きっと、僕が悪かったのだろうと思う。知らず知らずのうちに、彼女を傷つけていたんだろうと思う。彼女がおかしくなってしまったのは…全部。僕のせいなんだろうと思う。何を言っても言い訳になるし、今更だと思うけど…。
これだけは、言わせて欲しいんだ。

「僕は、君が好きなんだよ?」

だけど、そう言ったところで彼女は目を細めてこう返す。

「私だって、憂太のこと…大好きだよ。だから、私は……。貴方の大好きなものになりたいの」

底知れない真っ暗な瞳が弧を描く。大好きなはずの彼女の笑顔が、恐ろしい化け物に見えてしまうのは…。僕の幻覚だ。と、そう願わずにはいられないのだ。

モンタージュ ―彼の場合―

彼女は明るくて、優しくて。でも時に厳しい…そんな人。笑った顔がとても可愛くて、第一印象は『笑顔が素敵な子』だった。
転校してきたばかりで右も左も分からない僕に沢山のことを教えてくれた彼女は、いつでも柔らかく笑っていた。いつからかそんな彼女に惹かれる僕が居て、そのたびに思い出すのは初恋の相手である里香ちゃんの事だった。
大人になったら結婚しよう。そう約束した里香ちゃんは、事故で亡くなった。僕の目の前で車に轢かれたんだ。あのときの光景は今でも鮮明に覚えてる。きっとその時の事も、里香ちゃんの事も…僕は一生忘れることなんて出来ないし、忘れちゃいけない事だって思うんだ。でもそれとは裏腹、彼女への気持ちも僕の中で大きくなっていった。
彼女は勿論、僕の転校理由でもある里香ちゃんの事を知っている。いつだったか、放課後たまたま二人きりになった時、僕は少しだけ里香ちゃんの事を彼女に話した事があったんだ。断片的な里香ちゃんへの想い。彼女は、うんうん。と嫌がりもせず、支離滅裂な箇条書きのような僕の気持ちを聞いてくれた。
「憂太は、里香ちゃんの事が大好きなんだね」
「…」
彼女にそう聞かれて、僕は即答が出来なかったんだ。確かに里香ちゃんの事は大好きだ。けれどその時にはもう、それに負けないくらい彼女の事も好きになっていたんだ。

そんな自分を最低だと思うのと同時に、彼女にこの気持ちを伝えたくてたまらない自分もいる。どちらも僕の本音であり、僕自身。
紡ぎかけた言葉を飲み込んで、僕は彼女の問いかけに小さく『うん』と返す。
彼女はその時何を思っていたのだろう。今となっては知るよしもない。ただ覚えているのは…彼女の柔らかな笑顔に落ちた茜色だけだ。
それからしばらくして、僕は里香ちゃんの解呪を果たす。結局僕が立てた仮説は当たっていた。僕が呪われていたのではなく…僕が里香ちゃんを呪っていたんだ。
好き。とか、愛してる。とか…。本来は綺麗で澄み切ったはずの感情で、僕は初恋の人を醜い化け物に変えたのだ。
ただ、ショックだった。なんてことをしてしまったのだろうと自分を責めた。責めて責めて…責めた。けれど、どれだけ自分を戒めたところで現実は変わらない。そんな僕に手を差し伸べたのは、彼女だった。彼女の細くて白い腕が僕に伸びて、ゆっくりと僕を甘やかす。だから、甘えてしまったんだ。全部、全部。僕の甘えだった。
「大丈夫。大丈夫だよ…。憂太」
柔らかな、声音。まるで母親が子供を宥めるような、慈愛に満ちた声音。それが、僕の鼓膜を心地よく揺らすのだ。ゆりかごに抱かれたような感覚。微睡む瞼を閉じれば、彼女の規則正しいリズムが染み渡るように広がった。
多分これは僕が都合よく生み出した幻覚なんだろう。幻聴なのだろう。閉じた瞼の裏で、かつての初恋の人が笑っていた。そしてこう言ったんだ。
『幸せになって。憂太…』
その声音は僕の大好きな…鈴の音を転がすような幼い声音だった。
「…好きなんだ。君のことが」
「…」
僕が気持ちを伝えれば、僕を抱きしめていた彼女の腕が少しだけ反応した。心なしか鼓動も早まったように思える。ゆっくりと彼女から離れて覗き込むようにその瞳を見つめた。ゆるゆると潤むそれは僅かな戸惑いと熱を孕んでいて、その熱に浮かされそうになった。
「…私が、好きなの?」
震える彼女の声音。それはか細く今にも消えてしまいそうだ。だからその存在を肯定するように、そうだよ。と言えば彼女は潤む瞳を伏せるのだ。
長いまつげに縁取られた宝石が僕をゆっくりと見上げる。なんて綺麗で、儚くて、愛おしいのだろう。そうはっきりと思えた。
「私…」
「…うん」
「私、もね…」
「……うん」
「憂太が、…好き」
彼女の笑顔は、やっぱり優しくて…。素敵で可愛かった。
その薄い唇に、ゆっくりと自分のそれを近づける。彼女は拒むことをせずそれを受け入れてくれた。
初めて触れるそれは、柔らかくて暖かくて。溶けてしまうんじゃないかと心配になるほどあやふやで、だけど確かにそこにあった。撫でた頬はきめ細かく、肌触りの良い布のような質感を伴っている。いつまでも触れていたい。そう思って、僕は何度も確かめるように指を滑らせた。啄んだ唇の隙間から時折漏れる劣情を孕んだ吐息、それに混ざる彼女の声。それだけが、誰も居ない教室内に響き渡った。


「おはよう皆」
「おー!…なんだ!今日も仲良く夫婦で登校か。やるなぁー」
「しゃけ!」
「朝から暑苦しいってぇの!」
パンダくんも、狗巻くんも、真希さんも。僕達のことを祝福してくれた。なんだかんだ言いつつも、僕と彼女に暖かい眼差しを向けてくれる。
今日も共に教室へやってきた僕達を彼らは茶化しつつ笑顔で迎えた。
「…良かったよ」
「え?」
ぽつり。とパンダくんが言った。僕は彼に視線を向ける。パンダくんの視線は真希さんと笑い合う彼女に向けられていて、僕もゆっくりとそちらに視線を移動させるのだ。
彼女の笑顔。それを見れば、僕の顔も自然と緩んでしまう。
「正直。憂太のこと心配してたんだ。…俺たち」
「…パンダくん」
「里香のことがあったろ…?」
パンダくんの言葉に僕は一瞬目を見開いて、それを静かに伏せた。彼が言いたいことはなんとなく分かっている。里香ちゃんを解呪したばかりの頃の僕は、正直不安定そのものだったから…。彼女を含め、パンダくん達にも沢山心配をかけてしまったと思う。
「…正直。里香ちゃんの事は、忘れられないと思う」
「…そうだろうな」
「でも、僕は彼女が大好きだ。大切にしたいし、これからもずっと一緒に居たいって思う。…どっちも僕の素直な気持ちなんだよね。」
「…いいんじゃ、ないか?憂太は今を生きているんだ。お前がそう思うなら、里香だってきっと…それを理解してくれるさ」
「…うん」
僕はパンダくんに小さく返答するのと同時に、きゅっと胸元を握りしめた。そこにあるのは里香ちゃんからもらったあの指輪だ。
今、僕はあの指輪を指にはめてはいない。当初のようにネックレスのチェーンに通して身につけている。別に彼女に何かを言われたわけじゃないけれど、僕の薬指にそれがあったら嫌な思いをするんじゃないかってそう思ったからだ。
彼女はきっと、嫌じゃないよ。って笑うだろう。けど、昔の思い人の面影がちらつくのは誰だっていい気はしない。僕だってもし彼女の過去の恋人だとか、そんな面影がちらついたら嫉妬してしまう。だから里香ちゃんとの思い出は僕の中だけに閉じ込めておけばいいことだ。この指輪が僕にとって大事なものであることは、僕の中で変わることはない。けれど、これから彼女と作っていくであろう思い出や、身につけるであろうお揃いのものも…僕にとって大事なものになっていく。
過去も今も未来も…僕にとってかけがえのないもの。そうして僕は生きていきたいんだ。大事な人のそばで…。
「憂太」
「何?パンダくん」
「…まぁ。避妊だけはちゃんとしろよ」
「うん……って!!ひ、ひにっ、…!?ぼ、ぼくっ、たち、まだそんなんじゃ…!!」
「いずれそうなるんだろ?…やるなぁ…憂太さん」
「やめてよ!!!」
あまりにも突然の話に、僕は顔を真っ赤にして叫ぶ。
パンダくんはニヤニヤとそれを見ていて、狗巻くんまでもがニヤニヤしてはグッと親指を立ててくるではないか。そんな彼らに、ますます顔の熱が上がっていくのは言わずもがな。
騒いでいた僕達に、真希さんがうるせぇなと一言。その言葉に弾かれて、真希さんに視線を向ければ必然的に彼女が視界に入ってくる。かち合った視線に、僕はさらに顔を赤くさせるしかない。
結局。男女の行き着く先ってやつが、そういうことだって言うのは理解している。けれど、彼女と一緒にいれるだけで僕は楽しいし、嬉しいし、幸せだ。


彼女の小さな手を握って、いろんなところへ行った。オープンしたばかりのカフェ。遊園地に、動物園。そこで彼女が欲しいとねだったお揃いのストラップを買ったんだ。
彼女と初めて持つお揃いのもの。それがなんだかむず痒くて、恥ずかしくて。でもすごく嬉しくて。それをねだった彼女よりも僕の方がはしゃいでしまった。
「あはは。憂太はかわいいね」
彼女はそんな僕を可愛いと言った。そして僕が大好きな柔らかい笑顔を浮かべる。
僕からしたら、彼女の方がずっとずっと可愛い。
買ったばかりのストラップを、愛おしそうに見つめる彼女に僕は目を細めるんだ。
毎日が幸せだった。皆で過ごす日常、彼女と過ごす日常。時折、触れ合うだけのキスをしては見つめ合って、互いに恥ずかしげに笑い合う。ささやかな幸せを紡ぐその中で、その日は突然やってきた。

それはとある休日。彼女が見たいと言った映画を見に行った。話題のラブストーリーだというその映画のワンシーン。それは僕にとって過激な部類に入るシーンだった。それを彼女と見ている。というのが更に拍車をかけていく。チラリと盗み見た隣に座る彼女。彼女もまた、僕を盗み見るような視線を向けていて、心臓が跳ね上がる。薄暗い映画館の中。スクリーンの光が僕達を照らしては、シーンを変えるごとに点滅した。
結局、後半はほとんど頭に入らなかった。あの空間でかち合った彼女の瞳はどこか艶めかしくて、そればかりが僕の脳内を支配していたからだ。
彼女の手を引いて、歩く道は無言。繋がれた手はじとりと汗ばんでいた。それが彼女の熱なのか、僕自身の熱なのか…。それすら分からない程に混じり合っていく。
初めて彼女とキスしたあの日を思い出した。溶けてしまうんじゃないかって心配になる程あやふやで…でも確かにそこにある、熱。
「憂太」
暫くして、なぁに?と聞き返せば、僕の手を握る彼女の握力が少しだけ強まったんだ。それと同時に、僕達の間に確かに存在する熱もその温度を上げた気がした。
「…憂太。あのね」
「…どうしたの?」
「……今日。憂太の部屋いっても、いい?」
「…」
か細い彼女の声音が紡ぐ。僕はそんな彼女の表情を見ることが出来なかった。見てしまえばきっと…僕は彼女を…。
男女が行き着くところ。そんなのは決まっている。その到達地点に着くのが遅いか早いかの違いだ。
僕は一つだけ嘘をついている。本当は…彼女に触れたくてたまらないんだ。この腕で抱きしめて、閉じ込めて、その全てを全部全部僕のものにしたい。健全と言えば健全。年相応の欲求。けれど、それを彼女に向けることが怖かった。
もし、拒絶されたら?もし、彼女を傷つけてしまったら?
僕はきっと、深く絶望してしまうだろう。だから、怖くて…紳士を装っては嘘をついた。
彼女の手が小さく震えている。僕は、大丈夫だよ。と言わんばかりにその手を優しく握り込んだ。
「…いいよ」
「…」
「…僕も、まだ…。君と居たいから」
街は騒がしい。そのはずなのに、その時だけは僕と彼女の声しか聞こえない…そんな静かな世界にいる気がした。

日頃から、整理整頓を心がけていて本当に良かったと思った。彼女の突然の訪問にも、こうして即座に対応出来たのはそのおかげだったから。自身の部屋の電気を点ければ、照らし出されるいつもの自室。だけど、その日は違う部屋のように映るのだ。本棚に、机。小さなテーブルに、小さな衣装ケース。そしてベッド。必要最低限しかないその空間で、僕は今からきっと彼女を抱くだろう。
まるで他人事のような思考だった。それほどに実感がわかない。パタンと静かに扉を閉めて、そこで初めて僕は彼女の顔を見ることが出来た。
赤らんだリンゴのような頬。そして、潤んだ宝石のような瞳。はにかむ口元が小さく形を変え、憂太。と僕の名前を呼んだ。だからそれに返すように彼女の名前を呼ぶ。
瞬間、伏せられた瞳。その視界から僕を失って欲しくなくて、彼女に視線を合わせるように覗き込んでは触れるだけの口づけを落とした。いいの?と聞いた僕に、彼女は小さく頷く。その肯定に、僕は再び彼女に口づける。今度は深く貪るように口づけるのだった。
折角点けた部屋の電気は、再びその明度を失った。頼りなく灯る常夜灯の下、僕がいつも眠るベッドに沈み込むのは、下着姿の彼女だった。僕が震える手で脱がした彼女の衣服が床に散らばるのを横目で確認した後で、再び視線を戻していく。
「ねぇ。本当に、いいの?」
「…うん」
「……僕、怖いんだ」
「何が怖いの?」
「…優しく出来ないかもしれない。君を傷つけてしまうかもしれない。…そう思ったら、怖いんだ。…君に嫌われたくない」
「…私が憂太を嫌いになるなんて、あり得ないよ。…何があっても、私は憂太が大好き」
相変わらずな優しい笑顔。僕を甘やかす、柔らかな笑顔。それが僕を見上げていた。
意を決して、僕は自身の服を脱ぎ捨てる。瞬間現れたのは、服の下に隠すように忍ばせていた指輪だった。ネックレスチェーンが揺れるのと連動して、その小さな銀色が揺れては鈍く光る。
その時、しまった。と思った僕は本当に最低だと思う。最愛だった人からの贈り物を隠すように忍ばせ、それを現在の最愛の人に見られたことにそんな事を思ってしまう自分は…本当に最低だ。一瞬、彼女が目を見開いたのが、薄暗い中でもハッキリ分かってしまって、尚のこと自責の念に駆られるのだ。
「…あ、ご、めん」
「…」
咄嗟にこぼれたのは謝罪。何に対して謝っているのか、『誰』に対して謝っているのか…。今の僕にはそれすら分からない。なんとも情けなく、滑稽な話だ。
「どうして、謝るの?」
けれど、彼女はそんな僕を叱らなかった。責めなかった。ゆっくりと伸ばされた彼女の手が僕の頬を撫でては、受け入れて肯定して…。そうして僕を甘やかしていく。
「何も悪いことしてないのに、謝るのはおかしいことだよ」
「…」
「私憂太が大好き。…だから、貴方が大好きなものも大好きなの」
「……」
「……ねぇ。きて…憂太」
その言葉に救われた僕がいた。そして、その言葉に欲情する僕がいた。まるで綱渡りしているような不安定さの中で、僕は短く呼吸する。肺に取り込んだ酸素が、思考の全てを攫っていく気がした。言葉に、熱に、彼女に、浮かされて…。僕はゆっくりと彼女に覆い被さっては、思うがままに彼女を求めた。それは彼女も同じで、思うがままに僕を欲した。
それ以上でも以下でもない世界。必要最低限の空間。頼りない常夜灯の下。
僕は、彼女を抱いた。


「…大丈夫?」
「…うん」
「……痛くなかった?」
「…うん」
未だ冷めない熱気がこもるその中で、腕の中の彼女に問えば彼女は乱れた呼吸を整えながらそう言った。その延長線上で、気持ちよかった。等と言われては、再び沸き起こる感情を抑えられなくなってしまう。けれど、それは彼女に無理をさせることになる訳で、僕はそれを必死に押し殺した。
「…憂太は、良かった?」
「え、あ。…もちろんだよ!!」
そんな僕の気も知らないで、彼女がそう言うものだから思わず声を張り上げれば、驚いた彼女が僕に向かって丸い視線を送ってくるのだ。
かち合ったそれに、僕は猛烈に恥ずかしさを感じる。今になって、先程まで自分たちがしていた行為に対して羞恥心が湧き上がった。
「…良かった。憂太が、気持ちよくて」
「…」
「私、憂太が喜ぶこと…沢山していきたいって思うの」
彼女はそう言って僕の胸に頬を寄せた。破裂してしまうんじゃないかって程の心臓の音が彼女にばれないよう必死に冷静を装う。
「…僕は君がそばに居てくれるだけで…充分だよ」
優しく髪を撫で、そう言った僕に返ってきたのは…それじゃ駄目。という予想外の言葉。その言葉を紡いだ声音は、驚くほどに冷たくて僕は目を見開くのだ。
ゆっくりと彼女に視線を向ける。彼女もまた僕を見ていた。宝石のような瞳は相変わらずそこにあったが、その輝きは失われている。光を通さないオブシディアンのような双眸だった。思わず呼んだ名前に、彼女はそれを綻ばせるのだ。
「私は貴方に満足してもらいたいの。だから、建前なんて要らない…本音を聞かせて欲しいな?」
「ち、…ッ違うよ!僕は本当に」
そう反論しようとした僕を遮ったのは、紙とペンを所望する彼女の突拍子もない発言だった。困惑した僕に、彼女はもう一度同じ事を言った。渋々辺りを見回せば、手の届くサイドテーブルの上に、メモ帳とペンを見つける。
それに手を伸ばし彼女に手渡せば、ありがとうといつもの笑顔で彼女は笑った。
それらを手に、彼女は上体を起こす。つられて僕もゆっくりと上体を起こして彼女を見れば、その視線は楽しげに笑みを浮かべつつメモ帳に落とされている。
「私ね、絵を描くのが好きなの」
「…」
再び突拍子もなくそう言った彼女に、返す言葉が見当たらない。黙った僕に向けられたのは、にこりと笑った彼女の瞳だった。いつもの彼女。そのはずなのに、何処となく薄気味悪さを孕んだ笑顔に、僕は芯から冷えるような感覚を覚える。そこでハッとした。僕は彼女に対してなんてことを思っているのだ。と。次に見た彼女の笑顔はいつも通りの優しいもので、心底安堵した。
「…絵描くの、好きなんだね。知らなかった」
やっと発せた言葉に彼女は、そうなの!と高めのトーンで返してくる。
「こう見えて結構上手いんだよ?…描いてあげよっか?」
「え?本当?じゃあお願いしようかな?」
僕がそう言えば彼女は嬉しそうに笑った。いいよ!と快諾した後で、じゃあ…と続けたその先。彼女の口から発せられた名前に、僕は再び芯が冷えるのだ。
「里香ちゃん。描いてあげるよ…」
「…え?」
「彼女のこと…知らないの私だけなの。皆は見たんでしょ?里香ちゃんの生前の姿。あの時、私だけ違う場所にいたから…」
彼女はそう言って悲しげに瞳を伏せた。その表情に僕は複雑な感情を抱くのだ。
正直なことを言えば、彼女が里香ちゃんの生前の姿を知る必要はないと思う。冷たい物言いになってしまうが、ちゃんと理由があった。
それを知ることによって、彼女が自分と里香ちゃんを比べてしまうんじゃないかって不安があるからだ。そんなこと絶対にして欲しくない。彼女は気丈に振る舞うだろうが、きっと心のどこかで考えなくて良いことを考えてしまうだろう。里香ちゃんの事は僕だけが良き思い出として知っていればそれでいい…。そう思うのだ。
「私、知りたいなって思うの。貴方が呪うほど好きだった人を。」
「…」
「……里香ちゃんは、どんな顔で笑うの?どんな声で貴方を呼ぶの?」
「…それは…」
「教えてよ」
彼女はそう言って僕に詰め寄った。真っ黒な瞳が映すのは、困惑した僕自身。
君が知る必要なんてないよ。なんて言えるわけがない。僕は唇を噛んだ後で、ゆっくりと里香ちゃんを語る。里香ちゃんを彼女に語るのは、これが二回目だった。
「里香ちゃんは、どんな顔立ち?髪型は?身長は?」
「え…と。目は…二重で…切れ長な感じ…かな?顔立ちは…整ってて…」
「そうなんだね。…それから?」
「あ、えっと…髪型は…長い黒髪」
「なるほど。で、…それから?」
「…あ、いつも、僕を優しく呼ぶんだ。…憂太。って」
「……それから??」
「…あの」
「……ねぇ、憂太。………それから???」
彼女は壊れたロボットのように『それから?』とその先を促した。初めて彼女に責められている気がして僕はいたたまれなくなる。なのに、彼女から視線を逸らせない自分がいた。彼女が走らせるペンの音はガリガリと不協和音を奏で、彼女と共に僕を責めた。
「……ごめん。もうやめよう?」
震える声音で紡ぎつつ、声音同様に震える口元を必死で吊り上げる。必死に作った誤魔化し笑いが、彼女に届くことはない。
彼女は一心不乱にペンを走らせ、ただひたすらに『何か』を描いていた。だから咄嗟に大きな声で名前を呼ぶ。そこでやっと、ペンがその動きを止めたのだ。
「憂太。出来たよ」
彼女はそう言って、ビッと描いた絵をちぎった。ゆっくりと差し出されるそれと同時に、彼女の笑顔が僕を捉える。何故だろう…やはり先程感じた薄気味悪さを感じてしまう。
僕はそれを受け取って目を見開く。困惑を通り越した感情に上手く息が出来なくなった。
手渡されたそこに描かれるのは…黒いワンピースを身にまとった…僕のよく知る里香ちゃん…。
綻んだ目元、美しくも幼い顔立ち、微笑む口元、長く艶やかな黒髪。
まるで写真だった。ペンで描画した絵だとは到底思えないほどのリアルさに、僕はゾッとした。
第一、あれだけの情報でこんなに緻密でリアルな絵を描けることが凄くも恐ろしい話だし、それより何より恐ろしかったのは、そこに描かれた里香ちゃんが、彼女自身の遺影の表情と同じ。って事。
綻んだ目元、美しくも幼い顔立ち、微笑む口元、長く…艶やかな黒髪。
僕はこれらをよく知っている。

…里香ちゃんは、自分のお葬式だというのに写真の中でこんな風に笑っていたんだ。綺麗な花に囲まれ、崩れることのない笑顔を浮かべ続けていた。
お棺の中の彼女自身は、損傷が激しいから…と布でぐるぐると巻かれて、ドライアイスを敷き詰められて…。遺影とは真逆の姿をしているというのに…。
そんな記憶が一気にフラッシュバックして、思わず嘔吐しそうになるのを唇を噛みしめることで耐える。
「…モンタージュ写真みたいでしょ」
僕を引きずり込むような優しい声音にハッとした。似顔絵からゆっくり視線を移した先の彼女はまるで慈愛に満ちた母親のような顔で笑っているのだ。
恐ろしくも、美しく。綺麗で、薄気味悪い。そう表現するのが正しいであろう笑顔。
「モンタージュ、…写真?」
「知らない?…断片的な情報を合成して作る、写真や似顔絵のことだよ」
彼女はそう言いながらベッドを降りると、散らかった下着や自身の衣類を拾い集める。それらを淡々と着込みながら続けた。
「警察が犯罪捜査の時によく使うじゃない…。被害者とか目撃者から犯人の人相聞いて、似顔絵だとかを描くでしょ?…昔に起きた大きな強盗事件…。あの事件の犯人のモンタージュ写真なんかは有名どころだよね」
「…」
「…案外さ、似てるらしいよ。モンタージュの犯人の顔と、実際捕まった犯人の顔。
…すごいよね。見たこともない人をさ、情報だけで再現できるの」
彼女は着替えの最後に、上着を羽織ってはそう言ってにっこり笑う。
「…ねぇ、その里香ちゃんは、似てる?」
「…え……」
「…似てるんだとしたら、とっても綺麗な子だね。」
何も言えずに黙り込んだ僕は、彼女からも視線を逸らす。
僕の一番は君だよ。だとか、君の方が可愛いよ。だとか…。そう言った類いの薄っぺらい言葉は何の意味も持たないだろう。それを理解しているはずなのに、僕の頭の中はそんな薄っぺらでいっぱいだった。
「…ごめん」
「どうして謝るの?」
「…僕は、…きっと里香ちゃんを忘れられないと、思うんだ」
僕が彼女にそう言ったのは、薄っぺらな言葉で取り繕うことをしたくなかったから。彼女にはちゃんと本音を話そうって…そう思ったからだった。頭の中にあふれる薄っぺらを一ずつ消し去って、その中の本当を掻い摘まんでは口にする僕は頭を抱える。彼女は何も言わずにそれを聞いた。
「でもね、僕は君が大好きなんだ。ずっと一緒に居たいし、ずっと大事にしたい。」
「…」
「最低だと思う。こんなの、君も好き里香ちゃんも好き。って言ってるようなものだもんね…。」
「そんなこと、ないよ?」
ぎしり、とスプリングが軋んで、僕の側が沈み込んだ。頭を抱えた腕に触れた暖かさは、彼女の体温だった。ゆっくりと顔を上げれば広がるのは優しい微笑み。見開かれた僕の瞳に揺れた慈愛に、息をのんだ。
「話してくれて、嬉しい」
…」
「言ったでしょ?私は憂太が大好きだから…。貴方の全てが知りたいの。素の貴方でいてほしいの。だって…大好きな人が自分を偽って、我慢して、苦悩する姿なんて見たくないもの」
「…」
「そのためだったら……何だってするよ」
彼女はそう言って僕の頬を撫で、その後で触れるだけの口づけをした。その感触は、初めて彼女とキスをした時と同じだった。
呆気にとられる僕に彼女はふふっと笑った後で、立ち上がる。再び鳴いたスプリングと共に彼女は僕から離れていった。
「今日はありがと…。帰るね?」
「え?…帰っちゃうの?」
帰ると言った彼女に漏れた本音。それに困ったように笑った彼女がごめんね…。と小さく言った。
「…やることが、出来ちゃったから。帰らないと…」
「やること?」
「うん。とっても大事なこと…。憂太にとっても、私にとっても…」
「…」
僕にとっても、彼女にとっても大事なこと。それが何なのかを僕は聞けず…その瞳を静かに伏せる。そんな顔しないで?と僕の頭を数回撫でた彼女の手を握って、帰らないで。と言うことすら出来なかった。

「それじゃあね」
「うん」
「……憂太」
「…どうしたの?」
「……待っててね」
部屋を出る間際、彼女は確かにそう言った。
パタンと閉まった扉。部屋に響く時を刻む音。彼女が残していった香り。そして未だに湿り気を伴う寝具。そして、僕。それだけが残った空間。
その中に取り残された僕の脳内に反響したのは、彼女の待っててね。という言葉だった。
何を待てというのだろう。その真意にこの時気づけていれば…と。今になってそう思わずにはいられないのだ。


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