2011/05/12 00:17

 昨日の夜、それは深夜にも近い時間帯だったと思う。
 とても気に入っていたグラスを落として割ってしまった。咄嗟に伸ばした手は空気を掴むだけ、硝子の欠片が辺りに飛び散る。
 鋭い痛みに気が付けば、手が真っ赤に染まっていて、突然の弟の告白にショックを受けていた俺は流れる血の多さにさらに呆然とする。
 弟は呆気にとられている俺を叱咤し、流水の中に握った俺の手を突っ込んで真っ赤な血を洗い流す。その時ふれた弟の手の体温に、どうしてだか動揺し、狼狽えてしまった。
 それは昨日の夜のこと。


 絆創膏のはじを引っ掻いて、薬指に巻かれたそれを取る。
 ご丁寧に二枚重ねに巻かれた絆創膏をみると、一枚目には赤黒く乾いた血がべっとりと付着し、なんと一枚隔てられた二枚目にまで血が少量ながら染み込んでいた。あらためてこの傷の深さと、弟が口うるさく「きつく巻け」といった理由に納得がした。
 傷の部分にふれると、やはりまだズキズキと痛みが走り、少し膨らんだそこは一生懸命自己修復に励んでいた。皮はすでに繋がっている。

「兄さん、すきだよ」

 頭の中を掠める硬質な音、思い出すのは硝子のグラスを落としてしまった瞬間の割れた音だ。
 どうにも耳の奥に残ってしまい、どうやっても忘れられない。むしろそれは、耳の奥よりもっと自分の中心部分(例えば心臓辺りとか)に引っ付いて離れようとしてくれないようだった。
 そんな記憶に粘着する硝子が割れた音を思い出すたびになんとも憂鬱な気分になるのは、指の傷のせいか。

「どんなに兄さんが傷付こうとも、こうやって僕が手当てしてあげるから。兄さんは僕の目の届く場所、声の届く場所、手の届く場所、想いの届く場所、僕のすぐ隣に居てよ。僕から離れないで……お願い」

 いつの間にかこんなにも深く、心をとらわれて離れなくなってしまったのか。
 掴みそこねたグラスは粉々に割れて、今はもうこの手には戻ってこない。
 伸ばしたこの手は空気ばかりを掴んで、握って開けば空気すらも手放してしまうことになる。
 いつもそうだ、大切なものは自分のこの手では掴みきれないで、いつの間にか全部失ってしまっている。掴んだはずの幸せの名残すら、どこかの空気の中へと消えて最後は見失ってしまう。
 せめて兄貴として弟の手だけはちゃんと握っていようと思っていたのに、気付けば弟は自分のもっと先を歩いていた。
 手招く弟を目印に歩いていたら、今度は弟の罠に引っ掛かり、自分一人では歩けなくなっている。

 割れたグラスはもうこの手には戻ってこない、壊れた僕らの関係はもう元には戻れない。
 無理にふれようとすれば、尖った硝子の欠片で傷を負うことになる。

 ごめんね、好きなんかじゃなかった。




「本当は兄さんをずっと愛していた」





END
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