ポチは思います。とても幸せだと。
何故なら彼が褒めてくれるからです。
ポチは思います。自分はダメな奴だと。
何故なら彼が怒るからです。
ポチは思います。良い子にならなくてはと。
何故なら捨てられてしまうからです。

捨てられてしまえば、ポチはポチで無くなります。
ただの汚い野良犬になってしまいます。
彼がつけてけてくれた名前も、お気に入りの首輪もリードもなくなって、彼のものではなくなってしまいます。

だからポチは頑張ります。
もっと褒めて貰えるように、もっといい子になります。
もっと、もっともっともっと…もっといい子になります。


「ねぇ、僕がえいちゃんを殺したら…。君は僕のものになってくれるの?」

ポチの耳にそんな言葉が聞こえました。
ポチは言います。

「…えいちゃんを殺したら、私が貴方を殺すよ」

……ゆーたくん。

ポチは笑っていました。何処までも笑顔でそう言いました。




彼女の名前は【ポチ】
何故なら、えいちゃんがそう呼ぶからです。



ポチ。



その日は今にも泣き出しそうな曇天だった。
東京の街は今日も忙しく、それぞれが営みを繰り広げてはその騒がしさが街を通り抜けていく。
呪術高専に通う乙骨憂太は、クラスメイトである禪院真希と狗巻棘の二人とその街の中にいた。
久々の皆揃っての休日。その日に映画に行こう!と言ったのは真希だった。
同じクラスメイトであるパンダは、見た目がパンダの為お留守番。
俺も行きたい…。とイジけるパンダに、お土産買ってくるから。とフォローを入れつつ三人で高専を出た。
映画館へ足を進める三人は何気ない日常会話に花を咲かせつつ、人混みの中を行く。行き交う人は皆、忙しくせかせかとしていた。
それもそのはず、三人は休日だが世は平日。
それにしても東京は平日でも人がいっぱいだ…。と憂太はそんな事を思うのだった。

「なんだか、平日に映画を見に行くって…悪いことしてるみたいでドキドキするね」
「は?何言ってんだお前。小学生かよ」
「ツナマヨ!」

そんな会話をしていれば、憂太の肩が道行く人にぶつかった。憂太はすみません!とペコペコ会釈したが、その相手はさして気にもとめずスタスタと人混みに消えていく。
憂太は未だ急かしい東京に慣れていない部分があった。既に数歩先の真希達に呼ばれ、憂太は慌てて踵を翻した。

「…あれ?…あれぇ!!!?」
「…んだよ」
「明太子?」
目的の映画館に着き、いざチケットを買おうという時に憂太の素っ頓狂な声が響き渡る。
何故なら、ズボンの後ろのポケットに入れて置いた財布が無いからだ。
「さ、財布、財布がない」
「……はぁ!?落としたのか!?」
「高菜!」
「わ、わかんない…。ええーどうしよう」
憂太はあせあせと他を探ってみるが、財布はどこにもない。真希は盛大な溜息をつき、棘は憂太と一緒になって焦っては財布を探さんとキョロキョロ辺りを見回した。
最悪だ…。憂太がガックリ肩を落としたその時だった。その肩がちょんちょんと突っつかれる。
え?と憂太が振り返ったその先には…見知らぬ少女が一人。

何処かの高校生なのだろう。着崩した制服を纏い、人工的に染められた明るい長い髪を巻き髪にし。
バッチリ施されたメイクに、耳元に光るのは派手なピアス。
カラーコンタクトを装着してるのであろうか、瞳は髪と同じハニーブラウンだった。
憂太より背の低いその瞳が、じっと彼を見上げている。

「あ、えっと」

勿論憂太は面識などない。そう思って困った様に声をあげれば、その少女はニコリと笑ってとあるものを差し出した。
綺麗に装飾されたネイルが眩しいその指が持っているもの…それは、憂太の財布だった。

「…これ、貴方のでしょ?落としましたよ」
「……あ!は、はい!ぼ、僕の財布です!!」

憂太はそれを受け取ると、ヘナヘナと肩の力が抜けていった。

「あ、ありがとうござます!もしかして、追いかけてきてくれたんですか?」
「うん。貴方のポッケから落ちたの見えたから。拾って追いかけました」
「ありがとうございます!助かりましたぁ…」

眉を下げて笑った憂太に、少女もニコリと笑った。
こんな派手な見た目の子が……人は見かけに寄らない。なんて…憂太はそんな事を思いつつ、もう一度お礼をしようと口を開こうとしたその時だ。

「ねぇーーまだぁ??おっそいよ!!」
「あ、ごめんね。ちゃこちゃん」
「…早くしろって」
「なぁちゃんも、ごめんてー。今行くからー」

友達なのだろうか。同じ様な系統の女子数人が細い眉を寄せて、声を大にしてその少女を呼んでいた。
少女は、そのまま踵を翻すと巻き髪を靡かせて人混みに消える。
憂太は唖然とその姿を見送って、ハッとした。
ちゃんとしたお礼…出来てないのに。
そう思っては、渡された財布に視線を落とすのだった。

結局。少女の名前すら知ることは出来なかった。憂太は自身の財布を見る度にそんな事を思ってはため息をつく。
しばらく経ってもそんな様子の憂太の頭を小突いたのは真希だった。
「いたっ…。あ、真希さん」
「何で、ここんとこずっとため息ついてんだよ」
「あ、いや。」
「あれか?この間の財布ギャル…」

財布ギャル。その言葉に即座に反応を示すのは、あの日その場に居なかったパンダ。
目を光らせ真希と憂太に詰め寄ると、なんの事だ?と食い気味に聞いてくる。
真希が事のあらましを簡潔に話せばパンダは、おー。と感嘆の声を上げつつ憂太に視線を向けた。

「何だ憂太さん。恋か」
「ち、違うよ!…財布拾ってくれたのに、ちゃんとお礼できなかったし…。せめて名前くらい聞けばよかったなって」
「成程。…恋だな」
「だから違うってば!」
パンダは憂太の話を全く聞いておらず、とにかくそこに繋げたいようだ。
憂太はそんなパンダに呆れつつも、再びため息をついてはあの少女を思い出す。

「ま、あれだ。運命ってやつがあるとするなら、また会えるかもな」
「…パンダ。お前パンダのくせに何言ってんだよ。気持ちわりぃ」
「言い方酷いな真希」

そんなクラスメイトの会話が憂太の鼓膜を通り抜けていった。

その日。憂太は任務で帰りが遅くなってしまった。
時刻はもうすぐ明日を迎えようとしている。
補助監督である新田の車に揺られ、憂太はお腹減ったなぁ。と呑気なことを思っていた。
そんな彼がふと見つけたのは、二十四時間営業のファストフード店だった。
「新田さん。」
「はーい。なんスかー?」
「あそこのファストフード店寄ってくれません?お腹減っちゃって…。新田さんも良かったら何か食べませんか?僕奢りますんで」
「え!?マジっすか!?いえーい!!……あ、すんません。」
「あはは。気にしないで下さい」
新田が運転する車が、ファストフード店の駐車場へと進む。中で買ってきちゃいますね。と笑った憂太は車から降りると店内へ足を踏み入れた。
深夜帯だというのに、客がそれなりに入ったそこで憂太は見知った人物を見つけた。
窓際の席に座り、イヤホンをつけスマホを食い入るように見つめるその姿。
それはあの財布ギャルだった。
明るいハニーブラウンの髪。装飾された爪。
あの日と違うのは、スッピンで制服姿ではないということ…。
憂太はメニュー表の看板に向けていた足を、すぐさまそちらに変更する。

「あ、あの!」
「…」

思い切って声をかけた憂太に少女は気づいたようで、ゆっくりとイヤホンを取ると再び憂太を見上げた。あの日同様の瞳が、憂太をじっと見上げる。
琥珀のようなその色がぱちぱちと瞬きを繰り返せば、憂太の心臓が大きく跳ねた。
殆ど勢いで声をかけたはいいが、その後何を言って良いかが分からない。
憂太は、えーと、えーと。をしどろもどろに繰り返し、意を決したように深呼吸した後で口を開く。

「…僕のこと、覚えてますか?」
「……えっと、」
「財布、…君に財布拾ってもらった」
「……さいふ。あ、思い出した!あの時のお兄さん」

最初こそ困った様に眉を下げていた少女だったが、財布という単語に思い出したのだろう。
そう言って声を上げると、ニコリと微笑んだ。
憂太は、思い出してくれて良かった。と胸をなでおろしつつ、続きを口にする。

「そ、そうです!良かった思い出してくれて。あの時はありがとうございました。」
「いえいえ。お財布落としたらお兄さん困ると思って、気づいたら追いかけてただけだし」
少女はへへっと笑ってそう言った。ふにゃりと綻んだその顔。あの時は化粧のせいで大人びて見えたが、年相応のあどけなさが残っている。
憂太は、あんなに化粧をしなくても充分可愛いのにな。なんて事を思った。
そこでハッとする。何を考えてるんだ、僕は。と心の中で頭を横に振りつつ、それを悟られないよう少女に表情と同じ様に顔を綻ばせて誤魔化した。

「ちゃんとお礼出来なかったから…また会えて良かった」
「お礼なんて要らないよ!だって、私が好きでやった事だもん」
「いや、ちゃんとお礼させて欲しいんだ」

憂太がそう言えば、少女は目をぱちくりさせて小首を傾げる。そこで憂太は再びハッとするのだ。これじゃあそれに託けてナンパしてるみたいじゃないか。と…。

「あ、えっと!違うよ?あの、ナンパとかじゃなくて、本当にお礼を言いたいだけで、その…」
あせあせと弁明する憂太を暫く見ていた少女は、あはは!と屈託のない笑顔で声を出して笑う。その後で、自分のスマホを憂太の前でチラつかせた。

「お兄さん連絡先」
「…へ?」
「面白いから連絡先こーかんしよ。お礼してくれるんでしょ?」
「え?…へ?…は?」

突然の事に、憂太は理解が追いつかない。
連絡先を教えてくれ。だなんて女の子から言われたことの無い憂太は、どうして良いか分からず同じ言葉を繰り返した。
だが、目の前の少女はそんな憂太を他所にニコニコと笑ってはその屈託のない表情を向けている。

「ばんごー教えてよ。ばんごー」
「え?は、はい?あ、えっと…」
憂太は気づけば自分の番号を告げていた。少女は器用にスマホをスワイプしその番号を入力すると、次に名前を催促してくる。
「あ、名前…。僕、乙骨憂太…です」
「おっこつ、ゆーたくん。…え、おっこつって名字めっちゃ珍しくない?やばーい。漢字わかんないから、ひらがなでとーろくしよー」
少女はケラケラ笑いつつ憂太の連絡先を登録すると
、早速憂太に電話をかける。
ポケットに入れたスマホが鳴ったことに驚いた憂太は、びくりと肩を震わせてそれを取りだし画面を見た。
「それ、私のばんごー。よろしくね!ゆーたくん」
「え、あ、はい。」
こういう事に慣れているのだろうか。少女はあっけらかんとそう言った。一分と経たず終了した連絡先の交換に憂太はスマホを握りしめたまま呆然とするしかない。
そうだ。名前…。と憂太は一番聞きたかった事を思い出した。この少女の名前…それを聞こうと聞こうと口を開いた瞬間、少女が持つスマホが着信を告げるのだ。
少女はスマホの画面に視線を向けそれを輝かせると、待ってましたと言わんばかりに食い気味に電話に出る。

「えいちゃん!!」

そう言った少女のワントーン高い声が店内にこだました。

「終わったの?うん、うん。えいちゃんのとこ、かえってもいいの?…うん!いい子に待ってた!!じゃあかえるね!急いでかえる!!」

少女は嬉しさからか早口でそう言って輝いた顔のまま電話を切ると、荷物を持って立ち上がる。
彼女が立ち上がるのと同時に、憂太は小さく驚いて声を上げた。瞬間かち合った少女の瞳はやはり綺麗なハニーブラウンで、より一層輝いて見える。
「ゆーたくん!またね」
「あ、」

少女はそう言って小さく手を振ると、そのまま一歩を踏み出した。
「あ、あの!!」
それを止めたのは言わずもがな憂太で、少女ははたと足を止めると振り返る。
「…なまえ…。名前教えてよ!」
何とか口に出来た、憂太が一番聞きたかったこと。少女はキョトンとした瞳を数回瞬きさせた後で綻ばせる。

「…ポチ!」
「………へ?」
「私、…ポチ!」

ポチ。彼女は確かにそう言った。呆気に取られる憂太に、ヒラヒラと手を振った少女は颯爽と店を後にして去っていく。

「……ぽち?」

少女のあだ名なのだろうか。まるで犬の名前のようなそれを復唱する憂太の声がぽつりとその場に小さく響いては消える。
同時に憂太の脳裏を過ぎったのはいつぞやにパンダが言った、運命ってやつがあるとするならまた会えるだろうな。というパンダらしかぬ台詞の一端だった。

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