできない。ただ彼の部屋の片隅で、ひっそりと生きていくのがせいぜいで。例えば、そう、さっきのようなあの人は初めて見た。きっと遠いということ。すごくすごく離れた場所にいたということ。


「さむ…」


コートは無い。夜の空気にすらも私は異物と思われたのか、びゅうと冷たい風が吹き抜けた。ざわ、と街路樹が音をたてる。耳が冷た過ぎてじんとする。ぶかぶかの靴を鳴らして、コンクリートを歩きだす。すぐまた上を見上げると前にコンビニの看板を見つけた。その下には、深夜を煌々と照らす真っ白い電灯の光。その自動ドアが開いて、中から若いOLらしき人が現れた。ヒールを履きこなし、闇の中に躊躇なく消えていく。いつの間にかふらりと踏み出した私の足は、やはり合わない靴のせいか歩き方がずるずると無様だった。みじめで、消えたくなった。
コンビニの中は暖かくて、体中に入っていた力がすぐに抜けた。何か買おうかと思って煙草を思い出す。折原さんがくれたもの。ポケットから出して確認すると煙草の残量は四本で、財布のことを考えて買うのはやめた。もう煙草やめよう。しばらく吸わなくても平気だったし、お金かかるし。もともとさして中身の無い財布だけど、さすがにこれで全財産を潰すのだけは避けたい。
買うものはなくても、正直このコンビニから冷たい中に出る元気はなくて、無意味に棚の端から端まで眺めた。意味はない。意味なんてない。折原さんに何もかも奪われてそれでもただ大人しくしていた私には、もう何もないんだ。折原さんの側にいてもよかったなら、私はそうするべきだったのかもしれない。勢いに任せて出てきて、いいことが一つでもあっただろうか。追ってきて貰えるとでも思っていたのだろうか。私は、私はただ。


「……ばかみたいだ」


折原さんのことばかり考えて。

ふう、と深呼吸をした。

思考回路はまだ後ろ向きにぐちゃぐちゃ働いていて、目もはれて悲惨だろう。こんなみっともない私をこの先どうしようか。最初から答えは出ている。大衆の中に、とけこめばいい。何もなかったことにして、折原さんから与えられたものをいつもどおり享受して、あの不特定で曖昧な群れに身を預ければいいのだ。人として。人間として生きればいい。彼が愛する、人間になる。こんなふうに苦しい想いをするなら、どんな形であれ彼に愛されていたい。
幸い夜更かしには慣れているから、しばらくこのコンビニで時間をつぶして目のはれをとろう。そうしたら、記憶にぼんやり残る知り合いをたずねてみよう。それで、お金を借りて、喧嘩わかれしてそれっきり連絡をとってすらいなかったけど、実家に帰ろう。それがいい。それで終わり。
ようやく、落ち着いた気がする。こんなに感情的になったのは久しぶりだったから、処理に時間がかかった。だけど今思えばなんてことない。私が折原さんに特別に思われているわけなんて、初めっから欠けらもなかった。
コンビニを出て、頼りない記憶を辿りながら新宿駅を目指す。始発でいいや。各駅をのりついで、ゆっくり。夢から醒めるのにはちょうどいい。
駅に着くと、まだ少し始発には早いみたいだった。一応知り合いに会う前に鏡が見たかったから、ならばと化粧室に向かう。がらんとした駅は、私が最後にみた新宿駅とはまるで違って見えた。そんなわけない。あれから、時間はあまりたってないんだから。
化粧室で鏡に向き合うと、はれぼったい顔の自分が見えた。泣いた上に完徹なんて、こうなるのが目に見えていたはずだ。とりあえず髪を整えていると、首に赤い線が見えた。思わず指先でなぞると、微かなざらりとした感触。瘡蓋だ。かり、と爪を立てるとすぐにとれた。だけどすぐにまたうっすらと血がにじむ。消えない。消えない。


「…折原さん」


消え、ない。







どこかで響くラブソング

(心を閉ざしてもまだ途絶えない)





110319
長くてごめんなさい;




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