「名前」

突然彼女の声色が変わった。

「貴方の名前が知りたいです」

予想外の言葉に、俺は一瞬思考が停止した。名前? どうして名前なんて。もし通報できる隙があったら、そのとき犯人の情報を伝えるため? だとしたら本名は当然教えられない。まあ通報される隙を作るなんてヘマ、俺はしないけど。ただでさえこうやって閉じ込められ、計画は俺のせいで倒れてしまいそうなのだ。それなのに、首謀が政府で、まだ若い一軍人である俺の名前が犯罪者であると広く知れたりしたら。その先の想像をするとゾッとした。軍をクビになるくらいならまだいい。命さえ危険になるかもしれない。

「悪いけど、それは教えられないね」

俺がそう言うと、彼女はあからさまに悲しそうな顔をした。もしかしたら何の気もなく、本当にただ俺の名前が知りたかったのかもしれない。だとしたら少し可哀想だろうか。

「どうしてもですか?」
「どうしてもだ」

残念そうに肩を落とす彼女はどう見ても年相応の女の子で、さっき俺に応戦しようとした果敢で無謀なお嬢様だとは到底思えなかった。そういえば、あの時の彼女の技のキレはなかなか良かった。もしかしたらある程度の武術を習っていたのかもしれない。護身用か、それとも――――とまで考えて、俺は首を振った。馬鹿か、そんなことはどうだっていい。彼女がどんな人間だろうが構わない、拐えれば俺の任務は完了なのだ。

「あ、なら、私の名前、」
「知ってるよ?名字さんちの名前ちゃんだろ」

ターゲットの名前くらい調べてるに決まってるでしょ。俺が言うと、明るくなりかけた彼女の表情はまた少し陰ってしまって、何だかやっぱり申し訳ないなと思った。焦りと苛つきに蝕まれている俺は楽しい話題なんて思い付かない。きっと笑えば可愛いんだろう、そう思った、でも誘拐犯と二人きりで笑えるなんて、そっちの方がどうかしてるかな。

「ねえ、君のこと、名前ちゃんって呼んでもいい?」

気休め程度に問いかけたら、彼女は一瞬ぽかんとして、それから、 「はい」 と言って頷いた。それも、すごくいい笑顔で。俺は目を疑った。



*



問題が発覚したのは今から1週間ほど前のことだ。政府の会議後抜け出した名字国務長官が、こそこそと怪しい動きをしていて、隠密隊が調査を行なった結果、名字氏が企てている政府乗っ取り計画が明らかになった。どうやら彼は、自分が政権を握るために現在の首相と副首相の暗殺、そして彼らにつく与党の陥落を目論んでいるらしい。もちろんそんなことをされたら、国が混乱に陥るのは目に見えている。荒々しいやり方ではあるものの、これは大変重要な任務だった。名字氏を確実に失脚させる為に、彼の実の娘のこの少女が必要であった。

「寒い……」

彼女がぽつりと呟くので、俺は普段彼女が眠りにつくであろうベッドから毛布を引っ張り出してきて、そっとかけてやった。こんな状況なのに、長年からの癖は現れるらしい。そろそろフェミニストも卒業しないと、と思っていた時、斜め後ろで彼女が独り言のように言った。

「扉のロックの解除ナンバーは知らないけれど、もう一つの出口なら知っています」

俺が振り返ると、彼女は俺を見つめ返してきた。

「ここから私を連れ出すと約束して下さるのなら、貴方に出口の場所を教えましょう」


20110307 mitsui


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