最初に感じたのは、子守唄のような涼やかな水のせせらぎだった。
 そしてふわりと包み込んでくる甘く柔らかな匂いに、このまま何も考えずに眠り続けたくなる。
「……――ンク、起きて」
 すっかり日常の中に馴染んだ声が耳朶を打つのを、リンクは心地よく聞いていた。恐らくは騎士学校に遅刻しないように幼馴染が起こしに来てくれたのだろう。
「リンク!」
「……うーん、後5分……」
 目を閉じたまま、身体を揺すってくる手をそっと振り払う。
「こんな時まで寝ぼすけっぷりを発揮しないでよね」
 呆れた声と共にピシッと額を何かで弾かれて、その痛みに目を開いた。すると視界一杯に見慣れた顔が飛び込んでくる。その後ろには茜色に染まった空があり、どう見ても学校に行くような時間ではない。
「あれ?」
「おはよう」
「……フィア?」
「何も分かってなさそうな顔ね」嘆息しつつも、その顔はどこか優しげに微笑んでた。そんな顔をしたフィアを見るのは何だか久しぶりのような気がした。「……気分はどう?」
 尋ねられて、リンクは我が身に起こった出来事を、血の巡りがいまいち良くないのか、あまりすっきりしない脳内で顧みる。
 確かギラヒムとかいう男と戦って――。
「……ああ、そうか」
 横たわっていた身体をゆっくりと起こして、頭に手を当ててかぶりを振る。一度思い出そうとすれば芋づる式に記憶が甦ってきた。
「意識の方はしっかりしてきたみたいね。身体の方は痛いところはない?」
 そういえばあれだけ大怪我を負ったにも関わらず、何の痛みも感じない。
「傷がなくなってる」
 不思議に思って刺された左肩と手のひらを確かめると、まるで最初から怪我なんて無かったかのように傷ひとつない綺麗な肌があった。しかし怪我を負っていたことを証明するように服と手袋はボロッと破れていて、その周囲は血で赤黒く染まっている。
 フィアがクスリを使って治してくれたのかとも思ったが、それにしては怪我の治りが良すぎる気がする。
「そんなに効果良かったんだ、あのクスリ……」
 ショップモールで20ルピーくらいで買ったものだったが、そこまで効果があるものとは思っていなかった。
「クスリの力だけじゃないわ。ここには妖精がいたから、そのおかげね」
 フィアが首を振って補足するが、何故かその顔はほんのり赤い。夕陽のせいかもしれないと、それよりも気になったことがあったので、リンクは深く考えずにそう結論付けた。
「妖精?」
「妖精は傷を癒す力があるから。運良くこの泉の周辺に生息してたの」
 言われてみて、リンクはそこで初めて周囲の景色へと目を向けた。するとそこには楽園と言われれば信じてしまいそうな光景が広がっていた。
 透き通った泉に、その周囲に咲き誇る色とりどりの花。それに群がり飛び交う美しい蝶。泉へと滾々と降り注ぐ滝。
 最初に聞こえたせせらぎの正体はこれだったのかと納得しつつもリンクはフィアの方へと振り向く。
「ここは何処なんだ?」
「天望の泉。あのギラヒムと戦ってた部屋の扉は、ここに繋がっていたの。ゼルダはここで身を清めて行ったのよ」
「……ゼルダは、もうここにはいないんだよな」それはただ事実を確認するだけの呟きであり、そこに落胆の響きはなかった。心配する気持ちはあるが、身を苛むような強烈な焦燥感はもう感じない。「ゼルダの捜索は振り出し、かな」
「大丈夫よ、手がかりはあそこにあるわ」
 そう言ってフィアがすっと指で示した先には、女神像の祭壇があった。



「傷は治っても失った血は戻らないんだから、無理しないでよ」
 祭壇に向かって歩き出したのはいいが、貧血のせいかふらりとよろけたリンクを支えながらフィアが言う。その甲斐甲斐しい態度に、口からはつい余計な言葉が零れ落ちる。
「何か急に優しくなったな、フィア」
 その言葉が意味するのは、契約を結んでから豹変したフィアの態度のことについてに他ならない。
「……そりゃ、怪我人には優しくするわよ」
「だったら、いつも怪我人でいるのも悪くないかな」
 あえて核心から逸らそうとするフィアに、ついリンクも意地悪な気持ちになって心にも無いことを呟くが、
「馬鹿言わないで!」
 フィアの瞳を潤ませて声を荒げるという、予想から大きく外れた反応には目を丸くした。てっきりあっさりと流すとのかと思ったのだ。
「……あんな思いをするのはもうこりごりなんだから」
 ぎゅっとリンクの服の裾を握り締める指先が白くなって震えているのを見て、リンクは即座に馬鹿なことを言ってしまったと後悔した。
 ああ、そうだ。フィアはあのとき、泣いていたんだった。
「……ごめん」
「ううん……私も、ごめん」
 俯いて、弱々しく首を横に振る姿に、胸が締め付けられるように痛んだ。
 もしかして、フィアにとってとても辛いことを暴こうとしているのではないか。知りたいと思う気持ちはあくまでリンクのエゴだ。フィアの豹変した態度に傷付いたのは確かだが、こんな風に弱りきったフィアを傷付けてまで今直ぐに知ろうとする必要はない気がした。
 きちんと向き合いたいと思う。何かが彼女を苦しめているというのなら、助けたいと切に願う。しかしその思いが彼女を傷付けるのなら、そっと触れずにいてやりたいとも思う。
 願っていることは単純なのに、いざ行動しようとすると、どうしてこうも複雑でややこしくなってしまうのか。リンクにはそれが酷くもどかしい。
「理由は……フィアが言いたくなるまで、聞かない。だから、そんな顔しないでよ」
「そんな顔って、どんな顔よ……」
 フィアの俯いた顔がわずかに仰のく。
 今にも滴が溢れて零れ落ちそうなほど潤んだ瞳に引き寄せられるように、リンクはそっとフィアの頬へと手を伸ばした。白く柔らかな肌に触れてから、ふと怪我をしていた手で触れてしまったら血で汚れるのではないかと気付く。しかし血はすでに乾いていて、フィアの頬が赤く濡れることはなかった。そんな些細なことにほっと胸を撫で下ろしながら、リンクは困ったように微笑んだ。
「今にも泣きそうな顔だよ。もうあんな風に怪我しないように強くなるから、泣かないで」
「……約束よ」
 頬に触れるリンクの手の上に、フィアの手がそっと重ねられる。
 その温かさに、人も精霊も些細な違いではないのかと錯覚を抱きそうになる。勿論そんなはずが無いということは、分かっているというのに。
 すぐに自分の都合のいいように解釈しようとする己の思考回路に内心苦笑しながら、仕方ないとも思った。
 何せこの少女は、リンクにとって――。
「……約束するよ。だからフィアも――自分を偽らないで欲しい。僕は人とか精霊だとかじゃなくて、幼馴染としての君に助けてもらいたいんだ」
 躊躇いがちに、それでもフィアの頭が確かに縦に揺れるのを確認すると、リンクは小さくありがとう、と呟いた。


  

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