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その命を縛るのは


 今までぼんやりとしていた死の輪郭をくっきりと捉えた。ニュースで顔の知らぬ誰かの死を見ても、他人事のように感じられていたけれど、それはきっと間違いだった。見ないふりをしているだけだった。生の始まりは死の始まりと同義だ。だって、生を突き詰めた先に待っているのは、死なのだから。
 だから、これは生きていれば当然のこと。それが、早いか、遅いかの違い。そう達観できるほど、名前は大人じゃないし、生きることに執着がない訳でもない。世界で一番長く生きたいし、その過程でしたいことはもちろん数え切れないくらいたくさんある。悔いがないなんて、そんなカッコつけた言い方なんてできない。色んな形をした未練がこの小さい身体からどぷどぷと溢れ出す。
 それは、恥ずかしいことだろうか。そう思うことは、罪なのだろうか。違うよ、と耳元で告げるものはきっと自分の声だ。死にゆく自分を憐れみ、肯定したがる名前自身の声。乾いた涙がぽろりと落ちていく。
 だって、死にたくなんてなかった。ラムネを2個引っ提げて、河原に座り込んでいただけの名前は、まさかこの日にその命を終わらせることになるなんて、知らなかった。漫画みたいに虫の知らせなんてなかった。そんな予感は一欠片も感じなかった。
 でも、何処か追い詰められたような空気を纏った男が、名前に死を匂わせた時、彼も同じような顔をしていた。何かを酷く恐れ、でも抵抗するのを諦めて、誰にだって与えられる平等な死を受け入れている。惨めで、可哀想で、人として正しくない顔。それを見た瞬間、そういうものなのかなって納得しないといけない使命感のようなものが芽生えた。聞き分けが良すぎるって、誰もいないこの場では名前を叱ってくれる声も掻き消されてしまったけれど。
 
「名前…!!」

 赤い視界の中、目を刺すような白が視界の中に飛び込んできた。雨の降りそうな空が名前を必死に見下ろしている。綺麗な顔がぎゅっと真ん中に寄せられ、息をするのを忘れた生き物みたいに、とても苦しそうだった。世界は朧気に遠くなっていくのに、彼の姿だけは何故か鮮明に、この網膜を酷く焼き付けてきた。
 小さな手が、汚れを知らなさそうな手が、名前に触れる。やめなよって抵抗したかったけれど、びっくりするくらいそれは適わなかった。顔から胸にかけて走る肉の断面を、震えた指が謎る。

「痛い、だろ。……これじゃあ、もう……」

 ポツリと零された言葉はあまりにも弱っていて、名前の耳に届かなかった。必死にその薄い唇を噛み締めている。
 でも、名前は全く痛くなかった。痛かったのは、この身が裂かれた瞬間だけだった。それ以降は色々なものを通り越して、何も感じなかった。神様が最後の最後に名前を救おうと、痛みを取り除いてくれたのかもしれない。だから、それを名前の代わりに引き受けてくれている神様は今、泣きそうなくらいに痛々しい顔をしているのだ。優しいなあ、と思った。

「俺のせいだ…」

 神様は全てに絶望したように、そう呟いた。力の使い方だけを知っている彼は、誰かを守る方法は知らなかった。だって、これまで圧倒的な力を見せれば、弱いだけの雑魚はそれだけで震え上がり、地に伏せてくれたから。だから、今回もそれでいいと驕っていた。彼は生まれながらの強者であるからして、死の淵に立たされ後戻りができない弱者の心が分からなかった。理性がいつでも彼を生かしてくれていたから、それを脱ぎ捨て自暴自棄になる人の成れの果てのことなど、思考の隅にも存在しなかったのである。それは、単純に知らなかっただけ。知らぬことを知る経験がなかった。幼すぎるが故に。まだこれから知っていく道の途中であったが故に。
 それで、白百合は折れてしまった。力を入れて握り締めれば、その細っこい茎が萎れてしまうことを、この時になって神様は初めて知ったのだ。

「ごめん、……名前、ごめん…」

 神様は何故か謝っていた。もはや感覚の失った名前の手を強く握って、その白を赤く汚して。なんで謝るのだろう。それを考えることも、問うことも、もうできない名前には分からなかった。
 でも、ただ泣いて欲しくないと思った。あの可愛らしい笑顔でいて欲しいと。だって、空はどんよりと曇っているよりも、澄み渡った晴れの方が、名前はずっとずっと好きだったから。

「……さと…、るく……」

 喉を震わせる。カッと熱を持ったみたいに痛みが喉を灼いたけれど、それでもその名を呼んだ。長い睫毛にぶら下がった雫が、開かれた傷口を癒すようにポタリと落ちてきた。それで十分だと、心の底からそう思えた。単純だって笑いたかったし、笑って欲しかった。

「とも……だち……なっ…て…」

 途切れ途切れの掠れた声でも、神様はそれが何と言おうとしているのか、気づいたらしい。彼の握る手が強くなる。見開かれた瞳に遠雷を呼ぶ。噛み跡の残る唇は、ひく、と引き攣って、迷いの果てに躊躇しながらも、漸く開かれた。

「なら、死ぬな」

 握った手を持ちあげる。それに額を擦りながら、祈るように、懺悔するように、懇願してきた。
 名前はその光景を何処か夢見心地で眺めていた。だって、おかしくて仕方がなかったのだ。神様は彼であるはずなのに。これではまるで名前が神様のようではないか。

「俺のそばにいたいのなら、離れるな」

 子供のような駄々だ。でも、彼の眼差しは何処までも真剣だった。本気でそう願っている。それは、じわじわと名前の身を、心を、絡みとっては縛っていく。

「生きろ。生きてくれ、名前。何処にも行くな」

 今にも切れてしまいそうなか細い糸。それを必死に手繰りよせるような声だった。神様が泣いている。しとしとと音を立てることも無く、湿った空気がただこの場を浸した。
 痛い。痛みは感じないはずなのに、名前は切り裂かれたこの身の奥が傷んで、痛んで、仕方がなかった。彼の流した涙が足元を攫う波のように、名前の心を撫でていく。
 額に当てられていた手を無理に動かして、そこをそっと撫でるように擦った。白が赤に塗りつぶされる。彼は夢から覚めたみたいに、そのまなこを名前に向けた。

「わ、かっ……た……なか、……ない……で」

 その瞬間、名前は先程まで外に溢れ出していた未練みたいなものが、内側に取り込まれていく感覚を覚えた。それが、名前の体と心を縛る彼の言葉と共に混ぜ合わされ、ぐるぐると巡るみたいに回る。血液のように、頭の先から、手足の指の先まで。沸騰したかのように体は熱くなり、でも意識だけはやけにくっきりと明確な形として現れる。

 死なない。彼が死ぬなと言うから。生きる。彼が生きてくれと乞うから。離れない。泣いている彼のそばにいたいから。

 それを、まるで本能に刻み込むように、そうあるべきだとこの魂に消えない足跡を残すように、何度も何度もそう心の中で言葉にして叫んだ。

「……これは、反転術式?」
 
 溢れ出した血は凝固し、少しずつ傷口を塞いでいく。損傷した内蔵は機能を取り戻し、精一杯に動き始めていた。まるで、枯れかけた草木が水を浴びたことで、精一杯その芽を伸ばしていくみたいに。過去を変えるために、時間を巻き戻していくように。彼の額を撫でる手は、熱を取り戻していった。

「だ、いじょ、うぶ…さとるく…ん」

 彼女は笑った。いつもみたいに、神様と呼び慕う声で。狭い世界の中で綺麗なものしか知らないであろう顔で。子供らしく、無邪気に。どこまでも、まっさらで、真っ直ぐで、果てがなく、非道だった。

「わたし、しなないから」
 
 腐った信仰は神の息の根をも止めてしまうのだろう。心の髄まで陶酔しきったその言葉は、もはや呪いだった。