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ひっくり返せ世界



 この世には、人ならざるものが存在している。その事を知ったのはこの街に来るちょっと前の話だ。

【おぼぼぼぼぼぼぼ】
「ひぃぃぃいい!!!」

 名前は丁度今その人ならざるものに追いかけられている最中である。ピチピチの女子中学生に成長したこの物語の主人公たる彼女は、人生最大のピンチを迎えていた。
 校内の隅から隅を掻い潜っていくように、ドタバタと駆け抜ける。階段をジャンプして一気に降り、教室に並べられていた机を倒して障害物を作り、教室の通路側の窓を蹴破り廊下に飛び出る。元々運動神経はいい方であった。しかし、とあるラノベに出てくる新宿の情報屋に厨二心を擽られてしまい、つい最近真似したばかりの似非パルクールがなかったら、今頃名前は背後の怪物にパックリと食べられていたかもしれない。それだけ必死だった。

「もうしつこいってば!!」

 人ならざるもの。
 黒くてモヤのかかったもの、なんかナメクジみたいなもの、大きな目がぎょろぎょろと動いてるもの、電柱の上で流れ行く人の波をねっとりとした視線で眺めるもの。それは、愛嬌のあるものからグロテスクなものまで様々な形で、あちこちの場所に存在していた。
 それが普通のものでは無いと認識したのは、名前にしか見えていないことに気づいた時だ。同じ屋根の下で暮らす家族も、共に学校までの道のりを歩く友人も、変なものを引っつけた近所の人も、それに気づく様子もなく平和に過ごしている。名前がそれを指摘しても、何言ってんだこいつか、神様の次はそれかと、家族までも呆れた目で見られるのがオチだった。
 しかし、やはり祖母だけは違った。祖母は怯える名前に、そういうものとは目を合わさず知らぬふりをしていなさい、と。助言を与えてくれた。名前も人ではないそれらに嫌な予感を覚えていたので、祖母のいいつけを素直に実行していた。それが功を奏したのか、人ならざるものと関わりを持つことはこれまで無かった。

 だというのに、現状がこれである。
 名前も何故こうなったのかは分からない。いつも通り学校に向かい、寝惚けながらも授業を受け、部活を終えて友人と帰路に着いた時、ふと今日出された宿題を教室に忘れたことを思い出したのだ。しかも、居眠りばかりをしている名前を目の敵にしている教師が担当している科目。顔面蒼白。今取りに戻る手間と明日のネチネチ説教コース。そのうちのどちらがマシかなんて、名前の中で答えはあっさりと決まっていた。
 手早く学校に戻り、まだ開いていた教室にそろそろと侵入する。机の中にあった課題を手に取り、あとは帰るだけだと思っていたら、目の前をタワシみたいな毛むくじゃらの生き物がころりと転がってきた。そして、名前を目にした瞬間、毛を伸ばしながら追いかけてきたのだ。まさに阿鼻叫喚だ。
 机を投げつけて応戦し、脱走を試みるが、それがなかなか上手くいかない。人ならざるものは、いつまでも名前の背後にぺったりと張り付いて追いかけてきた。そして、かれこれ部活で草臥れた身体に鞭を打って走り抜けること数十分。もはや体力勝負だった。それももう限界に近い。
 こうなったら、仕方ない。名前はスカートのポケットから小袋を取り出した。それは、長く使用しているからか、所々解れがあったり、シミが着いたりしていてボロボロだった。それに、祈りを込めるように、強く握りしめた。丸っこい硬さが手のひらに広がる。

「もー!勘弁してーーー!!」

 3階の窓を蹴破り、ぴょーんと飛ぶ。外に飛び出した体は、そのまま重力に従って下に落ちていく。名前は頭を抱え込んで、そのまま地面に吸い込まれて行った。
 ゴキ、やら、ぐしゃ、やら下から嫌な音が響く。そして、下半身を中心に、痛みが広がり、汚い呻き声を上げた。その場に蹲り、痛みに耐える。足がどうなっているかなんて見たくない。嘘、ちょっとだけ見えた。変な方向に曲がって、少し潰れている。あんまり過ぎる光景に名前は痛みに耐えながら泣いた。

「早く、治して、家に……」

 家に帰って?それでどうする?そんな疑念が頭を過り、地面をはいずる動きを止める。それが、多分良くなかった。
 黒い影が名前の体を覆う。それは少しずつ大きくなっていき、背筋にピリッとした電流みたいなものが流れた。この場から離れろと本能が警鐘を鳴らす。名前は腕の力だけでその場からぴょんと飛び退いた。

【マッテテテテテテテ】
「いぎぃ!?」

 けれど、それは遅かった。潰れた足だけが名前の動きについていけず、上から降ってきた毛むくじゃらに踏み潰されてしまったのだ。鋭利に尖った毛が足を貫く。鮮血が飛ぶ。それと同時に身体中からどっと汗が噴き出た。黒眼が上を向くほどの痛み。息をするのも忘れてしまう。

【おぼ、おぼぼぼ、おぼぼ】

 毛むくじゃらは笑っている。1つしかない目が弧を描く。顔がどこにあるのか、どこからどこまでが顔なのかよく分からないが、おそらく腹の立つ顔をしているのだろう。弱い獲物を捕まえて、これからどういたぶってやろうかとほくそ笑んでいる。
 それじゃあ、これから自分はどんな目に合うというのだろう。頭を過ぎるのは悪い想像ばかり。それが間違っていないことは分かっている。その中でも一等に最悪なのは、"死ぬ"ことだ。
 手に握った小袋が熱を持つ。透明なあの瞳が海に沈んでいく。は、と息を吐いた。

「だ、れが」
【おぼ】
「死ぬかっての!!」

 名前は足を引っ張った。するともちろん毛に突き刺さった肉はブチブチと音を立てて、ちぎれていく。それに気を留めることなく、名前は力を入れて足を引っ張った。
 ああ、痛い、痛い、痛い、とんでもなく痛いとも!でも、そんなことよりも死んでしまう方がなんと恐ろしいことか。生きる為ならば地獄のようなこの苦渋も耐えてみせよう。
 だって、だってね。

「約束したんだよ!」

 絶対に死なないって。

 脳裏に焼き付いた白い影法師が笑う。その瞬間、足が完全に切り離された。それを認識してすぐ、名前の体内に縦横無尽に巡っていた"それ"は足に集中する。その間、数秒。名前は腕に力を入れる。それと同時にでこぼこにな断面を見せていた足は、そこから再度肉を生やした。
 再度形となった足で地を蹴り、名前は毛むくじゃらと距離を開ける。傷一つなくきれいな状態で揃えられた名前の両足を見て、1つしかない目は丸く開かれていた。

「何回でも足を潰してみなよ!その数の分だけ、この足を生やしてみせるから!!」

 ぐっと拳を握り、挑発する。それに、毛むくじゃらも気がたったのか、さらに奇声を上げ、その毛を名前に向けようとした。
 その時。

「随分と面白いことになってるね」

 凛とした声。それが降ってきたのと同時に、毛むくじゃらの丸っこい体は真っ二つに割れた。その裂け目から顔を出したのは、重々しい刃。裂け目が開いて出来た隙間から、綺麗な女性が現れた。
 今空の上で笑っている月みたいな色した髪が、夜風に揺られている。頑強な斧を細身の身体で軽々と扱い、肩に乗せた。切れ長の瞳が探るように、名前を捕らえる。どき、と名前の胸が鳴った。不意に誰かの心に触れる。そんな女としての色気が、彼女からは漂っていた。

「自分で足を切って生やしたのか。大したものだね。反転術式をそこまで器用に使いこなす術師は初めて見たよ」
「え、はんてん……なに……?」
「おや、君、もしかして一般人かい」

 こてり、と。女は首を傾ける。長い睫毛が驚きに震えていた。
 突然目の前に現れて、変な怪物を倒して、変なことを口にしている。名前は戸惑う他なかった。今自分の置かれている状況についていけない。目に見えてわかるように混乱していた。

「しかも、変なものも持ってるね」
「え、これ?」

 彼女は名前の手に握られた小袋を指さす。艶のある爪が描く軌跡に目を奪われた。綺麗な人はその爪の先までそれを体現しているらしい。

「呪具レベルになるくらいにまで呪力が込められている」
「じゅ、?」
「下級の呪霊なら寄り付かないだろうけど、この呪霊は変に力があったから逆に刺激しちゃったんだろうね」
「……あ、あげないよ?神様から貰った大切なものだもん!」

 この小袋の中には、名前の大切なものが入っている。神様から貰ったガラス玉。名前の生きる指針。お守りみたいなものだ。
 それを、誰にも譲らないと言わんばかりにぎゅっと両手で握りこんで、女の視界から隠そうとする。すると、彼女はますます愉快そうにクスクスと笑っていた。

「君、いいビジネスの話があるんだけれど、興味はないかい?」
「え?」
「君の言う神様に関わることかと思うのだけれど」

 名前の目の色が変わる。それに、女は笑みを深めた。
 この出会いが、名前の世界をひっくり返すことになった。普通の生活を送る、普通でなくなった少女の目の前に、新しいレールが敷かれた。行先は何処だろう。底は暗くて見えない。
 でも、そこに、白い神様がいる気がした。