彼女は万人に手を差し伸べるくせに万人から遥かに遠い矛盾の塊のような生き物であるから、つまり俺と彼女の間にも気が遠くなるような恐ろしい距離が横たわっているという事実もさして特別なことではないのかもしれないとも思っている。彼女は今俺の部屋の台所で包丁の音を軽快に立てているとは言え。詐欺師と馬鹿正直の間にはやはり遠いとおい隔たりが存在するのだ。
という訳で俺には彼女の目を塞ぐ権利はないので、いつか彼女が誰か別の人間を好きになって俺の前から消える日が来たって俺には止めることができないんだろう。幸せに笑う彼女の顔に少しだけ安心してその裏で死ぬほど苦しむんだ。
「どうかしたんですか?」
「何が?」
「何だか泣きそうな顔です」
思わず外の夜空で鏡になった窓ガラスを覗き込んでもそこには平常の醒めた自分の顔しか映らなかったことから、またも彼女は俺に向かって手を差し伸べたのだなと気付いた。気付いて本当に泣きそうになった。
「何でもない」
「そうなんですか?」
「たまには大人もセンチになんだよ」
「また子供扱いする!」
「してないよ、直さん」
「どうしてこんなときだけわざわざ下手に嘘吐くんですか……」
膨れっ面が可愛い。せめて彼女がこんな風に怒るのは俺に対してだけだったらいいなと考えた。彼女は神様だから自分はいくらでも責めるくせに他人となると少しも咎めない。尖らせた唇もすぐに元に戻る。軽やかな包丁の音が再び響き始めた。真っ白い俎の上で鮮やかな人参があっという間に細切れになっていくのが小さく見える。
ねえ神様。世界一君を崇拝してるのは俺だとは気付いてないだろうね。万人から遠い君は俺が何を思ってこんなに焦がれているのか少しも悟ってくれない。こんなに近くにいるのに。他人に向ける一挙一動全てにひたすら醜く嫉妬する俺にすら気付かないんじゃないか。手は差し伸べるくせに。
縛りたいのではなかった。彼女は神様なので。神様は空の上からあの優しい笑みのまま万人を見下ろさなければならないので。だから俺が彼女にしてやれることと言ったら余りに限られていた。彼女の代わりに地獄に落ちるまで汚れてやることだけ。落ちるところまで落ちたら、その時は一度だけでいいから俺だけを見てそして微笑んではくれないかな。手は差し伸べなくていいよ。もうたくさんそうしてもらったし、その時にはもう俺はぐちゃぐちゃに汚れきってるからその手まで汚れるだろう。
神様あいしてます。泣かないでください。あいしてほしいとは言わないからいつも笑ってください。その為なら俺は誰だって潰してみせます殺してもみせます。お望みなら俺自身だっていつでも死んだって構わないんですすぐにその包丁でも貸してくださればすぐに済ませますから。だからいつまでも優しい神様のままでいてください。いなくならないでください。俺を置いていかないで。引き留められない俺を一人にしないでください。
静かに立ち上がったのに足元の床が微かに軋む音がした。背後に立つといつものように彼女はどうしたんですかとあどけなく振り返った。白い手に握られたままの包丁が蛍光灯の光を反射する。シンクに手をついた。冷たい感触。
縛る権利はないので。代わりに全部あげる。
「ねえ」
こんな俺を笑うかな。




「抱っこしてあげる。」











樹さんにもう一回便乗しようぜ!という作戦
いや、すいませんでした……
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