「オリハラリンヤさんですか?」



間違えられたことは多々ある。
でもこの、彼女もその大事なお仲間も切羽詰まっているこの状況下で、至極真面目な顔でそう聞いて来た少女に思わず笑ってしまったのが最初だ。
焦っている少女は、名前を間違えたことにさらに焦りを感じたのか、泣きそうな表情で動きを止めた。それから、何故かその場で泣きじゃくり始めると、私はどうなってもいいから皆は助けてください、とそれはもう目もあてられぬほど妙にクサい芝居のようで。
へえ、自分が何したかはわかってるんだねえ。ちょっとだけ面白くなって自分も妙に悪役染みてそう言ってやる。そうするとその薄い肩がびくりと震えて、ごめんなさいごめんなさいと掠れた声で紡がれた。膝がかくかくと頼りなさげに彼女を支えている。そして、次の瞬間。

彼女は両膝をついて、踏みつぶされたカエルのようにみっともなく伏せて頭を床に擦りつけていた。
へえ、と思った。
性格的にこういう、いわゆる土下座なんて行為をする子だとは思わなかった。か細い声で俺に縋るそれはまさしく追い詰められた人間そのもので、自然と口角が上がるのがわかった。愉しいなあ。



「いいよ、許してあげよう。その代わり君が仲間を裏切ってね」



彼女でとことん、遊びたくなった。

簡単だった、彼女はうまく敵のリーダーに取り入ってくれたから、うまい具合に情報操作をして、彼女のみを悪役に仕立てあげた。
必死にその中で踊らされながら、でも彼女は自分に与えられた役目をこなして。人形劇みたいなそれが逆につまらなくなったから、彼女の元仲間のリーダーをけしかけて、彼女を殺そうとした。彼女は突き付けられたナイフを掴んで、恐らく無我夢中で走った。たまたますれ違った敵の幹部に、自分から裏切ってくせして仲間に裏切られたショックを逃がし切れなかった彼女は、パニックでそれの切っ先を突き立てたのだ。
結局仲間からは裏切りの容疑が晴れ、敵は殺人まで行われたことに恐怖を覚えたのか自然に消滅していた。

俺が彼女をつけたのは、事件から一週間も立たない夜だった。

何か起こるだろうなあと確信めいて彼女を追うと、彼女はふらふらとしながら警察に向かっていくようだった。結果的には最高にうまくいったはずなのに、人間は幸福を受け入れるより罪悪感から逃れることを何よりも優先してしまう。愉しくて愉しくて仕方なかった、明日のニュースは見逃せないだろうななんて考えていたのに。
気付いたら俺は彼女の前に姿を現していて、気分は最悪なのに馬鹿みたいに笑っていたわけだ!!
弱った彼女を俺は知っていた。
だけどここまで衰弱し疲弊した彼女は見たことがなかった。やつれていた、世界中でその瞬間彼女は俺だけを見て、その瞳から涙を零した。それを見た時何故だかわからない衝動が俺をつき動かして、いた。


早い話、彼女が俺を見て泣いたというのが酷く気に食わなかった。
大抵の人間は俺を見て崇め称え喜ぶか、蔑み呪い憎むかどちらかの色を瞳に灯す。それだというのに彼女は、諦めを浮かべた人間として最高に面白く、最低につまらない表情を俺に向けてきた。
俺は愛すべき人間から、最もつまらない感情を引き出してしまったのだ。



「いらっしゃい、名前」



だから俺は責任を持って彼女を元に戻し、彼女に憎まれることで人間らしさをより一層増させてやろうと彼女を家に迎えたのだ。最高の笑顔を以て。



「…折、原さん」



睨むか殴るかさあどうくる?
何らかのアクションをされると思っていた、だけど彼女の完全に表情が抜け落ちた顔を見た瞬間。自分自身何か小さな物足りなさを感じて、もう彼女が彼女じゃなくなっている気がした。
もう何をしても無駄だから捨ててやろうとした、でもどうしたって俺は彼女のその顔を見るとできなくなる。これ以上壊すことも、直すこともできない自分が気に食わなかった。

でも、廊下に漏れていた彼女の小さな嗚咽を初めて聞いた時。
なんだかんだで捨てられないその感情は依存だと思っていたが、人間の持つ愚かで無様で滑稽で不可解な感情、つまり恋であると、俺はそこで初めて気が付いた。







頬は少し赤く腫れていた。
咄嗟に彼女の胸倉を締め上げた手は今情けないことに微かに震えていて、それをどうすることもできずにひっくり返されて置いてあるマグカップを掴んだ。コーヒーを淹れて、でもなんとなく淹れただけだったし、結局デスクに放置する。上がる湯気の頼りなさはこの感情の不安定さとよく似ていて。
馬鹿くさい。
そう切り捨てるのは簡単で、でも何故か切り捨てたくないと思う自分がいた。これが人間。矛盾があってこその、人間。

今日買って来た靴は、本当に悩んだ。
波江に彼女が何を欲しがっているかを帰りが遅くなる度に聞いた。寝ないで俺を待つ彼女に、何かしてやりたくなったから。煙草、服、紅茶。波江が調べてくれた彼女の欲しているものを買って、彼女の部屋の前に落とした。理由も言わずに。
今日も遅くなりそうだったからいつもどおり波江に聞いたとこまではよかった。


【靴】


メールには普段と変わらず、何を買うべきかそれだけが書かれている。でもその文字に、その文字が表す物に、俺は珍しく酷く動揺した。
できれば与えたくないが服はまだいい。煙草や紅茶なんて嗜好品なら、いくらでも買ってやるつもりだった。それくらいなら買っても何も支障は出ない。

彼女はここから、逃げられない。

ここに彼女を迎えてから、靴は真っ先に処分した。次が携帯のアドレス帳で、その次がアパート。服も最低限いるもの以外処分した。万が一騒がれたら邪魔だと、彼女の周辺人物も適当に黙らせた。
気高く舞っていた蝶は、翅も触角も何もかも奪われ、地で醜く蠢くただの蟲けらになった。
なら俺は蜘蛛だろうね。自ら動くことが叶わない蝶の残骸にだって、蜘蛛はたかる。否、むしろ翅よりも喜んでそこを吸い尽くすだろう。でも俺は蜘蛛じゃない。巣にかけた彼女を、吸い尽くすのではなく元に戻すために縛っているだけなのだから。
靴を与えなかったのは彼女をここから逃がさないためだ。それだけで逃がさないことになるわけがない?それは正常な人間の場合で、裸足で逃げ出すほどの気力は彼女にはない。だから、それだけで十分だった。
でも、今日波江からきたメールには、はっきり靴と書かれていた。
それを見過ごして、何か適当に食べ物でも買ってくるのも、一日くらい何も買わないのも有りだと思った。だけど、やはり、俺は確かめたくて。

靴を与えられて、彼女はここから逃げ出すのかそれとも残るのか。

馬鹿な事だとは理解していた。自分が可哀相なくらい愚かなのもわかっていた。それでも確かめたいと思ってしまうのが、人間なのだ。
買うか買わないかで迷い、さらにサイズとデザインでもとても迷った。女性の標準サイズくらいだとは思うが、靴のサイズなんて正直わからない。結局無難にスニーカーを一つ選んだ時には、時計の針が一周近く回っていてうんざりした。
うんざりしたのに、気分は悪くなかった。



「何、やってるんだか」



ああわかってる。わかってるさ。
俺は彼女に少なくとも、執着や依存というものとは違う、恋という感情を抱いているのだ。それがどうこう、ではなくそれによって確実に俺は変化を強いられている。
例えば、彼女の言動一つ一つにやたら揺れ動かされたりとか。
憎まれるのが目的だった。憎しみの篭った目で見つめられるのを、俺は望んでいた。あんな涙の溜まった切羽詰まった目で見られることは、望んじゃいなかったはずだ。彼女の視線は、そのまま俺の心臓を貫いたようだった。瞬間、思考が、止まって。
いつの間にか立たなくなったコーヒーの湯気、でも結局その表面にはゆらゆらと不安定に揺れる自分が映し出されていた。

不意に、がちゃりと玄関から音がした。
がさがさと何かを漁る音がして、ドアが閉まる音の後に再び静寂が広がる。
この部屋から、俺以外の気配が消えた。



…ああそうかやはり人間は何時だって逃げることを選ぶ、受け入れる痛みを恐れるから、受け入れられないものの痛みを知らない、から。無知は罪だとはうまく言ったものだ。相手に痛みを押しつけられなかった人間の傲慢さがよく表われている。自分こそが無知で、罪深いのを知らない癖に。受け入れる事の、痛みも恐怖も知らない癖に。否、例え知っていてもそれを拒絶する、誰だって自分が一番大切で痛いのも傷つくのも嫌なのだ。

彼女は逃げることを選んだ。
すなわちそれは、俺を、拒否した。

吐いた嘘なんて都合よく忘れ去って、ただひたすらこの感情から逃れようとしていた自分自身を棚に上げて。彼女のことをただ、責めた。










虚空に消えたラブソング

(全てが止まってしまえばいいのに)







100624
 




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