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冬に埋める


 ブチブチと草を引っ掴んでは抜く。それを繰り返していけば、いつの間にか名前の周りから草は無くなってしまっていた。それに何とも言えぬもの寂しさを覚えた。
 無我夢中だったためか、爪の先には土が入り込んでしまっている。人差し指の爪には歪なヒビが入っていた。それをなんとなしに眺めて、名前は下唇を引っ張る。
 天気は曇り。空の青は見えない。重々しい色をした雲は、まるで名前の心をそのまま空に映しこんでいるかのよう。
 名前は今日も川の流れる土手に座り込んでいた。座り込んだ場所は昨夜の雨で少し湿っていたのか、お尻の部分が少し濡れてしまっている。あとで母親に怒られるかもしれないなあと他人事のように感じた。さらさらと流れるせせらぎの音は、道行く人の話声のように名前を害することも、利することもない。それは、名前に一人ぼっちじゃない気分にさせてくれる優しい音色だった。

「悟くん…」

 神様の名前を呟く。それでも、あの白い影はいつまでたっても、名前の元に来てくれやしなかった。灰色の雲に隠れているこの空は、きっと名前を見つけてくれやしない。あのガラス玉に、名前の姿は映らない。名前は抱え込んだ膝の上に頭を乗せて、その身を小さくした。

 あの日、意識を失った名前が目を覚ました時、目に入ったのは美しい青でもなければ、手を伸ばしたくなるほどのまっさらの白でもなかった。ただ、いつもと同じ。見覚えしかない我が家の天井が目に入った。名前は毎日そうしているように、目を覚まし、ベッドから起き上がった。
 寝ぼけまなこでぼうっとしていると、部屋に祖母が訪れた。そして、慌ててこちらに駆け寄ってくるものだから、こんな俊敏に動く祖母の姿は初めて見たと、能天気にも少し驚いた。シワシワの目元を更にシワシワにして、よかったと零す声は、空気に溶けて消えてしまいそうなほど、弱々しいものだった。あとから聞いたことだが、名前は数日間ずっと意識を失ったままだったらしい。そりゃあずっと面倒を見てくれていた祖母にここまで心配をかけるわけである。
 しかし、目を覚ました名前が最初に口にしたのは、心配してくれた祖母への謝罪でも、お礼でもなく、「悟くんは?」という問いかけだった。祖母は何も言わなかった。ただそっと目蓋を伏せて、別れの挨拶はしておきなさい、と告げた。
 なんで、と反射的に尋ねる。予想にもしていなかった発言に、名前は純粋な疑問を抱いた。名前は彼のそばにいると心に誓ったのだ。そばにいたいなら離れるなと、どこにも行くな、と。彼の祈りにも似た願いを裏切る訳には行かなかった。
 だが、祖母は叶わぬ理想を変えようもない現実で上塗りにしようとする。

「名前、お引越しするのよ」

 お引越しってなに。その問いは以前したことがある。
 数年前仲良くしてくれていた近所のお姉さんがお引越しで遠くに行ってしまった。名前は行かないで、と泣きじゃくった。それでも、小さな子供が何か出来るはずもなく、お姉さんは潤んだ目でサヨナラと言った。夕日に溶けていく大きなトラックと、車に乗り込むお姉さんの姿は今でも覚えている。
 次は、名前だ。名前が彼を置いて、ここから離れることになる。お姉さんみたいに我慢はできないからきっと泣きながら、サヨナラを言うことになる。
 やだ。そう口から漏れたワガママに、祖母はただ名前の頭を撫でて、優しく抱きしめてくれた。

「帰らなきゃ」

 回想から現実に戻ってきた名前は元気よく立ち上がった。濡れたお尻部分を叩けば、先程まで抜いていた草がパラパラと零れ落ち、夕焼けの風に攫われていく。
 厚い雲からうっすらと差し込む温かな橙色の光が、でこぼことした建物の隙間へと沈んでいくのが見えた。夜の来訪を告げる合図だ。それを一度瞼の中に閉じ込めて、名前は帰路に着いた。
 明日は晴れるらしい。母親がいい引越し日和になりそうだと、悪意なく笑っていたのを思い出した。名前は悪い子供だから、雨が降ってしまえばよかったのに、と石ころを蹴る。だから、神様も名前の元に来てくれなかったのかもしれない。
 どうしようもないことなのだ。名前のような幼い子供では。自分一人の力で生きていけない弱い生き物では。出来ることだってかなり制限されている。宛もなく風の吹かれるがままに流れゆく雲みたいに、自由に生きているようで、そうでない。

「サヨナラできなかったな」

 もう既に滲み始めた視界をぐしぐしと袖で拭く。鼻を啜り過ぎて、つんと痛くなった。流れる涙を慰める空の青も、拭ってくれる温かな陽の光も、今は遠い。
 彼の手は記憶の中でしか、名前の頭を撫でてくれなかった。





 日が沈む。小さな背中はとぼとぼと去りゆく。哀愁の滲んだその背中を、1人の少年は見つめていた。いつまでも、いつまでも。見えなくなるまで、ずっと。ここ最近はずっとそうだった。毎日のように懲りずにこの川辺にやってきては誰かを待つ寂しい後ろ姿を、彼は遠くから同じように眺めていた。
 焦がれる。惹かれる。惜しむ。逸らす。その眼差しは瞬きする度に様々な感情を乗せて、言葉にならないそれを雄弁に語る。それはきっと誰にも聞き届けられることのない、神様の本音だ。

「悟くん…」

 その小さな唇が自身の名を形作る度に、どれだけ彼女の元に向かいたかっただろう。項垂れたその頭に手を伸ばしたかっただろう。でも、そんなことは許されないのだと。そのような権利は最初からこの手に握らされていなかったのだと。彼は自身の掌を強く握りしめた。爪を立てて、血が溢れ出るまでに。

「悟様」

 背後からかけられた声は、あまりにも無機質だった。ただ言葉を音に変換しただけの声。感情豊かに語りかけてきた彼女とは大違いだ。その落差に寒気を覚える。彼を取り囲む世界はいつだって極寒だ。だから、好きじゃなかった。この極寒に彩りを与え、春を呼んでくれたのは、紛れもない彼女自身であった。
 だから、彼は決してそちらを振り返らなかった。その網膜に自身の犯した罪を焼き付けるのに必死になっていた。

「何だ、鈴蘭」
「手筈通り彼女はこの街から出ることになっています」

 しかし、そんなそっけない態度にも女は慣れているのだろう。なんせ付き合いは随分と長い。彼が生まれてすぐの頃から世話役を務めているくらいなのだから。艶のある黒髪を上で纏め、手本と言わんばかりの綺麗な形で着物を着ている。氷漬けになったみたいにその表情は1ミリも動くことは無いが、恐らく見目は美しい方に入るのだろう。

「これでよかったのですか?」

 その問いには、なんの感情も込められていない。だからこそ、曲がりも捻りもせず、ただひたすらに彼の心に深く突き刺さる厄介な代物だった。
 少しだけ言葉に詰まる。それは、ほんの一瞬の躊躇いだった。普通であれば、誰もそれに気づくことはないだろう。だが、呪術師らしく目敏く賢く生きている背後の相手には、恐らく気づかれているはずだ。

「俺は、神様みたいに優しくない。だから…」

 これでよかったのか、なんて、愚問だ。思わず笑みが零れる。ふふ、と口から漏れた笑いは、冬の冷たい空気のように何処か乾いていた。積もった雪は彼の足を埋めて、身動きをさせなくする。それに対して、何も思わない。何も恨まない。何も感じない。

「きっとこれでいい」

 土に埋めた種。どんな花を咲かせるのだろう、と大事に水をあげていた。そして、ようやく顔を出し始めた芽を、彼は自身の手で踏み潰す。
 それが、ただ酷く悲しく思えた。