その日は久しぶりに天気が悪く、傘を持って出てこなかった私は降り出す前に帰りたくて、カバンを脇に抱えいつもの道を急いでいたのだけど、やっと半分というところでぽつぽつと地面が濡れはじめた。湿気に弱い髪の毛をかばいながら走って走って、なんとか玄関前までたどり着いた時、雨はもう土砂降りになっていた。額にはりついていた前髪を剥がし、乱れた息を整えながら、暗い色の空を見上げる。 今私がもたれている金属の扉は、多分今日も鍵なしには開かない。私が小学生だったころから、扉の横の壁に掛かっているこども110番のプレートは今や廃れていて、もしほんとに不審者に追われた子供が私の家に駆け込もうとしたらどうなるか、と考えたらぞわりとしたので、私はぐっと手を伸ばしてプレートをひっつかんだ。これのせいで犯罪が起こった、なんてことになったらたまったもんじゃない。

「ん?」

プレートを握りしめたまま、私は動きを止めた。……隣の家の扉の前に、誰かが座り込んでいる。ここは一応高級住宅街で、私の家も隣の家も大きいため、玄関と玄関が近いわけじゃない。だけど私は、座り込んでいる人物に見憶えがあった。幼い頃よく一緒に遊んだ男の子。お隣のカルスさんちの一人息子。

「……ミストレー、ネ?」

ざあざあと雨が降り続いている。
自分の家の敷地内に入ってきた私に気付いたらしく、彼は顔を上げる。最後に彼を見たのは小学校の卒業式だから、実に4年ぶりの再会だった。一瞬、私のことなんか忘れてるんじゃないかと不安になったけれど、どうやらそんなことはなかったようで、薄い唇を開いたミストレは 「ああ、久しぶりだね、なまえ」 と抑揚のない声で言った。髪の毛からぽたぽたと水滴がしたたっていて、それがきっちり着込まれている軍服に染みをつくっていた。私は何故だかその光景に数秒目を奪われてしまう。

「悪いんだけど、君の家に入れてくれない?雨ひどくなりそうだけど、家の鍵持ってなくて」
「留守なの?」
「みたいだ」
「そう。……いいよ、上がってって」
「ありがとう」

すっくと立ち上がったミストレは私よりずっと背が高くてびっくりした。半分くらい放心状態の私に 「どうしたの?」 なんて訊ねてくる声も男の子っぽく、掠れていて、思わずどきっとしてしまう。――ミストレって、こういう感じだったっけ。4年前の記憶を引っ張り出そうとしてみたけど、思い出したのはもっと前の、幼稚園くらいのときのことばかりで、あんまり役には立たなかった。 あの頃は楽しかったんだけどなあ。中学が別々になってからは、家が隣だっていうのに顔すら見ないようになってしまって。ミストレのご両親は政府の関係者だから、お金持ちの家の娘ということ以外は凡人と変わりない私を、あんまり良くは思っていないみたいだったし、士官学校で本格的に戦闘教練をはじめたミストレに近づけたくなかったのかもしれない。

「お邪魔します」
「今親いないよ?」
「わかってるよ。礼儀礼儀」
「礼儀……」
「なんだいその顔は」

私だけではあまりに広すぎるリビングに、ミストレひとり足されたところでなんの圧迫感もない。ただでかいだけのこの家で私は、ぽつんと寂しく生活をしている。……いや、やっぱり寂しいというのは取り消し。別に親なんか好きでもないし、家に帰った時いてくれなくていい。部屋が散らかったらお手伝いさんを呼べばいいし、私はひとりでも満ち足りた人生を送ってる。無理矢理入れられた私立の学校は面白くともなんともないけれど、それももうあと2年を切った。

「相変わらず色気がないね君の部屋は」
「シンプルって言え」
「殺風景」
「ミストレうざ」
「はは」

箪笥からタオルを2枚引っ張り出して、1枚を後ろにいるミストレに投げた。濡れた髪を挟んでぱたぱたと叩きながら振り返ったら、思いの外すぐ傍にミストレが立っていて、思わず肩がびくりと跳ねた。

「ち、近っ!びびった、なに」
「いいニオイするなーと思って」
「はっ?」

何だか鋭い目をしたミストレにそのままどんどん間合いを詰められ、背中が箪笥にぶつかって痛みを感じたとき、私はやっと危機を感じた。いくら幼なじみといえども、私もミストレももう高校生で、16で、家に上げるだけならまだしも、部屋に入れたりするべきじゃなかったんだ。宜しくない想像が脳をいっぱいにしたせいで、今日習った公式が全部追い出された。

「ひゃわっ」

耳に触れたミストレの手のひらが冷たくて、びっくりしてそんな声が出た。眼前に迫ってきているのはミストレなのに、何故か知らない人みたいに見えて、鳥肌が立った。

「み、みみみみみミストレ待って」
「やだね」

ごつん、と額がぶつけられた衝撃で、後ろの箪笥でも頭を打った。 「……いったぁ……」 目がチカチカして、髪が触れるほどすぐ近くにいるミストレが少し笑っていることに気付くのが遅れた。……この顔には見覚えがあった。親のために勉強も何もかも真面目に取り組んでいたミストレは幼い頃、私にだけこの顔を見せていた。年相応の悪戯っ子のような、無邪気な笑顔。現在の年齢でこの顔をするということは――、まあ、つまり私をからかって遊んでいたわけだ。

「なまえはお子様だね」
「……うるさい」
「期待した?」
「してない」
「した癖に」
「してないよ!大体何期待すんの」
「え、キス?」

照れもせず言われ、私の方がかっと頬を染めた。急に何言うんだこいつと思った。私の中にいたあの頃のミストレのイメージが勢いよく流れていく。ミストレってずっとこんな感じだったっけ、私の大好きなミストレはこんな男だったっけ? 違うよね。 なまえちゃん、大きくなったら結婚しようね、約束ね、って、言ってたあのミストレーネじゃない、よね、この男は。

「なまえ、ねぇ聞いてる?」
「あ、あなた誰なのよ、私あなたなんか知らない!」
「誰ってミストレーネだけど。君から声かけてきたのに今更何」
「だっ、だって私の知ってるミストレーネはこんな男じゃないもん!もっとこう……王子さまみたいな人だもん!」
「今も十分王子様だろ」
「なっナルシストきめえ!」
「女の子がきめえとか言わない。あと俺ナルシストじゃなくて自愛主義者だから」

どっちも同じよ、と言いたかったのだけど、肩に置かれていた手がするりと滑って私の両手首を拘束したのでそれどころではなかった。ミストレの綺麗な色の目にアップで私が映り込んでいる。唇と唇との距離が狭まってきても、私に逃げ場なんてなくて、目を逸らすことさえも出来なくて。

「……あのね、怯えすぎ。嫌なの?」
「嫌」
「即答ですか」
「当たり前でしょ」
「何で?ミストレーネだよって言ってんのに」
「そういう問題じゃないよ」
「じゃあ何?彼氏いんの?ぶっ飛ばす」
「ぶっ……!?い、いないよ彼氏なんか」
「だよねなまえモテなさそうだし」
「おいぶっ飛ばすぞ」

私がきっと睨むと、ミストレはくつくつと喉を鳴らして笑った。明らかに馬鹿にされている。私は悔しくてミストレのすねを蹴りつけてみたけれど、どうやら逆効果だったようで、うっすら怒りを込めた頭突きを食らった。また後頭部を箪笥にぶつけた。くそっこれ以上勉強出来なくなったらどうしてくれるんだ。

「ミストレのアホ」
「何が気に食わないんだよ君は」
「全部」
「それじゃわかんないね」

しれっとしているミストレに余計腹が立って、私は顔をしかめた。賢いのは知ってるけれど、この人は馬鹿だと思った。強引に迫る前に女心を勉強してこいってんだ。

「いいから離してよもう、」
「あ、わかった。……4年も放置したから拗ねてるんだろ」
「……! ち、ちが」
「図星か」

ミストレがにやりと笑うと、全身が粟立った。名のある美術品みたいな、端整な顔をしてる癖に、考えることが釣り合ってなさすぎる。ずるくて意地の悪い人だ。私はいつの間にか自由になっていた手で彼の服を掴む。 「ちょっと顎上げて」 ミストレの声はまるで呪文みたいで、私は逆らえない。細い指がゆっくりと輪郭をなぞるから、無意識に唇を少し開いたら、 「いい子」 と言われて、それから、噛み付くようなキスをひとつ、ふたつ。

「ミ、ス……っ、んぅ」

愉快そうにくるくると動き回る舌に翻弄されながら、どうして彼はこの雨の中帰ってきていたんだろうと、はじめに思うべきだったことを考えていた。数年前から止まったままだった私たちは、今からでもまだ空いた時間分を取り戻せるだろう、か。



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