帰宅すると、部屋の中が真っ暗だった。電気をつけて玄関を見下ろしたら、そこに出かけた時まで在ったものが無い。先輩の靴。また、いない。期待するのはやめたはずだけど、僅かに未練があったようだ。想定内といえば想定内だが、だからこそ先輩はしないと思ったのに、ね。馬鹿らしい。やや高望みだったか。まあ仕方ない、記憶の中の存在はいつだってその持ち主の感情の分だけあるはずのない情報が入り混じる。早い話が美化というやつだ。まさか俺も躍らされるとはね。

部屋に入ると、本当にがらんとしていて何も無かった。夢を見ていたのかもしれないと柄にもなく思ってしまうほど、そこには何も無い。唯一ローテーブルに残された包帯だけが見慣れない景色として残っていて異様だった。不思議なもので人間の心理では、幾らそれが正しくとも他がその正しい存在を否定すれば正しかった筈の存在こそがイレギュラーになる。つまり今この包帯がイレギュラーで、他こそが正しい。日常。白い布を巻いただけのそれさえ片付けてしまえば、彼女の痕跡はどこにも無く、俺はまた日常に戻るのだ。
包帯をつまみ上げたとき、ローテーブルに一枚のメモ用紙を発見した。ざわり、と背中を何かが走る。…先輩だ。ああもう、なんでよりによってこんな。



《マグカップの中身借りました》



それだけの短文。
思い当たるのは私用の携帯で、それも随分使ってないやつ。ばっと部屋中を見ると、さっきまで何も変わってないように思っていた空間にところどころ感じる綻び。早い話が漁った痕。やはり先輩は先輩で、俺の想定内の中でぶっ飛んだ想定外をしてくれる。
それが可笑しくて、俺の知るままの先輩なのが何よりも面白い。
とりあえず自分の携帯に電話をかける。というかあれ、もう先輩にあげよう。それでいい。あの携帯には大した情報も入っていないし、そろそろ処分しようかと思っていたぐらいだ。これであの彼女と、探しても探しても見つからない先輩と連絡が取れるというなら逆に金を払ってもいい。いなくなった先輩とまた繋がれると言うのなら。



「もしもし」
「あ、臨也君?」



結構長めのコールの後に出た先輩は、機嫌の良さそうな声でそう言った。微かに男の声がするが、たぶん新羅かその辺りだろう。シズちゃんだったらきっと先輩はこの電話にすら気づいていない。憎たらしいくらいに仲良しだから、ね。
ソファに座って、ねえ、と口を開く。だけど先輩はそんなことお構い無しで、「臨也君、カレー」と少し得意げな声で言ってきた。意味がわからない。とりあえずそれよりも今は現在地を知りたい。もう一度ねえ、と口を開くが先輩も何故か再びカレーと言った。



「…カレーがどうしたのさ」
「食べないでね」
「……人に伝えるという観念が欠落してるのかな」
「あはは、臨也君ならわかるかなって」
「へえ。で?」
「冷蔵庫にカレー作って入れといたんだけど、食べないでね」



思わず立ち上がって、冷蔵庫の扉を開けていた。確かにど真ん中、今朝まで何も無かったスペースに並々とカレーの入った大きめのタッパーが居座っている。フタには先ほどと同じメモで、食べるなの一言。…ああ、なんだ。理解が追いつかない。一般常識から大きく逸れたそれの意味は何なのか、いやむしろ無いのかもしれない。無意識にこめかみの辺りを押さえると、電話の向こうの先輩が脳天気な声で答えを教えてくれた。



「カレーは寝かした方がおいしいから」
「…人の家で寝かさないでもらえるかい?」」
「広すぎて全然有効活用できてないんだからいいでしょ?明日あたり食べに行こうかなー、あ、その時いたら食べさせてあげてもいいよ?」



けらけらと笑う先輩。つまり、彼女は俺の中でまだ生きている存在でいるということだ。いつだったか、先輩の話していた説を用いれば、だけど。基本的に先輩の話は一つ飛ばされた次元での話であるから馬鹿みたいな事ばかりだが、無視はできずふとした瞬間に顔を覗かせる。まさに今この瞬間だ。まるで先輩そのもの、俺を離してくれない彼女の存在のようで。笑ってしまうが否定できないのが面白い。受け入れやすいが認めづらい。「流石だね」思わず口からそうこぼれた。



「臨也君?」
「いや、なんでもないよ」
「うそつけ」
「…何でしょう」
「臨也君が何でもないことなんてないじゃん」



変わらない先輩に、また妙な息苦しさを覚える。シズちゃんは。シズちゃんはどうだったんだろう。結局一度だって先輩を諦めていなかったシズちゃんは、たぶん何も変わっていない。変わったのは俺だけ。不変がこの世界において明らかな異変であることは知っているし、俺はそういった人間を見るのが好きだ。なのに今、俺は変わりたくないと思う。俺も当たり前に人間の一部であることが可笑しい。いやあ解っているつもりだけど、まさか理解出来ている現象に自らも陥るとは。先輩のせいだ。彼女に絡むと誰だって笑えるほどに人間臭くなるから敵わない。





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