久遠が講義を自主休校にして大学のラウンジの隅に腰掛けてヘッドフォンでキリンの鳴き声を聴きながらこの国の片隅で感染病のために無情に処分されている牛たちに心を痛めていると、秋山さん、と声をかけられる。好奇心に釣られて振り向くと自分と年齢の違わない少女がそこに立っている。彼女は久遠が彼女の言う秋山さんではないことに気づいたようで目を白黒させる。

「ごめんなさい!」

人違いでした、と言ってしきりに頭を下げている。上下するたびに揺れる栗色は、手入れの行き届いたゴールデンレトリバーのそれを思わせる。彼女の全体の印象から、仔犬のほう、と久遠の頭の中のリストに書き加える。彼女の相手をすることは、

(暇つぶしにはなるかなあ)

「・・・君は、犬派?猫派?」

わずかな空白のあとに猫派です、と言う声が聞こえて久遠は満足げに笑う。



目の前に座る少女の名前は神崎直というらしい。神崎、と聞いて思わず神崎?と聞き直してしまったことに久遠は苦笑を隠せない。

「ちょっと前に別の神崎さんに苛められたんだ」
ちゃんとやり返したけどね、胸の内で呟く。
「えっ、」
彼女は何の関係もないはずなのにすいません、と心底申し訳なさそうに謝ってくる。
「神崎さんは関係ないよ」
「あ、そうでしたね」
そうやって行儀よく笑う様はますますよく躾をされたゴールデンレトリバーに似ている。
「それでも猫派なんだなあ」
本人はこんなに犬に近いのに。
「知っている人が猫に似ているなあ、と思って」

髪質とか、猫背気味のところとか、ちょっと意地悪で気紛れなところとか誰にも何も言わないでどこかに行ってしまうところとか。でも本当はすごく優しくて、いつも護ってくれて助けてくれるんですよ。笑ってくれることは少ないんですけど、笑った顔はとても素敵です。

そう語る直の口調は宝物にそっと触れるときのようで、それはそのまま彼女の想いを証明している。
「それが、秋山さん、なんだ」
久遠のことを秋山さん、と呼んだ時と同じ顔つきをしている。
「!なんで、」
「神崎さん」
「はい」
「馬鹿正直って言われるでしょう」「!」

きっとこれまでも数え切れないほど言われ続けてきたのだろう、小さな溜め息のあと、ひっそりと肩が落ちる。絶滅危惧種、という言葉が久遠の脳裏をよぎる。
「それで、神崎さんはその秋山さんが、」好きなんだ、

「そいつに何か用なのか」
黒髪で、長身の男性が立っている。一瞬、久遠に鋭い視線を送るがすぐに直の方を向いた。彼女に向けられる視線は随分と柔らかい。秋山さん!と直の声が弾んだ。猫というよりシェパードに似ているな、と久遠は思った。


私が間違えて声をかけてしまって、と直が秋山に説明している。秋山は直の隣に座って静かに彼女の話を聞いている。
「はじめは似てるなって思ったんですけど」

全然違いますね、と直が秋山と久遠に笑いかける。秋山がそうか、と直の言葉に答える。久遠の方は見ようともしない。久遠と話をする気は、どうやら秋山にはないらしい。
「愛されてるなあ」
「え?」
「なんでもないよ」
どうやら彼女は気付いていないらしい。それは、秋山にとって幸だろうか不幸だろうか、と久遠は考える。まあ、どうでも良いけれど。話しているのは殆ど直で秋山はそれを黙って聞いている。たまに返す短い物静な返事が秋山の存在を主張している。響野とは真逆の存在だ。

「響野さんもこれくらい静かになってくれればいいのに」
「響野さん?」
思わず零れた独り言は直の興味を引いたらしい。秋山の視線が邪魔をするなと訴える。
「知り合いで喫茶店をやってるんだ、すごくうるさい人。今日もこれからそこに行かなくちゃ」
「お気に入りなんですね」
「とんでもない!仕事の打ち合わせだよ」
「仕事?」

「銀行強盗」

大きな瞳が見開かれてさらに大きくなる。久遠の言葉が冗談なのか本気なのか判断しかねている。秋山からは溜め息が聞こえた。

「冗談だよ」
「そ、そうですよね!」
「嘘だよ」
「えっ」
「じゃあそろそろ行こうっと、末永くお幸せにね神崎さん」

まだ戸惑いの中にいる直をあとにして久遠は席を立とうとする。
「・・・おい、」
はじめて秋山が久遠に話しかける。
「なに?」

「・・・彼女の財布を置いていけ」
見破られていた。二人目。カウンタが回る。

「秋山さん何者?」
「お前なんかに教えない、そんなことよりも」
ぐ、と首筋を捕まれる。見た目よりも意外と力が強いことに驚く。
「・・・次やれば潰す」
警告ではなく宣告だった。耳元から流れ込む平坦な声が腹の底を撫で上げる。直感。仔犬のような彼女が懐いているのは気難しい黒猫でもなく聡明なシェパードでもない。彼女が懐いているものは。

「・・・やっぱり迂闊に神崎さんに近づいたらだめだなあ」

財布はいつの間にか秋山の手中にあった。

「分かったのならもう消えろ」
「ひどいなあ」
「あの、秋山さん、」
どういうことですか、と直が困り果てた声を出した。きっといつもこんな調子なのだろう。取りあえずこいつにはもう絶対に近付くなよ、と秋山に言われて更に困り果てている。秋山がもう用事は済んだと言わんばかりに久遠の存在を消し去っているので久遠もこれに紛れて消えることにする。ラウンジのドアノブに手をかけると久遠さん、と直に呼びかけられる。

「さようなら!」
「バイバイ、神崎さん」
またね、と言ったら直がはい!と威勢良く返して秋山にだからもう関わるな、と怒られている。ラウンジを出るともう久遠の興味は直と秋山からは離れて頭は成瀬たちとの打ち合わせのことを考え始めた。遠くで野良猫が鳴いている声を聞いて久遠の口の両端がにやりと上がる。



信用しないおとこの条件その1:陽気なギャングのスリの天才



ねこじたの浅さんにリクエストさせていただきました!
伊坂さん好きということで、秋直に久遠を絡ませていただきたいなぁとわがままを言ったらこんなにもスマートに叶えてくださる浅さんに一生ついていきたいです
思いっきり秋直をおちょくる気満々の久遠君が可愛くて仕方ないです。何だこれもう。TOKIMEKIがとまんねえ
一万打、本当におめでとうございました!
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