中途半端な優しさはいらないだなんて、そんなどごぞの漫画の台詞のようなことを考える日がくるとは思わなかった。
しかもよりによってあの男に、今の不安定な状態の元凶といえる存在とはいえ、いちいちこんなにも精神をぐちゃぐちゃに左右されなくてはいけないなんて。

靴を、買って来てくれた。

その前は煙草を(ここに来る前に吸っていた銘柄だった)、服を(私がよく着ているブランドで驚いた)、紅茶を(彼はコーヒー派である)。
ぼた、ぼた、と外からそれを持ち込んで帰ってくると、私の部屋の前に捨てるように落としていく。それも深夜、むしろ明け方に近い帰りの時程だ。リビングに私が一人でいることを折原さんは嫌うから、大抵そういう時は自室にいる。ドアを開ける時に引っ掛かるそれを拾い上げて、最初は彼が落としたのを拾うことすら億劫なほど疲れているのだと思って渡したのだ。視線だけちらりと向けられて、折原さんは受け取ったそれを塵箱に、落とした。
数度それを繰り返して、ようやくそれは私にくれているのではないかというあまりにもプラスな思考で捕らえていた。捕らえてしまっていた、から。



「折原さん」
「…何」
「あの…ありがとうございます」



最近泣くことが多くなった。あの男の前でも涙が出てしまうことが増えた。自分が面倒臭い存在になりつつあることはわかっている、だから無視られる覚悟はとうにできていた。もしかしたらどこかに預けられるかも、とすら思った。
女が泣いて面倒臭がられないのは、相思相愛の恋人の前くらいだ。
なのに折原さんは私をまだここに置いてくれている。尚且ついろいろなものを、買ってきてくれている。何故、ねえ、私が泣いていたから?

だが早い話、私は馬鹿だった。
折原臨也という人物が、私に対してそんなに優しいわけがないのに。偶然、もしくは必然的に人間観察の対象にでもされていたのだろう。彼にとって馬鹿で愚かで愛すべき、人という存在の一部として。



「…ああ、それのこと?」
「はい」



瞬間。
彼の顔が、歪んだ喜悦一色に染まった。

赤い瞳に嘲りを浮かべて、薄い唇からは耳障りな嗤い声が溢れ出す。それから恐ろしくなるような綺麗な笑みを浮かべて、冷徹な男が顔を見せた。



「へえ、じゃあ俺が君の為に買ってきていた、そういいたいわけ?」
「…ち、がうんですか」
「当たり前でしょ?なんだ、最初からわかってるのにそんな期待をしていたわけ?いいね、その楽観的で自己中心的で完結した思考回路、実に人間らしくて俺は嫌いじゃない。そうか、君はそういう風に考えていたわけか。俺が君の為に、ね。知ってるかい、無償で何かをしてあげることなんて有り得ないんだ。君は俺にとって何一つ有益なことをしちゃいない。世の中ギブアンドテイクだ、君を雇ってやっているし、俺は君から奪うことこそしないけどこれ以上何かを与える必要はない」
「…でも、私折原さんに何もしていないわけじゃ、」
「恩着せがましいね」



その言葉に、握り締めた手の平の皮が爪でつぷりと破けてしまった。痛い、だけど表情には出さない。泣くことは絶対にしない。しちゃ駄目だ。元からわかっていたじゃないか、この男の前で泣いたら絶対にいけないんだと。
男はくつくつと笑った。怖い。確かにそう感じて、さらにきつく手に力を込めた。



「これさあ、波江に言われて買ってきてるんだよね。残業手当ての代わりに買ってきてるんだけど、帰ってくると彼女もういないだろ?そうすると渡すのも癪だし、だから適当に投げ捨ててたのを君が拾っただけ。ただそれだけだよ」
「…っ、はい」



表情は変えずに、平然と受け答えをする。…はずだった、だけど私の中の感情はそれを許してくれない。やめて、やめて、これ以上私を困らせないで。こんなの、絶対にこの男の前で晒しちゃ駄目なんだ。

思い違いにも程がある、期待した私が、ただ、馬鹿だったのだ。
何故期待してしまったか、なんて自問自答は絶対にしちゃいけない。本当は知っている。わかっている、わかっていた。なのにやっぱり私は、そうせずにはいられなかったのだ。
だって、だって折原さんが。
込み上げた熱いものは、私が気付いて隠すのより一瞬早く零れ落ちた。



「…何それ」
「すみま、せ、ん」



なんで泣くんだろう。泣く原因もわかっているし、泣いたらこれ以上辛くなるのもわかってる。
それでも止まらない涙を、私は必死に目元を押さえることで我慢した。嗚咽で揺れる肩も、ぎゅうと体に力を入れて堪えた。この男の一言で泣いているということに、私の中でまた何かがぐらぐら揺れていた。
そんな私を見た折原さんの口から漏れたのは、その、私の中の何かをぐちゃぐちゃに傷つけるには十分で。



「………君さ、鬱陶しいよ」



鈍い痛みを受ける、手の平に食い込んだ爪が与える痛みが唯一私を保ってくれる。じくじくじく。痛い。そこだけに集中して、他の全てを忘れ去る努力をした。少なくとも、今感じるこの馬鹿らしくて面倒な痛みは忘れたくて。震えるその何かを、やさしく抱きとめて欲しくて。
気付いたら、手が伸びていた。
折原臨也の顔に、ぱしんと小気味よい音を立てながら叩き込んで、いて。

しまったと思った時には胸倉を掴まれ、既に首に冷たいナイフがぴたりと添えられていた。赤い瞳は歪められていて、その表情は初めてみたもので。当たり前だ、私の前ではほとんど無表情なのだから。



「君は何が不満なのかな」
「…なにがって、」
「泣くか無表情かって、君は悲劇のヒロインでも気取ってるのかい?」
「、」
「はっ、誰も君なんか助けないよ」



私を締め上げる力が強くなる、首にあてられたナイフに薄皮一枚分くらい切られた気がした。怖くて、また何かがきりきりと痛む。それを知ってか知らずか、男の残酷な笑みを浮かべ瞳は嘲りを灯す。くつくつと喉で笑うその人は、また何か言うつもりなのか口を開き。

そして小さく目を見開いて、止まった。

それは私がぽたぽたと涙を零したことに対する反応か、それとも、私の指先が縋るように彼のコートを掴んだからか。



「そんな、こと」
「…何」
「貴方に関係ない、ですよね」



小さな反抗は数々してきた。まだ牙を無くしたわけじゃない、自分の意思でここにいるんじゃないっていう証明の為に。私は折原臨也が嫌いで嫌いで大嫌いだと。服従したわけではない、と。
別に彼も私が嫌いだから、そんなことにいちいち嫌な顔はしないし、ただ皮肉を返してくるだけだった。

でも、今のは、違う。
少なくとも私は彼を根本から拒絶するつもりで、口を動かした。抱き締めてもらえない傷ついた何かを守る為には、彼を傷つけることしか思い付かなくて。でも彼の傷つけ方は知らない。例え知っていても、できなかったとは思う。彼に縋りつく自分自身の指先がそれを語っていた。
目の前の彼も違いを感じたのだろうか。動かず、その赤い目に私を映していた。何の感情も読めない、瞳に。
どうしたらいいかわからなくて、どういう反応をされるかわからなくて、咄嗟に俯いた。明らかにおかしい。今のままでは歯車は噛み合わない。理由は、もう逃げられないくらいに明白だった。

嫌いなのに、大嫌いなのに、ほんとは全然嫌いじゃないんだ。

卑怯で最低でこの世のどんな罵詈雑言を浴びせても足りないような男だと思ってた、それは今もそう思うし、過去にされたことやこの束縛を思うと絶対に彼を許すことは出来ない。
だけど、居心地が悪いわけではない。彼といることが嫌なわけではない。逆に今出て行けと言われたら、それこそ私は泣いてしまう気が、する。時々優しくされて、本気で傷つくことはしないでくれた。昔の事件の話で深く傷つけられたことはほとんどない。ちりちりとした痛みを与えられるのは、別に彼の性格を思えばそこまでじゃなかった。
淡く淡い恋心を抱いていた。
でも彼の方はといえばそうではないだろう。深い傷をつけないのは玩具が壊れたら困るからだ。そこには何もない。期待をしたのは私の勝手だ。どれだけ私は馬鹿なんだろう。痛い、痛い。



「…名前、」



ぎり、と奥歯を噛み締める音が聞こえた。
そして小さく呟かれたのは、前に同じように呼ばれたことのある懐かしいものだった。私の、名前だ。彼に助けられた時、いや初めてここにきた時だったような。それが確か彼に名前を呼ばれた最後だった。
呼ばれた瞬間、ぴくりと私の指先が微かに反応してしまった。それに連動するかのように、ようやく折原さんは私の首からナイフを退けてコートを掴む手を払った。
踵を返し、リビングにそのまま無言で歩いていく彼は、無表情なのに何故か泣きそうな小さな子供のように見えた。

貴方の中の何かも、叫びながら不安定に揺れているのだろうか。










ラブソングが歌えない

(声を張り上げたって君には、)







100606
 




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