波江さんは今日来ないらしい。
これは別にあの人が教えてくれたわけでも、波江さんが直接連絡をしてくれたわけでもない。
ただ少し不機嫌そうに朝から仕事をこなす彼と、定時になってもこない彼女と、それから珍しく私にコーヒーを頼んだことからなんとなくそう推測した。まさか、普段は口もつけずにキッチンに下げている私の淹れたコーヒーを、彼から頼まれる日が来るなんて思わなかった。



「折原さん、コーヒーです」
「そこ置いて。ねえどこか出掛けてきなよ、帰りは俺が寝てるかもしれないから明日がいいな」
「…どういう、」
「そのまんま。気が散る」



彼の薄い唇からいっそ清々しいほどにわざとらしい溜め息が零れ落ちた。
でもそれを気にする程、私の中に対人関係についての常識は残っていなかった。まあここにいれば、大抵の常識は消えてしまいそうだけれど。それほどまでにこの部屋は異質で、何より常識というモラルからかけ離れている。

折原さんが二回目の溜め息を吐いた。
これ以上の長居は無用だ、もし更に機嫌を損ねたりしたらどうなることか。しばらく声帯は使わないことになるだろう。
だけど出掛けろと言われても、私には出掛ける先も、今夜泊まれる場所もない。あまりに突然過ぎる事態だ。だけど彼は絶対に助けてはくれないだろう。そのくらいに嫌われてることは、知っている。



「、じゃあ」
「ああそうだ。誰かの家には泊まらないで。匂いでも移されて来たら不快だからね。それと、ホテルも隣がいない部屋しか認めない。君には何も情報を握らせていないけど、何が起こるかわからないし。三部屋とって真ん中を使いなよ」
「…わかりました」



命令と、返事。
いつも通りの会話を済ませて、自室に戻る。適当に着替え、手荷物をまとめてから廊下に出た。よく考えたらジャケットもバッグもなかったけれど。
売り払われたのか、しまわれたのかはわからないけど彼の仕業に違いない。当たり前だ、私は彼の籠の中で飼われているのだから。逃げられなくするのは当然だ。
玄関に来て、はたと立ち止まる。
靴が無い。
靴箱を探すと、奥の方から少し古びた靴が出て来た。大きさからいって彼のだろう。勝手に使ったら怒られるだろうが、私の靴は無い。
足をいれると、結構に大きかった。
歩きづらいけれど、歩けなくはない。そのまま玄関を出る。いってきますは言わなかった。







街の中を彷徨って、大分たった。
ホテルはどこも三つ連続で部屋なんて取れなかったし、取れるとしても代金はポケットマネーでは払えそうになかった。結局、彼は私を路頭に迷わせるという新しい遊びでもしたかったのだろうか。

だとしても、傷つかない。
半ば自分に言い聞かせるようになっていたことは、気にしないことにした。
これ以上考えない。
それが私の出した結論だ。考えれば考えるほど、あの時あの夜の彼の行動が不可解で、何故か苦しくなる。
それが何故かは知っている。
知っているなら考えなくていい。表現なんてしなくていい。それだけでいい。



「寒い…」



冷えてきた。
ネットカフェにでもいようかと思ったけど、何かの匂いがつくことは必至だろう。煙草臭くでもなったらなんていわれるか。それに、左右に空き部屋なんてありえないだろうし。
裏路地はどう考えたって危険だ。
大通りの街灯に寄り掛かっているこの状態で、一夜は明かせるだろうか。手持ちぶさたな私は、あの男によってデータを全て消された携帯を取り出した。

本当に、私は折原さんの所有物みたいだ。

徹底的に行き届いた管理に、もはや苦笑する気すらもおきない。
ネットでも彷徨ってみようかと、久し振りに触った携帯を弄る。でも正直今は、何よりも誰かと関わりたかった。



「…折原さん」



脳裏に浮かぶのは赤目の男。
そんなに今日は忙しかったんだろうか。休憩はしたのかな。食事は、もしかしたら摂っていないかもしれない。あの男は自己管理がたまに非常に危なっかしくなる。朝のコーヒーは飲んでくれたのだろうか。私が運んだ時は口をつけてくれなかったけど。
ぽつ、ぽつ、とあの人のことばかり。

不意にまだ昔、彼を情報屋として利用していた頃を思い出した。
嫌な予感を訴える第六感と、でも情報を掴まなければいけない役目と、ほんの少しの好奇心を織り交ぜて、携帯の画面に浮かぶ十一個の数字を覚えてしまいそうなほど見つめて。
結局、私はどうしたんだっけ。
思い出せない記憶は、ただ刻々と過ぎる現在のように私を傷つけたりしない。けれど、もしその時に要らぬことをしていたら。それが現在の束縛へ繋がっていたら。



「なんだっけ…」



ただ一つ確実に言えるとすれば、私はまだ、あの数字たちを覚えている。

指先はすぐにその番号を叩き出して、画面にはすぐに十一個の数字が並んだ。そして通話ボタンにかけた指は、相変わらずぴくりとも動かない。
あの時は未知の彼が怖かった。
なら、今は?
忙しい彼の邪魔をする?でもそれは別にいい。だって忙しければあの男は出ないし、それにそもそも元凶はあの男だ。
足元で緩い靴が揺れる。だらしない。

急になんだかめんどくさくなって、親指に軽く力を込めた。
薄暗くなっていた画面が明るくなる。



「…折原さん?」
『……へえ、何で俺の番号を?』
「覚えてました」
『ふうん。まあいいんだけどさ、君がストーカー染みていようがいまいが。ああこれは君にもわかるようにした厭味だから。で、何?』



どく、と心臓から嫌な音がした。
電話口から聞こえた聞き慣れた声は随分不機嫌そうで、携帯を掴む手に力が入る。いやだ、そんな…ああそうか。咄嗟に巡った思考は、私が何を思っているかを教えてくれた。
私は嫌われたくなかった。
電話なんてすれば彼が不機嫌になるなんてわかっていた。その原因は私で、つまり彼の機嫌の悪さは私が鬱陶しいからだ。だからただ少し力をいれることを、あんなにもためらった。
嫌われたくなかった、んだと思う。

なんだか怖くて、体の奥がぎゅうと縮こまるみたいで、苦しい。



『…だんまりは楽しいのかな』
「それなりに」
『なら一人でやって欲しいんだけど』
「…嫌です」
『…君さ、何がしたいわけ』



溜め息をついたのが聞こえる。
たったそれだけのことに肩を震わせてしまう私は、よほどどうにかしてるらしい。
別に気にする必要はない。
元々嫌われているし、彼のところに置かれているのも嫌がらせに違いない。今更溜め息くらいどうってことない。

落ち着けと念じながら、何か言おうと口を薄く開いたその時。



『帰ってくれば?』
「…え」
『今すぐ帰ってくれば、俺は起きてるから入れてあげるよ』
「でも邪魔なんじゃ、」
『すぐ寝ればいいよ。どうせ君みたいな不器用な人間は、泊まる場所の確保なんてできてないんだろうからね』
「……はい」
『…君もさ、いちいち意地張るのやめてみたらどうかな』



意地なんて。
そう反論をしようとしたけど、何故か声帯がうまく震えてくれなくて、代わりに一つ小さなしゃくりをあげた。ぱたぱたと薄い服を濡らしていくのは、最近やけによくお世話になる雫で。

なんで私は泣くんだろう。

わからないけれど、意地を張っているわけではないけれど、初めて彼が私に踏み込んできてくれたからかもしれない。
嫌いだ、折原臨也なんて大嫌いだ。



『…、早く帰っておいで』



でも今確かに、私は彼を欲している。

足元で所在無く揺れていた靴は、ようやく役目を得たと言わんばかりにぱこぱこと情けない音を立てながら、本来の主人の家を目指して歩き出した。
そういえばあの時、結局私は電話をかけなかった気が、する。じゃあ折原さんは、なんで、私を。








ラブソングは囁くように

(君の背中に、届かぬように)





100508






人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -