引き分けドロー | ナノ
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いつか遠い未来で  




 黒い墨を筆にたっぷりと染み込ませ、雪原のような白い紙を塗りつぶしていく。滑らかに動いたかと思えば、それは突如止まり。筋張った大きな手のひらがそれをぐしゃぐしゃにして、ゴミ箱に捨てる。それが、何度も幾度となく繰り返され。箱の中はクシャクシャに丸められた紙の塊ばかりが溜まっていく。それを眺めて、ため息をついた。
 目を瞑る。まぶたの裏には、ぼんやりとした人影しか浮かび上がらない。花のように愛らしいと思ったあの笑顔は白いモヤに隠されており、こちらから顔を伺うことが出来ない。その事実に苛立ちを覚え、宇髄は奥歯をかみ締めた。
 人は2度死ぬと聞く。1度は肉体的な死、2度目の死は人の記憶から忘れ去られた時だ。
 まず最初は鈴のように凛とした声だった。どんな声色をしていたのか、どのような声で宇髄の名を呼んでいたか、どんな声して笑っていたのか、記憶から抜けていった。それを自覚してからは早かった。彼女がどんな顔をしていたのか、どんな背格好をしていたのか、撫でた頭の感触、触れた指の熱、共に食べたふぐ刺しの味。全てが思い出せない。宇髄の中で唯一残っている記憶は、春の甘やかな香りだけだ。
 その香りを頼りに、筆をとる。何度も何度も彼女を思い描こうとするが、上手く形にならず、手は止まる。違う、こうじゃない。違う。これも違う。それも違う。白い紙に浮かんだ絵を見ては、首を横に振ってそれを丸めて捨てる。その繰り返しで出来上がったのが、こんもりと盛り上がった白い山だ。

「名前…」

 新しい紙を用意して、それに額を乗せる。
 人の死には慣れている。いつも通りの明日が来るなんて保証はない。いつ自分が死んでも、昨日笑いあった仲間が死んでも、おかしくはない。それは、名前も例外ではない。互いにその立場に身を置いていたのはしっかりと認識している。
 それでも、この胸に広がる後悔は何なのだろう。もっとああしておけば良かった、こうしておけば良かった、なんて。後悔するような生き方はしていないはずだった。それでも、"いつか"なんて甘い期待を抱いていた自分に反吐が出る。その"いつか"が訪れる保証こそあるはずもなかったのに。
 名前は鬼の討伐に向かい、そこで死んだ。鬼に襲われていた女性を救い、自分を犠牲にして共に戦う仲間を逃がしたと聞いた。朝日が登ったあと、逃げた仲間がその場に向かうと食い散らかされた跡が残っていたらしい。そこには、名前がいつも持ち歩いていた画材が落ちており、何も描かれていない白い紙は彼女の血によって真っ赤に染め上げられていたのだと。彼女が可愛がっていた鴉は震える声で教えてくれた。

「悪い、名前」

 名前の絵を描くと約束した。だが、いざ筆をとってみたら、この体たらくだ。下手くそでしょ、とカラコロと笑う声さえも遠い。何も描かれていない真っ白なキャンパスは、下手くそ以下だろう。彼女に笑われても仕方のないことだ。

「1枚ぐらい残していけよ」
 
 名前の描いた絵には、名前自身の姿は全く見受けられなかった。理解し難い芸術でも、1枚でも残っていればその名残を追いかけてこの筆を走らせることが出来たかもしれないのに。約束さえも守れない。約束を守らせてくれやしない。甘ったれた期待は容赦なく裏切られた。ひっそりと育て上げていた感情は、名前をつける前に腐り落ちてしまった。
 3人の嫁が気遣うように声をかけてくれる。好物を用意して、笑顔を浮かべてくれる。その目元が赤くなっているのを見て、彼女たちも、自分自身も随分ときちんとした人間らしくなったものだと何故か笑みが零れた。それを、人は自嘲というのだろう。最後の最後に宇髄だけでなく嫁達にまで厄介事を残してくれたものだ。今すぐにでも元凶に噛み付いてやりたい。なんてことをしてくれたんだって。
 目を閉ざせば、いつだって会えた。目を開けても、すぐそばにいた。でも、今はどう足掻いても、彼女の姿を確認する術は持っていない。その事に絶望しながらも、宇髄は全てのことから目を背けるように瞼を下ろした。





「先生ー、せんせえー、ねえ、先生ってば!もーう!起きてます?」

 ハッと目を覚ます。意識が一気に覚醒した。すると、目の前にはこちらを上目遣いで覗き込む少女の姿があった。少し大きめなセーターと、程よく緩められたネクタイ。スカートの丈は長すぎることなく、また短すぎることも無い。その白い頬には青色のインクが引っ付いており、それを認知した宇髄の体は勝手に動き出していた。

「わわっ!先生、なんですか!」
「ついてんぞ」
「うぇ!?いつ!?」
「さっきだろ」
「ええっ、なんでだろ?」

 指でインクを拭ってやる。事情を知った彼女はされるがままだ。先程の騒がしさを何処かに落としたかのように、すんっと静かになった。
 そして、そこでようやく我に返る。宇髄はこの学校の美術を担当する教師だ。そして、今まさにその美術の時間で、今日は生徒同士で向かい合い互いを模写するという内容で進めていたはずだ。しかし、この日体調不良で生徒の中で1名休みが出ていた。その彼の隣が今目の前にいる女子生徒、苗字名前であった。隣のいない名前はぽつりと1人取り残されることになり、宇髄は休んだ生徒の穴埋めとして彼女の横の席に座り込んだのだ。
 しかし、宇髄は舐めていた。芸術は爆発だとのたまい美術室を爆発したことのある彼でさえも、名前の美術のセンスはあまりにも特異すぎた。大なり小なり下手くそだとしても、対象の面影は残っているはずだ。しかし、彼女の絵にはそれがない。もはやなにが描かれているのか、見ても把握できないのだ。これも一種の芸術といえば聞こえはいいが、ただただ彼女の絵はその芸術を飛び抜けていて、絵とは表現しがたい別個体として認識されるほどのものであった。要は、下手くそを上回る下手っぷりというわけだ。
 一応教師である宇髄でさえも、褒めて伸ばす論で行こうとしたが言葉をなくした。何も言えないで、ようやく紡げた言葉が「これ、何?」であった。彼女は無垢な顔して「先生!」と言った。この世のものとして認識不可なこの物体を自分であると告げられた衝撃により、宇髄の意識ははるか遠くへと飛ばされ、今ようやくここに戻ってこれた。随分と長い旅であったような気がする。

「派手にパンチの効いた絵だな」
「そ、そうかな、へへへ」
「褒めてねえよ」

 長い旅の末、宇髄は諦めた。無理に褒め称えるのはやめた。この絵をありのままに受け入れることにしたのだ。

「ええ!?」
「当たり前だろうが!俺がこのへんてこりんな地味な物体だと!?」
「へんてこりんって何さ!どっからどう見ても輩先生じゃん!」
「どっからどう見ても歪な形をしたおむすびだわ!!お前から見た俺はどうなってんだ!!」

 ぶすっと名前の唇が尖る。明らかに拗ねている。だが、宇髄も自分の名誉のために引く訳にはいかなかった。こんな化け物扱いされてたまるか!という反発心である。

「そういう先生はどうなの?私の事かけたの?」
「あ?」

 そこで、宇髄は手元にあるクロッキー帳に気づいた。どうやら意識を飛ばす前に描いていたらしい。もう既に描きあげているようで、宇髄はそれを名前に見せてやった。それを見た瞬間、名前はパアッと顔を明るくした。

「うわあ!凄い!先生ってやっぱりこれでも美術の先生なんだ!」
「これでもってなんだよ」
「そのまんまの意味!」
「いい神経してんなあ、お前」

 宇髄がみせた絵。それは、大口開けて心底幸せそうに笑う名前の姿を描いた絵であった。鉛筆だけを使用したモノクロの絵だが、一つ一つの線の描き方にこだわりがあり、立体感がある。今にもこの絵から彼女の笑い声が聞こえてきそうであった。

「先生から見た私ってこんな感じなんだあ」

 名前はニカッと笑う。丸い頬は桃色に染まり、まるで果実のようであった。その笑顔は、宇髄の描いた絵と同じもので。何処かざらついた心がすうっと凪いだような気がした。そして、じわじわと温かな熱を灯し始める。そんな状態に陥った宇髄は彼女の言葉に何も返すことができなかった。

「ねえ、先生、また私の事描いてくださいよ!」
「……お前の絵が少しでも上達したらな」
「ええ!?これ以上……?鬼才が生まれますよ」
「どの口が言ってんだ」
「むむっ!それならば仕方ないですね!宇髄先生に私の実力を認めさせるために、毎日絵を見せに来ますね!」
「派手に迷惑だ」
「むきーっ!!」
「でも、」

 宇髄の手が名前の手の中にある1枚の紙を攫っていく。

「俺はお前の絵、派手で好きだがな」





 目を覚ます。急激に意識が上がっていく感覚に、宇髄は勢いよく体を起こした。どうやら少しうたた寝をしていたらしい。元忍びとしての習性が染み付いているからか、宇髄は寝落ちなどしたことはない。だというのに、しばらくの間意識がなかった。つまりはそういうことだ。その事実に宇髄はため息をこぼした。
 それにしては、随分と長い夢を見ていた。内容は覚えていない。ただ不思議と胸が満たされたような気がした。宇髄は無意識に辺りを見渡すが、そこは何の代わり映えもしない見慣れた自室の風景があった。そのことに安堵したのか、失望したのか。その答えは分からない。

「あ?」

 そして、ふと手元に視線を止めた。切れ長の瞳が大きく見開かれる。意識を失う前、宇髄は白紙と筆を手元に置いていたはずだ。それなのに、何故だろうか。何も描かれているはずのないまっさらな紙に、花が咲いていた。

「名前……」

 震えた手で紙を拾い上げる。底抜けに幸せそうに笑う顔。宇髄が平和丸出しだと揶揄した、名前の笑顔がそこにはあった。黒のインクでしか描かれていないが、色などなくともその笑顔は実に華やかで愛らしく見えた。きゅうっと胸が音を鳴らす。これだ、と宇髄の本能が叫んでいる。何度描いても朧気な記憶と一致しなかった彼女の姿が、今目の前にあった。

「名前……」

 紙に額を合わせる。ふわりと花の甘い香りがした。間違いない。この香りは、彼女のものだ。隣にいる時、その姿を真正面に捉えた時、その笑顔を目の当たりにした時、震える手でそっと彼女に触れた時。風がこの香りを宇髄の元に届けてくれた。
 ぽつり、ぽつり、と紙に幾つかのシミができる。丸いそれは、何処かしょっぱかった。彼女がいつかともに行こうと話していた、海の味とやらもこれなのかもしれない。

「好きだ、好きなんだ……」

 今やっと気づいた。宇髄は名前が好きだった。恋を、していたのだ。お館様に対する感謝の念や、他の柱たちに抱く尊敬の念、3人の嫁に対して抱く深い情愛とは、また別のもの。ホワホワとした温かな心だけでなくて、焦燥にも似たじりじりとした焦がれるような想い。優しい気持ちだけでなくて、獣のような凶暴性を秘めている。その笑顔をずっと見ていたくて、出来れば独り占めしたくて、彼女の描く絵全てが宇髄になればいいと。我儘にも程がある欲がこの胸の奥底には眠っていた。
 だが、それは目覚めることなく、終えてしまった。紛れもない、名前自身の死で。終えてしまったくせに、この想いは育っている。確実に。種を蒔いた本人はもういないのに。厄介だ。本当に。育った花はどうすればいい。送る相手のいなくなったこの想いは、どこへ向かえばいいのだ。 
 笑う彼女の口元にそっと口を寄せる。以前甘そうだと想像していた彼女の唇は、無機質で血の味がした。

 ずっとずっと遠いいつか。気が遠くなるくらいの先の未来。もし、また彼女に会えたなら。この問いに答えを示してくれるだろうか。


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