「よー、坂田ァ」
団子屋を営んでいる俺とタメで駄目な女は、床に転がったまま馬鹿みたいにへにゃりと笑った。いや、そこ、俺んちの玄関。
呆れた顔を無意識にしていたのか、それを見たこいつは「呆れないでよー」と言いながらようやく身を起こした。外の雨でやられたのか、ずぶ濡れ。おかげで床に水溜まりができている。おいおい掃除誰がすると思ってやがる。とりあえず眺めていたらそこでのんきにも水をしぼり始めたので頭をはたいた。痛っといった馬鹿は、またのそりと寝そべる。あー。
「お前なあ。さっさと家帰れバカヤロー、いい歳こいて人様に迷惑かけんじゃありません」
「ツケ」
「しゃーねーな風呂今わかしてやるから」
「そんなんいいよ坂田ァ、だからここにサインと印鑑頼むわ」
「あ?」
そいつが懐から取り出したのはくしゃくしゃの紙だった。触るとびしょびしょで、思わず指先でつまむように持ち上げると足元から上がるブーイング。俺もお前にブーイングしてえよチクショー。
その紙を広げると、わずかに枠と、でろでろに溶けだしたインクの向こうに辛うじてこいつの名前と印鑑、それと他にも書かれたいくらかの文字が見えた。わけがわからなくてさらによく見ると、上の方にこの紙の正体を語るであろう、字。
「婚姻、届…?」
「ん」
「いやいやいや冗談きついよお前、エイプリルフールは終わりましたけど?」
「冗談じゃないよ本物だし。まあ坂田はお世話になったこともなる予定もなかっただろうからわかんないかぁ」
「失礼な奴だな俺だって婚活すればスグですぅー。してないからいないだけであって婚活すればそんなんすぐ」
「坂田ァ」
何とも言いがたいような感情を込められた声に呼ばれて、押し黙る。女はびしょぬれの髪をかき上げて、床から有無を言わさぬ視線で俺を貫いた。
「幸せにするよ」
言ったあと、また馬鹿みたいにけらけら笑う女。素面だよなあ、一応。しゃがみ込んでそいつの頬に手を沿わせると、あの目が再び俺を映す。なんでもないような、ただそこにしっかりと意志を込めた目。
ただじっと睨めっこをしていると、女の手も俺の頬に伸びた。「…坂田」そいつの唇がゆっくり動いた。にたりと嫌な笑み。
「どーかなあ」
うっわヤな女。
俺から一切目を反らさないまま、もう一度どーかなあと呟かれる。どーかなあってお前、人に物聞く態度じゃねーよ馬鹿。イラっときたから、その腹立つ顔にびしょぬれの紙を乗っけてやった。「お前さあ、これじゃ役所受け取ってくんねーよ。びちゃびちゃだよ。母ちゃんの作ったカレーよりたち悪ぃよ」そう言うとそいつは、軽い調子でごめんと言った。
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